白無垢の封筒
手紙が届いた。差出人の名前はない。
インターネットで誰とでも繋がり会話ができるこの便利な時代に、差出人の名前もない真っ白の封筒なんて不思議なものだ。でも僕には、その白無垢の封筒が何の変哲もない僕の人生を何か変えてくれる気がした。人間から常に逃げてきた僕が何故こんな事を思ったのか今ではもう分からない。手紙にはとある場所の住所だけが書き記してあった。
ここからそんなに遠い所ではなかった。まだ10時だ、今出れば12時には着くだろう。僕はすぐに手紙の住所へと向かった。
眩しすぎる太陽の光は、今日も僕を苛立たせる。
何故あの時僕は封筒を開いたのだろうか。
そもそも僕は幼い頃から手紙なんて貰った事がなかった。
今でこそスマホなんて便利な機械を持ち歩いてはいるが、小中学生の僕が持てるような安いものではなかった。
それ故に、あの頃はまだ手紙というものが身近な存在だったと思う。
好きな人に想いを伝えるためのラブレターだったり、皆に内緒で二人きりで帰るためにこっそり渡すものだったり。でも僕は、そんなものとは程遠い生活をしてきた。
僕は“愛情”や“友情”なんて言葉が嫌いだ。友達はいなかったし恋なんて全く縁がなかった。別にそれを苦痛だと思った事だって一度もない。
僕の中の多くの感情はきっといつの日か消えていた。
色々なことを考えているうちに目的地に着いた。
僕の生きてきた世界とは程遠い、美しく、綺麗な、翠玉色の海。
そしてそれを一望できる展望台がそこにはあった。
頂上に向かって一歩ずつ昇りながら僕は考えた。
手紙の差出人が頂上に居なかったら ―。
そもそもそこに居るなんて一言も書いていない。
そんなもの、僕のただの幻想物語だ。
一歩一歩現実を踏みしめながら昇っていく。
頂上に着くとまずそこからの景色が目に付いた。
下で見たものとは比べ物にならないほど美しい翠玉色の海は、少し気を抜けば連れていかれそうなほど透き通っていた。
そしてその景色を静かに眺める長髪の女性の姿。
僕はこの日、物心ついてから初めて心を打たれた。
その女性は昇ってきた僕に気付き、そっと一言
「綺麗でしょう?」
と言った。僕にはもったいないほど綺麗だと思った。
人との会話を極力避け、現実から逃げてきたツケが回ってきたのか、この感動を伝える言葉が出てこない。
「綺麗ですね」
素直にそう答えるしかなかった。
彼女はベンチの空いた隣のスペースを軽く叩いた。
僕は彼女に言われるがまま彼女の横に座った。
しばらく海を眺め続けた、お互いに何も言わず、目も合わせることなく、ただひたすらに時間だけが過ぎていく。
すると突然彼女が口を開いた。
「なんで、ここに来てくれたの?」
「僕は、どうでもよかったんです、自分自身が、これから先の人生が。差出人の名前もない封筒とその中の手紙、今考えてみても絶対に怪しいです。あなたとこの場で確かに出逢えた、だけどまだお互いのことを全然知らない。いきなりここから落とされることだってあるかもしれない。でも、それでもいいとさえ思った。元々空っぽの僕の心がこれ以上何かを失うことなんてなかった。だからここに賭けたんです。」
自分でも驚いた。自分の事なんて今まで語った事が無かった僕がこんなに自分の事を語れることに。
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「ついてきて。」
名前も知らない、そもそもなんで僕のことを、ましてや住所なんてどうやって知ったんだ。疑問はたくさんある。
でも今の僕にはもう、そんなことは重要じゃなかった。
黙って頷いて彼女の後ろをついていく。
海沿いをしばらく歩くと一つ小さな家があった。彼女が立ち止まる。
「あれ、私の家なの。」
なんだか彼女が凄く寂しそうに見えた、気のせいだろうか。
「行こっか、お茶でもしながらゆっくり話そ。」
彼女が微笑みながら僕の手を少し強引に引いた。
お家の人とかはいないんだろうか。聞くべきではないと思った。
「さ、入って。」
「お、お邪魔します…」
僕は緊張していた。そりゃそうだ。生まれてこの方他の人の家に入るなんてしたこと無かった。しかも相手は異性だ。緊張しないわけがない。
そんな僕の気持ちは知りもせず彼女は僕を居間に通した。
「今お茶いれるからゆっくりしてて。」
「は、はい。」
居間には何も無かった、まるでわざと何も置いてないかのように。
