雨宿りの代償
夏休みまであと1週間だというのに、葵は鬱々とした気分で自宅までの道を1人で歩いていた。校舎を出た時にポツポツと降り出した雨が、今は激しく傘を叩きつける。
──アイツ、どうする気なんだろうか。
さっき、クラスメイトから聞いてしまった。幼馴染の優希が、インフルエンサーとして活躍している女子生徒から告白されたのだと。誰もが振り返るような美貌を持っているのに、明るく気さくな性格で校内にもたくさんのファンがいる。優希と並んだ姿を想像して、ため息が漏れる。あまりにも似合ってるから。
優希は幼稚園からの幼馴染だ。小学校の低学年までは同じくらいの体格だったのに、四年生から始めたバスケットボールのおかげなのか、今は葵の頭一つ分くらい大きい。体格も良く、顔も整っている方だろう。性格も男らしく、頼り甲斐もあり、誰からも慕われている。
幼少期に小柄で中性的な見た目だった葵は小学校で何度かイジメの対象にされかけたが、その度に優希が間に入り、いじめをやめさせた過去がある。優希はただの幼馴染でななく、葵の憧れの対象でもあった。
後に、葵をいじめていた原因を優希から「本当は葵と仲良くしたかったからみたい」と訳のわからない理由を聞かされたが、本人からしてみたら理不尽にも程がない。
中学に入ってからも、優希は葵の用心棒だとみんなに茶化されるほど一緒に過ごした。何かあれば一番に駆けつけてくれる親友でもある。
彼女が恋に落ちても、何ら不思議ではない。もし、2人が付き合い始めても「良かったじゃん!彼女を泣かせたら世界を敵に回すぜ?」なんて軽口も笑って言えるはずだ。
体にまとわりつくような湿度で余計に気が滅入ってくる。
「葵!ちょうど良かった。入れて!」
バシャバシャと水飛沫を上げながら駆け寄ってきた優希が、葵の傘に大きい体を潜り込ませてきた。
「ゆ、優希っ?」
「俺が持つよ」
ひょいと傘を奪われてしまう。ここまで雨の中を走っていたのだろう、シャツの下が透けて見えるほど全身がぐっしょりと濡れている。
「ビショビショじゃん……」
優希の顔を見上げて葵は訝しげな顔をした。
「傘がなかったんだから、仕方ないだろ」
悪戯っ子のように笑う。白い歯が見えた。
濡れた髪がいつもと違う雰囲気を醸し出し、不覚にも胸が高鳴ってしまう。
ただでさえ男2人で傘の中は狭く、微かに触れる腕が熱を持ったように熱く感じる。
「うち、寄って行けよ。服と傘貸すから」
自宅のマンションが見えてきたところで、葵は優希に提案をする。
「悪いな。葵の家行くのすっごい久しぶり」
嬉しそうにニコニコと笑う優希につられて葵もはにかんで見せた。
両親は共働きのため、昼間の自宅は静かだ。
太陽は完全に黒く染まった厚い雲に隠れ、部屋の中は薄暗い。
「そこで待ってて」
優希を玄関で待たせ、脱衣所にタオルを取りに行く。
大きめのバスタオルとフェイスタオルを一枚ずつ持って、玄関で待つ優希に手渡す。
「サンキュ」
「リビングに行ってて。着替え持ってくる」
自室に入り優希が着られそうなものがないか、探していると遠くから優希のお邪魔しまーすという声が聞こえてきた。あの大きな体が着られそうなものが、寝巻きに使っているTシャツくらいしか見当たらなかった。仕方がない。Tシャツを持ってリビングに入ると丁度、制服のシャツを脱ぎタオルで体を拭く優希がいた。
「ごめん。お前が着られそうなの、これしかなかった」
「おー全然いいよ。ありがと」
ソファに着替えのTシャツを置いて、葵は冷蔵庫に飲み物を取りに行く。
「しばらく止みそうにないな」
着替えた優希はソファに腰掛けて、ぼんやりと外を眺めていた。窓に打ち付ける雨音がさらに大きくなっていく。まさにバケツをひっくり返したような大雨だった。
「小降りになるまで、雨宿りしていけよ」
ほら、とペットボトルの炭酸飲料を渡す。
「至れり尽くせりじゃん」
優希は笑うとボトルキャップを回して、冷たい炭酸を喉に流していく。葵は自分の寝巻きを着て、ソファでくつろぐ優希を秘かに見つめた。2人の会話を遮るかのように窓の外は激しい雨が降っている。まるでこの部屋に2人で閉じ込められたような気分になってくる。今なら聞けそうな気がした。
「あのさ、聞いちゃったんだよね。インフルエンサーの子のこと……」
葵が遠慮がちに尋ねる。
話題を出した途端に、優希は苦虫を噛み潰したかのような顔を見せた。
「はぁ?お前も知ってんの……勘弁してくれよ……」
はぁ、と大袈裟にため息をついて、両手で顔を覆うと天を仰いだ。
「付き合う訳ないじゃん。俺、全国大会前だぜ?そんな暇ねぇよ」
「え……?じゃあ、大会が終わったらで良いじゃん」
優希のあまりの素っ気のなさに、意表をつかれた葵は咄嗟に彼女を擁護してしまい、自分でも不思議な気持ちになる。
「ない、ない。興味ない。時間があるなら、お前らと遊んでたいし」
「そうなんだ……俺はてっきり……」
彼女には悪いが舞い上がる心を止められない。そんな胸中を見抜かれたくなくて、葵は咄嗟に顔を逸らした。
「で、俺も知ってるんだよ?お前のこと……」
頭上で優希の声色が突然変わる。葵が思わず見上げると鋭い目つきをした優希と目が合った。
「何を……」
「お前だって、モテモテじゃん。なんで、教えてくれないの?」
さっきの態度とは打って変わって、ニヤニヤと楽しそうに葵の顔を差し覗く。
「それは……」
しどろもどろになる葵を揶揄って面白がっているのだろう。必死に言い訳を考えるが、頭が真っ白で何も浮かんでこない。
なんで知っているんだ!?
