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8-2


「ちょっと出かけて来るぞ」

 俺はソファに背中をもたれたまま寝息を立てているアキの小さな肩を優しく揺らし、耳もとで囁いた。

 時刻は昼の十一時。きのうは深夜までネタ作りに没頭し、俺はいつのまにやら床に座ったまま寝ていたらしい。この様子だと、アキもネタを修正しながら力尽きたようだ。

 幸い今日はバイトの公休日。ケンからの呼び出しの電話で目を覚ました俺は、バイト以外での外出の許可を得るのは骨が折れそうなので、アキが寝ている間に行ってしまおうと考えた。しかし、突然いなくなるとまた以前みたいなことになるので、やっぱり報告だけはしておくことにした。

「ん。どこに?」

 ぱちっと目が開く。いつもは目覚めが悪い癖に、こういう時に限って。

「じゃあ、行ってきまーす」

 そそくさと玄関へと歩くが、アキがベッドから落ちたのか、背後からどすんと鈍い音が聞こえてくる。

 靴を履く動きを止め、「おいおい、大丈夫か」と振り向いたが最後。ゾンビのように腕を伸ばしながらふらふらとやってきたアキが、俺の両肩を鷲掴みにした。

「私を置いて。どこへ」

「友達の家だよ。すぐに戻るから」

「不可。そんな時間はありません。ネタ作りをしましょう」

 やっぱり……。でもケンからの電話が「どうしても渡したいものがあるからすぐに来てくれ」という内容で、それが何なのか気になる。

「せっかく今日は休みなんだし。また夜にやるからいいだろ。な?」

 ふくれっ面で俺を睨むアキ。

「そういう問題じゃありません。とにかく駄目です」

 そこを何とか、と両手を合わせて頭を下げる。正直に言うと、一日中ネタ作りをするのはきつい。昼間くらい、ここから脱出したい。昨晩も容赦のないアキのこだわりにさんざん振り回され、疲労困憊なのだ。

「……仕方ないですね」

 お、赦してくれるのか。案外理解があるじゃんと胸をなでおろしたのだが、そんなに都合よくいくわけはなかった。

「私も行きます。少し待っててください」

 もちろん、アキを連れてケンの家に行けるわけはない。俺と知り合いなのはおろか、一緒に住んでいるのがバレてしまったら……。アキが事務所を辞めてライブという舞台から姿を消して以来、すっかり地下アイドルに衣替えしたケンだが、未だにアキのことは「またネタみてえ……どこかの事務所に移籍したのかな、やっぱ可愛かったよなー……」と未練たらたらで話題にするのだ。

 ケンと会う時は、どこかで待機してもらう。そう条件付きで、俺はしぶしぶアキと出かけることにした。

「あの……どっかでサングラス買わない? それか、帽子とか」

 下北の路地で人ごみの中を進みながらそう提案するが、アキは黙って首を振る。ほぼすっぴんのまま後ろを歩くアキは、周囲の目を気にする素振りもない。朝は顔を洗って髪をくしで軽く解かした程度で、服もTシャツにチノパンのラフなスタイルだ。

 それでも目鼻立ちの整ったその顔は、十分すぎる程目立っている。

 こんな真昼間堂々とふたりで歩いて。もし知り合いかアキのファンに見つかったら……と思うと、気が気ではない。

「いざかやたつみ。ビューティーサロンエッグ。カラオケ太郎……」

 大きな目をぱっちりと見開いて、目に入る看板の文字をぶつぶつと読み上げながら歩くアキ。

「それ、癖なのか?」

 俺の問いかけには応えず、「あっ」と呟いて気まぐれにゲームセンターの中へ入って行く。

「おいおい。そんな時間ないぞ」

 十一時半には行く、と伝えてある。いくら気の置けない友人と言えど、人を待たせるのは嫌いだ。ここは……ケンとよく行くゲーセン。慌てて後を追いかけると、アキはラッコのぬいぐるみが釣り下がったクレーンゲームの前で足を止めていた。

