プロローグ
木にはたくさんの樹液が付いている。夜になれば虫たちは集まり甘い蜜を吸い続ける。いずれ樹液はなくなる。なくなれば新しい樹液を求めて虫はさまよい続ける。
ただそれだけ、その木に樹液がなくなれば新しい樹液を探せばいいだけだ。朝になり日が昇り、何かに怯える前に有りっ丈有りっ丈求め続ける。
欲求が理性に負けることなんてざらにある。今までそんな人を何人見てきたかもわからないが、自分が同じことをしていることに恥じらいはない。
だって僕らは虫じゃないから、間違いを正当化することを身につけているから。なんだっていい。みんなそうでしょう?タイミングが悪かった。明日からやる。なんて言葉でもまかり通ってしまう。もっとよくわからない理屈にこじつけることだってできる。今日は月が出ていて興奮するなんてね。
もしかしたら理性なんてハナから持ち合わせていないかもしれない。いや、理性なんて欲求の中の、ほんの一部なのかもしれない。
「ふーん なんかよくわかんないけどわかる気がする。」
隣にいるこの子は・・・なんて名前だっけ?さつき?なつき?それともはずきか、めんどくさい、この子の名前はさつきにしよう。
僕より二つ三つ年は上だろうか、いやわからない。今どき16、17でもキャバクラで働く女の子はたくさんいるからな。
それよりも、わからないけどわかるってなんなのだろうか、最近こんな言葉が多い気がする。
稀によくある。いつもそうな気がする。文の意味はわからないがなんとなく伝わる。ほらまたここに一つ。僕が吸い終わったタバコの吸殻が一つ入った灰皿を変えながらさつきが顔を覗かせてきた。
「お兄さん頭いいんだね。ね!一杯ごちそうしてよ!」
なんの義理があってなんの経緯があって名前もあやふやな、ただ顔が可愛いだけの女に一杯1200円もするチューハイをおごらねければならないのか。ただでさえお店に入るだけで4000円も取られるのに。
「今、お金ないんだよね」
なんともストレートな断り方だろうか自分でもあっぱれだと思う。そう言いテーブルのタバコに手を伸ばした時横目でチッという女の顔が目にはいった。横目で見るなり俺もチッという顔をしたのだろう。そんな雰囲気がした。そしてそこに全く異質な雰囲気が飛び込んできた。
「いいよ。飲みなよ。俺が出すから。」
一緒に店に来た菊池さん。菊池さんは俺の三つ上の兄貴の友達で、そのよしみでたまにこういう店に連れて来てくれる羽振りのいい先輩だ。後輩の面倒見が良くて周りから信頼されているようだ、周りからは。
もう2時半になるのか、かれこれ4時間近く一緒に飲んでいる。4000も払ったと言ったが当然菊池先輩のおごりできている。フリーターをしている先輩は常に金回りがいいってわけではないが、たまにギャンブルで稼ぐと「あぶく銭だから」と俺を誘ってくれる。多分兄貴たちを誘うより好き勝手できるからいいのだろう。後輩の面倒見がいいというより、自分のメリットの行動だと推測している。
「本当に?やった!いただきます!」
僕を通り越して菊池さんに聞こえるように声を張り上げる。しかし菊池さんはもう隣の女の子を口説いていて、さつきの声は届いていない。
「ありがとう。お友達優しいね。」
三分の一になった声でそういうと、そそくさとテーブルに何枚も置いてある紙を一枚取り、ブランドのバックからボールペンを取り出し、緑茶ハイと汚い字で書きボーイを呼んだ。
ボーイが緑茶を持ってくると、菊池さんがそのボーイに声をかけた。
「この子チェンジで。」
はい?というようにボーイが首をかしげる。さっきまで楽しそうに口説いていたのに、なんか違ったんだろう。「だからチェンジで」ともう一度強く菊池さんが言った。かしこまりましたと言わんばかりに頭を深々と下げ、裏に下がるボーイ。
2分ほどして違うボーイが現れる。
「ありささーん、ありささーん。」