家族はいないんだろうか。いないとしたらいつからここで一人だったんだろうか。僕にしたような手紙を突然送る行為は他の人にもしたんだろうか。考えれば考えるほど疑問は出てくる。僕はそれを胸にしまった。
お茶をいれた彼女が戻ってきた。寂しさなんて全く感じさせないほどの綺麗で美しい笑顔で。僕は暫く見蕩れてしまった。
「ありがとうございます。」
お茶を受け取って二人で宅を囲む。
「ほら、見て。」
そう言って彼女は外を指さした。一人で待っている間は気づかなかったがどうやらこの部屋の窓から翠玉色の海が見えるらしい。
「私、あの海が大好きなんだ。いつ見ても何回見ても飽きない。」
彼女の顔には、また少し寂しさが戻ってきたように思える。
「想い出の場所なの。家族との。私のお母さんもお父さんも五年前に亡くなったんだ。二人で行ったドライブ中に事故で。私はいつも仲良くて笑ってる二人が大好きだった。だから突然二人を失った時、正直現実を受け止めきれなかったんだ。大好きだったこの家も、大好きだったあの海も、家族みんなの想い出だった場所が私の心を潰したのは一瞬だった。すぐに二人を追いかけて私も死のう、私一人で生きていくなんて絶対に無理だ。そう思った。この部屋入って思ったでしょ?何も無いなって。私が全部捨てたの、思い出したくなかったから。」
正直初対面の僕になんでこんな話をするのかわからなかった。
それでも彼女は淡々と話し続ける。
「でもこうやってまだ五年間生き続けてる。不思議でしょ。ただ私は死ぬのが怖いだけなんだ。生きてるのも辛い、死ぬのも怖い。でも実際、この場所に一人でずっと暮らしていればそのうち何にも感じなくなるんじゃないかなって思ったんだ。でもある日、君の住むあの街に出かけた時、私は君を見て思ったんだ。なんか、全てを失った私に似てるなって。びっくりしたでしょ、住所なんてどうやって知ったんだって。私たち実は会ったことあるんだよ、私が一方的に見ただけだけどね(笑)」
僕はほとんど外にも出ない、一ヶ月に一回買い溜めをする為に外に出るくらいだ。そんな頻度の僕を彼女はたった一回で見つけたのか。
僕は運命って言葉が嫌いだ、だけどこの状況を表す言葉は運命しかないと思った。僕の中の疑問が一つずつ解決されていく。
「泣いてるの…?」
彼女が僕にそう言った。
泣いてる?僕が?そんなわけが無い。涙なんて全く流したことないのに。そう思いながら自分の顔を鏡で確認した。泣いていたんだ。なんで泣いているんだろう、彼女が可哀想だと思った?自分と似ているから同情した?そもそも似ているって彼女は言ったけど全く違った。僕は家族と死別した訳でもない。自分から逃げたんだ、家族からも友人からも。もしかしたら、そうやって現実逃避を続ける自分が醜くなったのかもしれない。
「ごめんなさい、貴方のせいじゃないんです。なんか分からないけど涙が止まらなくて。自分が泣いてる理由も分からないんです僕は。」
彼女は泣きながら答える僕の頭をそっと抱きしめた。
「ずっと我慢してきたんでしょ、泣いていいんだよ。泣くのに理由なんていらない。話、聞いてくれてありがとね。初対面の私にこんな話をされてびっくりしたでしょ?めんどくさいと思わなかった?」
そう言いながらずっと僕を抱きしめている。
「そんなこと思いません。貴方の方が辛かったはずなのに、本当は貴方が泣きたいはずなのに、ごめんなさい。止まらなくて。」
自分にはこうやって抱きしめてくれる人が欲しかったのか。とっくの昔に失ったと思っていた感情が、彼女と出会ってから沢山思い出させられる。
「私の事、考えてくれてありがとう。もう一回言うね。手紙を見て、会いに来てくれてありがとう。名前も知らない私を信じてくれてありがとう。」
彼女は何回も僕にお礼を言う、お礼を言いたいのは僕の方なのに。
「もう、大丈夫です、泣き止みましたから。ごめんなさい。」
いつの間にか緊張も忘れて彼女の胸で泣いた自分が恥ずかしくなった。
「君、私と会ってから謝ってばかりじゃない?」
「ごめんなさい、昔からの癖でつい…」
「ほら、また謝った!謝らないの!」
「は、はい…ごめんなさ…あ、ありがとうございます。」
泣いてしまった手前、彼女の顔が見れなくなってしまった。
「ねぇ、今度は君の話聞かせてよ。」
突然彼女がそう言った。
「え、でも、僕の話なんて、話すことなんてないし。」
「そんな事ないでしょ?君がいつからそうやって一人で生きてるのか、今まで一人で抱えてきたことだって沢山あるでしょ?あんなに泣いてたんだし。」