「欲しいのか……それ」

 首をぶるぶると振る。でも、その顔はどう見ても欲しそうにしている。

「分かったよ。ちょっとだけだぞ」

 アキは財布を持っていない。渋々ポケットに手を突っ込んで財布から小銭を取り出すと、数百円を台に投入。

 しかし……取れない。掴んで持ち上げるまではいけるのだが、穴へと運んでいる間にするりと抜けて落ちてしまう。

 目を血走らせたアキが、何度も何度も挑戦する。しかし、取れそうで取れない。渡した分を使い切ってしまい、「はい」と手を差し出して俺に小銭を催促するが、財布の中に小銭はもう残っていなかった。

「ちょっと待ってな。両替してくるから」

 こんなことしてる場合じゃないのに……と心の内でぼやきながら、両替機を探して歩き回るが、なかなか見つからない。

 ポケットの中が振動し始める。ケンから電話だ。

「もしもし? ちょっと聞いてくれよ!」

 通話が繋がるなり、興奮した口ぶりが聞こえてくる。何だか騒がしい場所にいるみたいだが、一体どこだ?

「おい。今家で待っているんじゃないのか?」

「違うよ、ゲーセン。待っている間にどうしても行きたくなったんで、来るまでにちょっくら時間潰そうかなって思って。そんなことより、落ち着いて聞けよ。いいか……?」

 嫌な予感。しかし、すぐさまそれは確信へと変わった。

「姫が……いるんだよ今、ゲーセンに! 事務所を辞めて以来、行方不明になっていたあの姫が。ラフな格好でめっちゃ可愛い。クレーンゲームのとこにいるから、お前も今すぐ来いよ!」

 やばい。……行けるわけがない。

「お前……今どこだ? ん? もしかして同じゲーセンか?」

 バレた。どうするどうする。とりあえず両替機は見つけた。千円札を吸い込ませて、じゃらじゃらと百円玉をゲット。いやいや。こんなことしてる場合じゃない。

「あー待て待て。お前は……今どこにいる? どこからアキ……姫を見ている?」

「でっかい肉まんマンの像の陰からだよ。姫、誰か待ってんのかな? ずっとあそこから動かないぞ。チャンスだ」

 チャンスじゃない。ピンチだ。俺は小銭を手の中に握りしめながら、慎重にケンを探した。アキの視界に入らないように、物陰から物陰を伝いながら。

「おっ! ショウ、こっちこっち!」

 ケンを見つけた。肉まんマンのおしりに頬を張りつけながら、クレーンゲームの前のアキの方を指さしている。幸い、まだアキには気づかれていないようだ。

「馬鹿、声がでけえ。……ったく、何してんだよ」

「いいからいいから」

 ケンに呼び込まれ、目立たないように腰をかがめ、二人でひそひそと会話を交わす。

「どうする? 声かけるか?」

「……いいや、やめとけよ。プレイベートだろうし」

「ちょっと話すくらいならいいだろ。握手とか、うまくいけば写真も。普段ファンサとか全然しねえから、これは激レアだぞ」

「待て待て。いいから落ち着けって。やっぱやめとこう」

 必死に止めるが、ケンは今にも飛び出して声を掛けに行きそうな程に目が血走っている。

「いや、行く。玉砕してくる」

「怒られるぞ。やめとけって……」

 力づくで両肩を抑え、肉まんマンのおしりに磔にする。こうなったら、意地でも行かせねえ。どうにかしてケンをゲーセンから連れ出して、あとでアキと合流しなければ……。

「ねえ。そこで何してるんですか」

 フロアに反響するアキの声。それは絶望の合図だった。

「えっ、俺? 俺に言ってるぞ。マジで?」

 いや、違う。角度的に……アキには俺しか見えていない。ケンがいることに気づいていない。パニックになった俺は、ケンを背中から羽交い絞めにして肉まんマンの陰から引っ張り出し、そのまま腕を引っ張って逃げた。掌から零れ落ちた小銭が、辺りにチャリンチャリンと跳ね回る。息を切らせながらゲーセンの中を突っ切り、下北沢の雑踏の中に紛れた。

「おいおいおい。何で?」

 訳が分からない様子のケンの腕を、無言で引っ張り続ける。すまん。今だけは黙って一緒に逃げてくれ。

「何で逃げるんですか!」

 アキが追ってきた。慌てて狭い路地の方へ逃げて身を隠し、ケンの手を引き突き進む。ときどきすれ違う人にぶつかりそうになって煙たい視線を浴びせられたが、それでも止まるわけにはいかなかった。

