ホスピスの恋
隆は絶望していた。あと3か月の命だと宣告された。「私はまだ死にたくない」隆はそう口にした。
夏も終わり、朝夕は涼しくなり始めた。
「今日は新しい入所者の方をご紹介します」
ホスピスの交流スペースで、朝のミーティングが行われていた。
ベッドから起き上がれる入所者は、毎朝、食事の後にミーティングに出るのだ。
「はじめまして。沢川隆と申します。77歳です」隆は言葉少なにあいさつした。「よろしくお願いします」
高田敏江は5年前から、このホスピスに勤めている看護師だ。年齢は40歳。
交流スペースには大きな窓があり、そこから海を臨むことができる。
翌日の午後。
隆が交流スペースから海を見ていてので、敏江は「失礼ですが、おとなり座ってもよろしいでしょうか」と隆に声をかけた。
「ええ、どうぞ」
「海を見ていると心が落ち着きますね」と敏江は言う。
「そうですね」と隆が応える。
「沢川さんはおひとりでこのホスピスに入られたんですよね。ご家族はいらっしゃるんですか?」と隆に尋ねる。
「私はね、今77歳ですが、55歳の時に離婚しているんですよ。いわゆる『熟年離婚』 ってやつですね。私は仕事一筋で、家庭をかえりみなかった。それに耐えられなかったんでしょうね。妻から『離婚したい』と言われたんです。ショックでした」
「あら、お気の毒に」
「でも、家庭をおろそかにして、平日は残業続き、休日も接待ゴルフででかけていましたからね。ろくろく妻と話をしたこともありませんでした。自業自得ですね」
敏江はなんと声をかけていいのかわからずに、「たいへんでしたね」というのが精いっぱいだった。
翌日。また2人は交流スペースから海を眺める。
沢川が言う。「私は他に親戚もいないので、財産を相続する者がいないんですよ」
敏江は、「そうなんですか」と応える。」
「私の財産は5千万円ほどです」
「まあ、そうですの。お金持ちでいらっしゃるのね」
「死んだらあの世にお金をもっていけるわけでもなし」
何度か交流スペースでおしゃべりをする中で、2人は仲良くなっていった。
「ねえ看護師さん、私、死ぬのがこわいんですよ」と隆は言う。
敏江はこのホスピスに勤めてから何人もの方を送り出していた。
「心配しなくてだいじょうぶですよ。仮に亡くなっても、残された者の心の中で生き続けることができるでしょう? たとえば、こうして話をしていたことだって、私の思い出として残りますよ。宇宙は無限です。沢川さん、あなたは永遠の命につながっているんです」
隆は優しげな微笑みを敏江に投げかける。
「ありがとうございます。そのとおりかもしれませんね」
敏江は「今のお話は、以前に、ある信心深い患者さんから『死ぬのは怖くない。永遠の命につながることなのだから』と言っているのを聞いたことの受け売りなんですよ」
その夜、床に就くとき、隆は昼間のことを思い出していた。「永遠の命か……」そう思うと、こころがふっとほぐれる気がする。
それから毎日のように敏江と隆の会話は続いた。
隆が言う。「看護師さん、手を握ってもらってもいいですか」
敏江は「もちろんですよ」と隆の手の上に自分の手を重ねる。
「温かい。これがぬくもりってやつなんですね」
「いつでも私のこと呼んでくださいね。おそばにいますから」と敏江は微笑む。
そして一週間後。隆はまた交流スペースで敏江に声をかけた。
「看護師さん、お願いがあるんですが」
「はい、何でしょう」
「実は離婚した妻を探し出してほしいのですが。死ぬ前に一目会いたい」
「連絡先はわかりますか」
「それがわからないんですよ。このホスピスに入所するとき預り金をお渡ししているでしょう? その中からお金を出して、探偵でも雇って探してくれませんか」
「まあできないことはありませんが、果たしてうまくいくかどうか」と敏江は困惑して言う。
「無理なら無理でいいんですけど、なんとか頼みを聞いてくれませんかねえ」とすがるように隆は言う。
隆の表情があまりにも真剣なので、敏江はわかりました、とうなずく。
そして敏江は探偵を雇い、隆の妻を探す。
2週間で結果がでた。敏江は探偵と2人だけで会う。
「で、どうでした」敏江が訊く。
「ええ、見つかることは見つかったんですけどね、奥様はもう離婚しているので、会いたくないとおっしゃっているんですよ。私のことは亡くなったって言ってくれって」
「そうですか。無理に引っ張ってくるわけにもいきませんしね」
敏江は胸にちくりとした痛みを感じながら、隆に「奥様はお亡くなりになったそうです」と。うそをつく
「そうでしたか。私より早く逝ってしまいましたか」
「私はね、財産をもっているが、両親はとうに亡くしており、子どももいないので、相続人がいないんです。このままでは国庫に入ってしまう。看護師さん、私の財産をもらってくれませんか」隆がぽつりとつぶやいた。
敏江は目を丸くする。「めっそうもない。私にそんな資格などありません」
「いや、いいんです。最期を迎えるときに、優しい方にめぐり合えて、私はとてもうれしいです」
隆は遺書に「全財産を高田敏江に与える」と書いた。そしてそれに封をして、ホスピスの職員に預けた。敏江は隆の遺書のことについては何も聞かされていなかった。
「さて、奥さんのことをどうしたものか」敏江はひとりごちた。「一度、亡くなったと説明している。それを実は生きていました、と言うのが沢川さんにとっていいことなのだろうか」
敏江はやはり隆に本当のことを言うのはやめようと思う。
「ねえ、看護師さん。私は妻と別れた身です。いまさらこんなことを言うのは、はばかられますが、私はここへ来て看護師さんのことが好きになりました」と隆は敏江に言う。「男女の仲がどうこう言うことではありません。でもね、看護師さんといると安心できるんです。『永遠の命』ということも教えていただきましたし。これで安心して旅立って行けます」
それから月日が過ぎた。交流スペースのテレビでは、風邪薬のCMが見られる季節になった。敏江が、探偵からの報告を告げた2か月後、隆は亡くなった。
敏江は、ホスピスの施設長から、隆の遺書のことを教えられる。
「まあ、ほんとうだったんですね」敏江の目から一筋の涙が流れる。「施設長、私はどうしたらいいのでしょう」
「それは、あなたが決めることだ」と施設長は言う。「あなたの財産なのだから、ありがたく受け取っておけばいい」
敏江より5歳年上の看護師花山桜子は、「結構なご身分ね」と敏江に皮肉っぽく言う。「話し相手をしただけで、財産がもらえるなんて」
「そんな言い方ってないでしょう」敏江はカッとなる。「私はいただいた全額をこのホスピスに寄付します。それが沢川さんの供養になるでしょうから」
そして敏江は施設長に相談し、財産をホスピスに寄付することにする。
敏江は自分の決心が間違いではなかった、と誇りに思う。
「沢川さん、あなたは私を成長させてくれました。あなたのことは一生忘れません」と敏江は力強く言った。
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