小さく「ありがとうございました」と言ったが、菊池さんはタバコを吸いながら、僕を挟んで・・おりと話している。ありさが席から離れると、入れ替わりで次の女の子が席に着く。
「あきらです。宜しくお願いします。」
ただの間つなぎだったのだろう。ほらお前についてる女だ、楽しく話せよと言わんばかりに、あきらという得体の知れない女を口説き始める。
「お友達なんかすごいね。」と苦笑いをするさつき。
「そうだよね。」といい、僕は愛想笑いをした。
頭がクラクラしてきた、さすがに4時間半も酒を飲んでいると。クラクラというかふわふわというか、なぜか楽しい気分になってくる。この時間帯が一番危ない。当の本人は酔っ払っていないと思っているが、翌日、目が覚めた時、後悔を今までなんどしたことか。なんて考えてる時点でもう酔っているんだな・・・。
「大丈夫?よっぱらちゃった?もし吐きそうになったら言ってね。この席トイレに一番近いから言ってくれればトイレまで運ぶから!」小柄な体で何ができるのか思ったが
「ありがとう。」
と言っていた。お酒を飲むと悪くなる人もいれば善くなる人もいる。僕は多分後者だろう。なんて考えたら酒はグングンと僕の体内を駆け巡っていった・・・
冷たっ。
頬に冷たいものが当たっている。うっすら目を開けると、さっきまでいた店の外の路地裏で菊池さんが水を持って声をかけ続けている。僕は体育座りで座り込んでいた。
「水飲め水!ちょっとでいいから飲めって!楽になるから!」
言われるがままペットボトルの水を受け取り口に運ぶ。美味しい。多分、自動販売機で買ったばかりなのだろう。キンキンに冷えていて、ペットボトルの周りには水滴が付いている。一口飲み口が開いたままのペットボトルを地面に置く。そしてまた目を閉じる。目を閉じてるのに暗闇がクルクルと回っているみたいに変な感じがする。また意識が遠のいていく・・・
頭が水でびしょびしょになった頃、僕はやっとはっきり意識を取り戻した。襟元、フード、体育座りをしているため膝までもが濡れている。ひと口飲んで地面に置いたはずのペトボトルの水が半分ほどになっている。頭を横に振り水を振り落とす。菊池さんが僕と同じ目線まで座り込んだ。
「歩ける?」
歩けない。そう口に出すのも難しい。でも歩かなきゃ仕方がないのだろう。菊池さんは体育座りしている僕の右手を解き、そこに自分の腕を入れてきた「行くよ」と言われ、セーので立ち上がる。勢いに身を任せ立ち上がると、案外辛くない。ふっと空を見ると月がまんまると大きい、しかも色の三原色みたいにぼやけている。
「そっち持ってもらっていい?」
菊池さんが誰かに声をかける。
「はい左手貸して!」
さっき聞いたばかりの張り上げた声が聞こえた。
両脇から抱きかかえられ、路地裏から大通りに出る。あとちょっとでタクシーだから!というのを5回ほど聞いた頃やっと空車の赤文字が光るタクシーに出会えた。タクシーのシートにもたれこむ。タクシーの運転手は濡れている僕に気づいたのか顔を強張らせた。
頭にかけられた水が体温で下がったのだろう、生ぬるい水がやけに気持ち悪い。襟元や膝も濡れていていっそ全部脱いでしまいたい。このさい関係ないとパーカーを脱ぎ座席に完璧に寝そべった。まだ二月風が冷たい。
二人の会話が聞こえる。
「あとは大丈夫だから。家すぐそこだから。」
「ありがとうございます。これタクシー代でもらっといてください。」
菊池さんは財布から五千円を出すと、なぜか一緒にいるキャバ嬢のさつきに手渡した。自分のやるべきことは終わったとばかりに、さっきチェンジでありささんの代わりに入ったあきらというキャバ嬢と腕を組んだ。
もう頭が回らないし、なんだっていい。月が太陽に変わる前に、このまま眠りたい。
「遠慮なく。じゃあとは二人で楽しんで。」
「こいつ起きたら・・・」
もう限界だった、タクシーの運転手が早くしろよと、言わんばかりに顔をこわばらせてるのを見て、僕は目を閉じた。