 歩道沿いをひたすら走っていると、アパートや病院が連なる人通りの少ない通りに来ていた。電柱の陰に隠れながら辺りを見回す。どうやら撒いたようだ。膝に手を突き、どうにか危機を切り抜けたことに安どしていると、不満げな顔をしたケンが俺の肩を揺さぶった。

「何で逃げるんだよ~せっかくチャンスだったのに」

 冷静に呼吸を整えて、どう言い繕うか思考を巡らせた。

「お前な。彼女からすれば、プライベートで遊んでいる時に見知らぬ人にいきなり声かけられたら、絶対迷惑だろ? ファンならそこんとこ弁えるべきじゃないか?」

「そりゃそうだけど……にしても必死過ぎねえか?」

 納得がいかない表情のケン。話を変えなければ。そんなことより、と身振りを交えて俺は切り出した。

「渡したいものって何だよ。急に呼び出しやがって」

 ケンは目を丸くして「おーっ」と俺の肩をぽんと叩く。

「そうそう。いいもんがあるんだ」

幸い走ってきたのがケンのアパートのある方角で、二人で話しながら歩くと、十分ほどでケンのアパートの前に辿り着いた。

「まあ上がれよ」

「いや、ここでいい」

「何で?」

 アキを探しに行かなければいけないからだ。ケンには悪いが、あまりゆっくりしている時間はない。「そうか。じゃあ、取って来るからここで待ってな」

 ケンがアパートの階段を登っていく。俺はそわそわしながら辺りを見渡した。アキ、大丈夫かな。ケンに見つかりそうになったからとはいえ、咄嗟に置いてきてしまった。

 日差しが俺の肌を刺すように降り注いで、二の腕が熱を帯びている。走ったせいで、背中にはTシャツが汗でぐっしょりと張り付いていた。

「何て謝まろうか……」

 ケンの部屋を見上げながらぽつりと呟くと、背中から震える声が聞こえた。

「もう許しません」

 驚いて振り返ると、目に涙を溜めたアキが上目遣いに俺を睨みつけていた。

「うわ、ごめん。ケンに見つかったらまずいからさ、つい」

 震える手は固く握られている。やばい、鉄拳制裁が――と咄嗟に身構えて顔の前で両手をクロスする。しかしアキはその手を潜り抜け、勢いよく腰に抱き着くように飛び込んできた。

 お腹のあたりがじわりと湿っていく。声を殺すようにしてすすり泣くアキの背中を優しくさすりながら、俺は戸惑いを覚えていた。

「ええと……もう逃げないから。大丈夫だって」

 必死で俺のことを追いかけて探したのか、Tシャツは汗でぐしょぐしょになっている。

 俺は分からなかった。こんなにアキを悲しませてしまった理由はなんなのか。ケンとアイドルのライブに行って、帰りが遅くなったときもそうだ。ちょっと遅れたりはぐれたりした程度で、普通はここまで感情的にはならないだろう。彼女を動転させる理由が、どこかにあるはずだ。

「姫――?」

 そのとき――声にならない声が耳に届き、慌てて顔を上げる。

 階段の上で驚愕の表情を浮かべるケンと視線が重なった。

「あ。いや、これはだな……」

 慌てて離れようとするが、アキは腰に回した手を離さない。

 色を失った表情のケンが、持っていた満タンの買い物袋をどさっと両手から滑り落とした。零れた中身が雪崩のように階段を転がり落ちて来る。

 やがて俺の足元にまで到達したそれが、いくつか靴を打った。

「あ、辛ラーメン」

 俺のお腹に抱き着いたままのアキが、ぽつりとパッケージを読み上げた。

「行っとくけどお前……グーさんたちには絶対に言うなよ?」

 案内された密室の部屋。慣れた手つきで照明のつまみを回してエアコンの温度を設定。どさっとソファに腰を降ろしてスマホを弄り始めたケンに、俺は釘を刺した。

「当たり前だろ。俺を信用しろ」

 スマホから音楽が流れると、耳に近づけて肩でリズムを取り始めた。

「何をやってるんですか?」

 不審そうな顔をしてアキが尋ねる。

「あ、歌い出しどんなんだったっけって。確かめてんの」

 そう言ってウインクし、左手でサムアップするケン。

 アパートで対面したときはガチガチに緊張してた癖に。話し始めたらすぐに慣れてしまって、「ネタどうやって作ってるの?」とか「尊敬してる芸人は?」とかアキに質問攻め。挙句の果てに「姫とカラオケに行きたい」だなんて言い出した。その鋼のメンタルには恐れ入る。

