受け取る汚れと迫る波
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
なあなあ。お前はさ、最大で何日連続、風呂に入ったことがない?
なんだ? 同性同士、もったいぶったり、恥ずかしがったりすることもないだろ?
むしろ現代人は残業的な意味で、風呂に入れない時も多いだろう。個人的には相手の物事への熱意をはかる、いい指標なんだけどな。
俺も風呂は好きだが、優先順位は必ずしも高くない。やりたいことがあるなら、どんどん下へ送られる。使うのは、たいてい電子機器まわりだからな。水気の多いところへ持ち込むわけにもいくまい。
……なんだよ、やっぱり汚いことはあまりよろしくないことってか? 1000年くらい前は、日本人だってそんなに風呂へ入らなかったと聞くぜ?
毎日入浴の歴史も、せいぜいが数百年。それ以前から命をつないできてんだから、少し風呂に入らなくても、問題ないだろ。聞いた話じゃ、かえって風呂に入ったらやばいパターンもあったらしいからな。
どれ、それに関する昔話でも、ご紹介しようか。
むかしむかし。とある旅人が諸国をめぐっていたころの話だ。
前日、大雨に降られてまともに雨宿りをする場所にも恵まれず、その体は冷え切っていたという。昨晩から震えっぱなしの身体を引きずりつつ先を急いでいた彼は、首尾よく小さい村へとたどり着く。
まだ昼間とはいえ、村には人の姿が少ない。留守にしている家も多く、ようやく道を行く老婆に事情を尋ねると、今は行水をする時だと教えてくれる。
あの大雨の後に行水? と彼は首をかしげた。ふつう、身体を洗おうと思うなら、きれいな水を使うはずだ。雨があがってからさほど経っていない今など、不潔きわまりない汚泥混じりの川水のはずだ。
だが、彼が老婆に連れられて村近くの川へ行ってみると、なるほど言葉通りの光景が広がっている。
村人たちは、肌がすけるほど薄い生地の、あわせ一枚を羽織って川の中へ入っていくんだ。
彼が予想していたとおり、川はにごった土気色をしていて流れも速い。入る者はしっかりと命綱を身体に結びつけ、男たちが何人も綱の端を握り、参加者を送り出す。
十五尺(およそ4.5メートル)あまりの距離とはいえ、流れをかき分けていくのは容易じゃないだろう。そして川から上がった者は身体も拭かず、服も着がえず、そのまま家族が渡ってくるのを待つ姿勢だ。
「この土地では、強い雨があった後に、この川渡りを行いますのじゃ。
ここの神様は少しへそまがりな方でしてな。清いものより汚いものを好む。特にこのように川がよごれる時には、神様が汚くあるよう望まれている証なのですじゃ。
わしもほれ。朝の早いうちに済ませておりましてな」
老婆の着るあわせも、よく見るとあちらこちらに乾いた泥がこびりついている。こうして川に入った日には、汚れた身体のままで過ごすのが決まりなのだとか。
彼自身も川に入ることをすすめられたらしいが、濡れて家族を待つ対岸の者たちを見ると、少々気が引けてしまう。彼らの身体には、汚泥とともに流れてきただろう、木の葉や枝、得体のしれない細長い胴体の虫が、ひっついていたからだ。あの状態になる自分の姿を考えてしまうと、とてもとても。
話を聞いているうちに何度もくしゃみが出てしまい、その日は件の老婆の家で泊めてもらうことになったそうな。
その日の夜中のこと。
彼が全身を揺さぶられる感覚に目覚めると、縄で身体をがんじがらめにされて、誰かにかつがれていることに気がついた。口にはさるぐつわをかまされ、叫ぶことができない。身をよじって逃げようとするも、自分をかつぐ男の腕はびくともしない。
「すまんが、事態が変わっての。しばらくの間、じっとしておいてくれんか」
自分をかついで走る男の横からは、老婆の声。彼女は男に並走しながら告げてきた。
目が慣れてくるにつれて、この道が昼間に老婆に案内されたものと同じことがわかってくる。となれば当然、自分に訪れるであろうことも察することができた。
「……急げ。もうそばまで来ておるぞ」
かついでいる男に告げる老婆の声は低い。ほどなく男は足を止めたかと思うと、地面へおろすことなく旅人を軽く放り投げる。しばし宙を漂ったあと、彼の体中を無数のしぶきが襲った。
放り投げられた川は、相変わらず流れが速い。そのうえ、自分は縛られている身で、ろくに水をかくこともできなかった。
でも全身は沈まない。荒れる流れは、旅人を水の中へ引き込むものじゃなく、むしろ下から上へ持ち上げようとしているように感じられた。不可解な浮力にあおられながらも、そのおかげで旅人は、自分が何に追われているかが理解できた。
波だと、最初は思った。海でみるやや背の高い波が、持ち上がってはざぶんと沈み、また持ち上がってざぶん……延々と自分を追いかけてきていたんだ。
だが、たまたま彼の脇に浮かんでいた流木が波にのまれる時、その木が「ざっくりとふたつに切れた」。
白く見える波の先は、鋭い刃物だったんだ。旅人に迫ってくる波は、いわば調理に臨む刃物のごときもの。自分はさしずめ、まな板の上に乗ったコイというところか。おそらく、自分を刻もうとしているのだろう。
ただでさえ冷たい水の中、すでに震えは止まらなくなっている。これに怖さが加わっても、がくがくしていることに変わりない。
波は自分をとらえられないのが気に入らないのか、身体を持ち上げる頻度が少しずつ増していた。
ざぶんざぶんざぶんざぶん……。
慌ただしく迫る波が、ついに旅人の足先をかすめた。水面下で数寸のへだたりがあるにも関わらず、ざくりと刃を突き立てられたような痛みが走る。
その時だった。追い打ちをかけんと、また持ち上がった波だが、そこでぴたりと動きが止まる。旅人が流れに乗ってどんどん遠ざかる間で、波は大きく「のけぞった」。
ありえざる方向へ曲がる波は、そのまま後ろ向きに倒れて、二度と起き上がってこなかったんだ。ほどなく、彼を運ぶ波の向きも急激に変わる。横方向へかじを切った水流は、周りの水ごと彼を川べりへと押しやったんだ。
さほど間をおかず、老婆たちが駆けつけてくる。どうやら、旅人がこのあたりで放り出されるのも、把握済みだったようだ。松明のあかりに照らされた足先には、5本の指それぞれの裏の皮が盛大に剥けているだけで済んだらしい。とはいえ、出血は伴っていたし、泥がたくさんこびりついてはいたが。
旅人は老婆の助言通り、その晩を汚れっぱなしで過ごす。
川に放り込むまでの間で、老婆たちが何をみたのか。それについて聞くことはできなかったが、よからぬものなのは確からしい。清潔な身体を欲するもののけだと、旅人は教えられたとか。