「泣いてたのは関係ないじゃないですか…!」
「関係なくないよ(笑)」
照れて否定する僕を彼女は笑顔で丸め込んだ。本当に美しい笑顔だ。
「そんなに、面白い話でも、明るい話でもないですよ。」
「うん、いいよ、私も明るい話なんてしてないし。」
それから僕は、幼い頃から友達なんていた事がないこと。愛情や友情なんて言葉を信じてもないこと。人との関わりを避け続けて、家族からも逃げ出して、こうやって醜い姿になってしまったこと全てを話した。自分の思いを人に話すのなんて、人生で二度目だ。それも今日だけで二回。もう、どうなろうと気にしなかった。今更だと思った。
「そっかぁ、色んな思いをずっと誰にも言わずに現実逃避を続けてきたわけだ。人と関わりたいとは思わなかったんでしょ?」
「そうですね、少なくとも小学生の頃にはもう。」
「家族との会話はなかったの?」
「うちは共働きだったので。ご飯も用意されてましたけど。今思えば、それが愛情だったのかもしれないですね。あの頃の僕には何にも愛なんて感じられなかったですけど。休みの日だってほとんど寝てたし。」
「なら今から、私が家族にしてもらってたことしてあげる。まだ時間大丈夫でしょ?」
時計を見ると時刻は17時を過ぎていた。
「大丈夫です、どうせ僕には何もないんで。」
「よし、じゃあまずは外に行こう。」
彼女はそう言うと、また僕の手を引いた。
彼女は僕に色んなことをさせてくれた。
手を繋いで海岸を走ったり、水の掛け合いをしたり。浜辺で座って海を眺めたり。疲れたね、なんて笑い合いながら寝転がったり。初めてだった。こんなに人に何かをしてもらったのは。時間があっという間に過ぎていった。幸せという感覚を僕は初めて味わった気がする。
「そろそろ、帰ろうか。」
「そうしましょうか。」
二人で手を繋いで彼女の家に向かう。この時にはもうきっと僕は彼女に恋をしていたんだろう。情を忘れた僕にはそれが分からなかった。
家の前で彼女は立ち止まって僕の手を離した。
「今日は本当にありがとう。楽しかったよ。」
「こちらこそ、本当に楽しかったです。生きててよかった。」
「気をつけて帰ってね、もう暗いから。」
「大丈夫です、暗いのには慣れてるので(笑)」
たった一日なのに僕にはすごく長く感じた。沢山の経験をした。
「あの、一つだけ…!」
「ん?どうしたの?」
「名前を、教えてください。貴方の名前を。」
「まだ言ってなかったね(笑)私の名前は翠。貴方の名前は?」
「僕の名前は雅です。翠さん、今日はありがとうございました。」
「こちらこそ、雅くん。」
「「さようなら。」」
僕は帰路の途中、この長すぎる一日を振り返った。
全く知らないところで全く知らない人と一日を過ごした。
今まで味わったことの無い感覚を沢山味わった。
初めて人に、愛情をもらった。幸せだった。
帰り着くと急に現実に戻された気分になった。
僕は無心で風呂とご飯を済ませて眠りに着いた。
目を覚ますといつも通りの朝がやってくる。
僕は彼女に会いたいなと思った。何故だろう、今まではこんな感情が湧いてきたことなんてなかったのに。それもきっと彼女のおかげだ。
僕は昨日と同じ道であの場所へ向かった。
だが、昨日灯台があった場所には、何もなかった。
おかしい、そんなはずがない。確かにあの場所だったはずだ。
現実に目を背けるように僕は彼女の家があった方へと向かった。
ただ闇雲に走り続けた。
彼女の家があったはずの場所には建物はなかった。
僕の記憶にはちゃんと昨日のことが残ってる。一つ一つが鮮明に。
理解が出来なかった。現実を受け止めきれなかった。
俯きながら目的地もなく歩いているとラムネを売っている人がいた。
こんな場所で売ってて人なんか来るのか。とも思ったが今はそんなことどうでもよかった。
「兄ちゃん、一本どうだい?」
そう言われ、僕は一本手に取った。
「ありがとな、兄ちゃん。」
店主が暑苦しい笑顔でお礼を言ってくる。
彼女はどこへ行ったんだろうか。僕の感情を取り戻すだけ取り戻して去っていくなんて、あまりにも酷すぎるじゃないか。君が埋めた僕の心の穴は今では更に大きな穴になって空いている。苦しすぎるよ。
沢山の感情が入り交じる中、さっき買ったラムネを口にする。
炭酸の強いラムネは、涙の味がした ―。
『白無垢の封筒』
読んでいただいて、ありがとうございます。
初めて小説を書きました。