「ショウちゃんよお。俺は親友が嫌がることはやらねえぞ? 姫だって、とんでもねー才能を持ってるけど、二十歳の女の子には違いない。相方とか男友達がいたっていいし、交友関係を持つことはむしろ自然だろ?」

 端末を操作し、目当ての曲を検索しながら不満げにぼやく。

「そうは言っても……みんなで姫、姫って神格化してたからさ。もしバレて、彼女に危害が及ぶことがあったらまずいって考えるだろ」

「あの。さっきから”姫”ってなんですか?」

 知らなかったのか。熱心な”信者”たちにそう呼ばれてるってこと。まあ、ファンサもしないし、SNSも見そうにないから、それもそうか。

「誰が言い出したのかは分からないけど……近寄りがたいオーラがあるからじゃない? 神とか、女王よりは”姫”って感じだし」 

「遠慮なく近寄ってるじゃないですか」とアキが口を尖らせるが、ケンは既にマイクを持って立ち上がり、首を回して臨戦態勢に入っている。

 ロックの伴奏。ベースの這うような重低音が部屋全体に鳴り響いて、画面に「GO!!!」という曲名が表示される。曲と全くあっていないイメージ映像と、カラオケ特有のチープな演奏。大きく息を吸い込んだケンは、身振り手振りを交えて熱唱し始めた。

 声がでかい。音は外れている。何と闘っているのかは分からないが、熱さは伝わって来る気がする。

 微動だにせず画面をみつめる俺とアキ。間奏中もよく分からない踊りで盛り上がったケンは、最後まで淀みなく声を枯らした。

「楽しそうに歌ってたな」

 ソファに深々と腰を降ろし、息を切らしているケンに声を掛ける。

「カラオケってのは、自分が歌いたい曲歌って、気持ちよければいんだよ。ほれ、次」

 ぽん、と二の腕にマイクを押し付けて来る。え? 次俺か。と我に返って、慌てて端末で曲を探し始めるが、なかなか歌える曲が見つからない。

「姫。ショウ、見つかんねえみたいだから。何か入れたら?」

 私? と自分を指さすアキ。目の前にあった分厚い冊子を手に取り、ぱらぱらと捲る。あっ、と小さく叫び声をあげてケンを手招きし、開いたページの端の方を指さした。

「これ、歌うんだね。ほいほい」

 リモコンの端末を手に取り、画面に向かってコードを入力する。姫が歌? 鼻歌とかでも聞いたことがない。どんな風に歌うんだろう――と、曲を入れなければいけないのに、完全に気が逸れていた。

 伴奏は、ピアノの旋律。美しく、切ないメロディ。画面には桜が舞い散る風景の映像と共に、大きく「新しい私になって」というタイトルが映し出された。

 掠れた声で”詠みあげた”その歌い出しに、思わず息を呑んだ。上手い下手ではない。一つ一つの歌詞、いや”言葉”に生命を吹き込み、情感あふれるメロディーを丁寧に紡いでいく。

 そしてサビ。彼女が歌い上げる悲愴な決意に、思わず頬に涙が伝った。人の歌で、涙を流したことなんてない。テレビでプロの歌声を聞いたって、そんなことはなかった。

 隣を見ると、ケンは顔をくしゃくしゃにして号泣していた。大の大人二人が並んで涙しながら、一人の女の子の歌を聴く。絵面は最悪だが、そんなことはどうでもよかった。俺は彼女の”本気のネタ”を見た時と同じように、全身でその才能を受け止め、味わい、感動していた。

 演奏が終わり、マイクをどこに置こうかとキョロキョロしているアキ。鼻をすすり上げながら涙を流しているケンに軽く引きながら、はいどうぞ、と俺の手の中にマイクを滑り込ませた。

