はじまり 光希
俺が高校生の時、確か二年生の冬だったと思う。真奈子と付きあって二回目の冬だったから。
あの日は真奈子がインフルエンザで学校を休んでいて、俺は一人で帰っていた。
なぜかはわからないけど、自分の家とは反対の方向に歩いて行ったことだけははっきり覚えている。
ある交差点で左に曲がった時に、あの人にあったんだ。時間屋と名乗る、あの不思議な人に。
奇妙な魅力を持つその人は、俺に時間を買わないかと持ちかけてきた。
時間を買うなんて、そんな馬鹿げた話あるはずないと思ってたから、テレビで怖い話を見る感覚でその人の話を聞いていた。
*
時間屋が言うには、人の一生を八十年とすると、一日あたり約六百三十五円の価値があるらしい。
どういう基準で一日に価値をつけているのかはよくわからないが、そこらの店の時給より安い。
ということは、一日を買って、バイトで稼げばより多くのお金を自分の自由にできるのだ。
一瞬だったが、そう考えてしまった自分に対し、謎の嫌悪感をおぼえた。
「どうします、買いますか」
「いえ、買いません。ちなみに時間を売ることってできますか」
「ええ、可能ですよ」
自分でもわからないが、時間を売りたいと言ってしまった。
これ以上時間が欲しいわけではなかったから、いらないと言った。
今ある時間がいらないわけではなかったのに、売りたいと言った。
俺の中で、その時には気づけなかった矛盾が、生まれた。
「俺は今、十七歳です。あと八年生きれば十分だ。彼女もいるし、やりたいこともたいていやったし。やり残してることといえば彼女と……」
「それ以上は言わなくても大丈夫です」
時間屋がにっこりと笑う。
「それでは、二十五歳以降の時間を、売ってくださるのですね」
不気味なほど綺麗な笑顔。
「それでは、ここに左手をのせてください。あなたの二十五歳以降の鼓動を、買い取らせていただきます」
白く冷たい無機的な何かに手をのせることを要求される。
手をのせると、心臓が跳ね上がった。
「もう終わりました。お金は現金で持って帰りますか?」
少し息切れがする。苦しい。
「全部募金しておいてください」
「……二十五歳以降の鼓動をいっぺんに吸収するのは、少し負担が大きすぎたようですね。募金と言われましても、二千万円弱ですよ。本当にいらないのですか」
ようやく落ち着いてきた。
「いらないです。募金にまわしてください」
「わかりました」
そう言ってあの人はまた微笑んだ。
「あなたは二十五歳の誕生日に亡くなります」
病気でもないのに余命宣告を受けることになるとは思わなかった。
「残りの人生、どうぞ楽しんでください。この度は、時間屋のご利用ありがとうございました」
いつかあなたの彼女のもとへも、そう言い残して、時間屋は去っていった。
時間屋の電話番号と思われる数字が印刷してある名刺を残して。
そこに綴られた文字列は、もはや俺にとって意味のないものだった。
*
二十五歳になろうとしてる今も、もういちど時間屋に会って、時間を買い戻したいとは思えない。
もちろん真奈子のことは大切だし、家族もいるし、友達もいる。
俺のことを大切に思ってくれている人が沢山いるのは知っている。
だけど、高校生の俺が背負い込んだ我儘な運命を曲げる気にはどうしてもなれなかった。