「すげえ……」

 本当はもっと事細かにこの身で感じたことを伝えたかったのだが、あまりの衝撃に語彙力が奪われてしまった。

「姫、すげーじゃん。歌めっちゃ巧い! 歌手としてぜんぜん金取れるレベルだよ」

 興奮気味に身を乗り出すケン。アキは不服そうな顔をして頬杖をつくと、ちらりと俺を見た。

「歌は……練習してたのか?」

 照れ隠しなのか、つんとしたまま視線を逸らす。否定はしないってことは……ある程度は練習してたんだな。

「俺は好きだよ。アキの歌」

 そう言った後に再び視線を振ると、アキが俺の顔をまじまじと見ていた。

 俺は驚いて、心臓が跳ねた。なぜそんな顔をしている? 絡まる視線の先で、透き通るような瞳が戸惑いに満ちた様子で揺れている。

「それって、告白じゃん」

 空気を読まず、ケンが茶化すように言う。

「違う。歌だよ歌」

 俺が手を振りながら苦笑いすると、アキは腕を組んで下を向いてしまった。

 余計なこと言っちゃったかな。でも素直にそう思ったから、つい。

 どうフォローしようか脳内で言葉を探していると、どさくさに紛れてケンが割り込んだのか、バラードの前奏が流れ始めた。

「悪いな。カラオケには時間制限がある。どんどん行くぜ!」

 ねっとりするようなケンのバラードが、狭い部屋いっぱいに反響する。どんな顔をしているんだろうと気になって覗いたアキは、軽く耳を塞ぐように頬杖をつき、眉を寄せていた。

 その手元に、リモコンはない。もう曲を入れる気はないのか。

 また聴きたいな――。

 アキの歌声を脳内にリフレインさせながら。俺はアキと同じような仕草で、そっと両耳を塞いだ。


「俺、本当は夢があるんだ」

 陽が暮れかけた下北沢。閑静な裏通りの一角に、ぽつんと置かれた自販機の前。腰に手を添えたケンが、缶コーヒーの最後の一口を喉に流し込む。

 こいつの口からそんな話を聞いたのは、初めてだった。いつもみたいに茶化そうかと思ったが、やめた。隣でアキが真剣な顔をして、ケンの話に耳を傾けていたからだ。

「ジャグリングって知ってるか? ボールとかクラブとかをいくつも投げ続けて空中でキープするやつ。小学生のときにあれをテレビで見て、衝撃を受けたんだ。こんなすげえこと出来たら、絶対カッコいい。すぐになけなしの小遣いでゴムボールを買ってやってみたよ」

「へえ。火が付いたってわけか」

 俺がどっかで誰かから聞いたフレーズを返すと、おぅ、そんな感じ、とケンが手で膝を打つ。

 とっくに空になったコーラの缶。手持無沙汰になるのが何となく嫌で、ずっと握りしめている。アルミの柔らかい部分に力を入れると、ぴきっと尖った音が鳴った。

「でもなあ……全然できなかった。見よう見まねでは無理だなって思ったから、母ちゃんに無理言って、趣味の大道芸教室みたいなのを探してもらった。隣町にあったから、また母ちゃんに土下座して、通わせてもらう約束したんだよ。車の送り迎え付きでな」

「行動力やばいな」

 俺が素直に感嘆しながら、ケンの顔を覗き込む。顔をくしゃくしゃにして笑っている。何だろう。自分の話をするケンはとても楽しそうで、生き生きとしている。

「で、どうなったと思う?」

 今度はケンがぐっと腰をかがめて、俺と、アキの顔を下から覗き込む。ヘッドライトが近づいてきて、ミニバンが生暖かい空気を巻き上げながら目の前を横切っていく。とぼけたふりをして勿体つけていると、アキが俺の肩を揺らして返答を急かしてくる。

「どうせ一週間ぐらいでやめたんだろ? 熱しやすく冷めやすいお前の事だから」

 あひゃひゃ、とケンが手を叩きながら笑う。アキは怪訝な表情で俺の顔をじろじろと見ている。

「さすが。俺のことよく分かっているな。一週間じゃねえ。一日だ。体験入会ってやつで数時間過ごして、すぐに帰った。もちろん入会の契約を交わす事もなく、それっきりだ」

 やっぱり。どうして帰ったんだよ、と一応聞いてみる。

「笑われたんだよ。同じ教室に居た低学年くらいのちっちゃい子に。その子凄かったんだ。目にも止まらない手つきでポンポンポンって。俺、ガチガチになって、先生に教えてもらっても全然できなくってさ。もうやる気も自信も消え失せて、あえなく《《消火》》ってわけだ」

 すると、ここでアキが初めて口を開いた。

「やればよかったじゃないですか。どれだけ下手糞でも、練習すればある程度できるようになるでしょ」

 おごってやる、というケンの申し出を断ったアキは、両手をポケットに突っ込み、縁石に腰掛けて膝を丸めている。俺の時と違ってケンはおちゃらけた態度を封印して、それでもやっぱり楽しそうに体を揺らしながら答えた。

「ちょっと違うんだな~それは。俺の”夢”ってやつは、テレビで見たヒーローになるってことだったんだ。でも本格的にやってみて、すぐに悟っちまった。俺は不器用だ。今後これを続けても、頑張ったねっていう労いの拍手を貰うことはあっても、憧れに満ちた大歓声に包まれることはないってな。でも俺は未だに夢見ているよ。ヒーローになるって。ただ、現実を思い知って夢を”追いかける”のは辞めた。それだけのことだよ」

 懐かしさに頬を緩めながら語るケンを見ながら、アキは唇を嚙んでいた。

「アキ。おまえはどうなんだ」

 俺は顔を上げながら言った。視線の先で、街灯の周りを小さな虫がまとわりついている。

「私の夢は、ヒーローになることじゃありませんよ」

 口を尖らせる。俺はすぐに言葉を準備し始めたが、ケンが方が先に、俺が言いたかったことを口にした。

「いや、なれる。凡人がどんだけ努力したって成功できるかどうかは分からないけど……姫の場合は逆だよ。才能はある。あとは、それを証明するかどうかじゃないかな」

 俺がアキのことを知る前から、ケンはアキの才能を確信していた。ケンだけじゃない。グーさんたちや、あのライブでアキを”目撃”した人はすべて。

「嫌です」

 まるで予め与えられていた台詞であるかのように淀みなく、アキは言った。俺とケンが「どうして?」と声を揃えると、アキは俺たちをじろりと睨み、指先でアルファルトの表面をなぞり始めた。

「ひとたび舞台に上がれば、そこはもう私の世界です。目に映る観客を笑わせることで、私は”燃える”ことができる。それ以外の事なんて、どうでもいいんです。私のネタが誰かと比べてどうだとか、売れるとか売れないとか。私の炎がそんなくだらない場所に燃え移ってしまうなんて絶対に嫌です」

 俺は渇いた唇をぎゅっと結んで、アスファルトに触れる彼女の細い指先を見つめていた。ケンがよっこらせと立ち上がり、道路に転がっていた小石を蹴飛ばす。

「くだらない? そうかなあ。だって面白いじゃん。誰が一番面白いかってバチバチやるのも。闘いのフィールドに立てば、いつもの小さなライブ会場とは違う景色が見えて来るかもよ」

 ケンがにっこりと笑顔を向けると、アキはぷいと視線を逸らした。

「景色が変われば、私の世界も変わる。見たくもないものも見えて来るし、見られたくない人にも見られる。それが嫌なんです」

「見られたくない人?」アキの口から零れたその一言が、妙に引っかかった。

 アキは何も答えなかった。しゃがみ込んだまま頬杖をついて、固い視線をアスファルトに向けている。

 俺はその横顔を見ながら考えていた。”お笑い”という世界で一旗揚げようという野心。ケンの言う、ヒーローになろうという憧れ。そんなものに興味はないのかもしれない。でもそれ以上にアキは、その視線の先にあるもの忌み嫌い、恐れている気がした。

 ずっと握りしめていた空き缶を捨てようと、アキの目の前を横切って自販機の横に設置されたゴミ箱の前に立つ。既に中身はいっぱいだ。両手でアルミ缶をパキっと二つ折りにして、ぐいぐいと投入口に捻じ込んだ。


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