葵は1ヶ月ほど前に他校の生徒から告白を受けていた。しかも、優希の試合の応援に行った先の高校の生徒だった。一目惚れだと言われた。きっと、部活の連中から漏れたのだろう。
真っ赤になって、黙り込む葵に優希が吹き出す。
「悪ぃ!そんなつもりじゃなくてさ、ちょっと冷やかしただけ」
悪い悪い、と声を出して笑うと残りの炭酸を一気に飲み干した。
「……んだよ。そんなつもりってどんなつもりだよ。性格悪っ」
「だから、悪いって。謝ってるじゃん。結局、葵も面倒臭いんだろ?特定の誰かと付き合うなんて窮屈じゃない?気を使うし、貴重な休みは自由に使えないしさ。」
まるで自分の心に蓋をするように次から次へと言葉が出てくる。
「まぁ、確かにね……」
明け透けな口振りに葵は腕を組んで苦笑いをしていた。
「だろ!俺たち似たもん同士だもんな」
優希は自分の意見が肯定されて、嬉しそうにケラケラと笑う。2人きりでこんなに笑い合えるのはいつぶりだろう。一緒にされるのは心外だが、嫌でも胸が躍ってしまう。
「もうさ、いっそのこと俺たちで付き合うかぁ」
優希につられて、うっかり口走ってしまった。
あっ、と思った時には既に遅く、愛想笑いをして何とかやり過ごそうと目を泳がせていると「それも良いかもなぁ……」と、ソファの肘掛けで方杖をついて優希がポツリと呟いた。
「え……」
「それも良いかもなっーて」
口調は砕けているものの、その眼差しは強く葵を捉えている。
隠した葵が悪いのだ。少し、困らせてみたかった。
噂なんかで聞きたくなかった。葵本人の口から直接相談されたかったなどと思うのはくだらない独占欲なのだろうか。優希の胸には得体の知れない仄暗い感情が湧き上がっていた。
葵は視線を彷徨わせ、返す言葉を探しているが、中々喉から出てこない。何を試されているのか。優希の真意がわからず、ただ、優希の瞳を見つめ返すことしかできない。
葵の態度に、悦に入った優希はさらに踏み込んでみたくなる。止められない。
「本当にいいの?」
優希の手が伸びて、葵の硬く握った拳と重なった。赤い顔をしてパチパチと瞬きを繰り返す葵に優希はしばし見入った。
「……お前が言い出したんだろ?冗談だよ」
葵のリアクションを待たずに優希は無理やり話を切り上げた。これ以上は自分を見失いかねないような気がして、怖気付いてしまった。
優希は笑って葵の髪をくしゃくしゃと撫でて立ち上がると、カーテンを少し開けて外を覗いた。
いつの間にか雨は小降りになっている。
「そろそろ帰るよ」
葵は玄関に向かって歩き出す優希の広い背中をぼんやりと眺めた。雨に閉じ込められた2人きりの時間が終わりを告げる。優希はドアを開けて現実の世界へ帰って行くのだ。ふと優希が振り返った。
「服、明日返すよ。ありがとな。」
もう、いつもの優希だった。なかったことにしたのだと、葵は察した。この出来事は自分たちの関係に静かな亀裂を生むことになるのかもしれないから。
「葵?」
気がついた時には、優希の腕にしがみつくようにして引き留めていた。
「……すんなよ。冗談に」
必死だった。このまま帰したくなくて。
突然の出来事に優希は息を呑んで、立ち尽くした。
甘ったるく、絡みつく様に非日常的な状況に飲み込まれていく。
今まで好き好んで、恋愛などという面倒ごとに自分からは関与しないと思っていたが、きっとこうやって皆、落ちて行くのだろう。落ちる時は一瞬だ。
もう億劫だなんて、言い訳は言えないのだと、悟らされた。
とんだ雨宿りの代償だ。
「あ……ごめん」
葵は少し寂しそうな顔をして掴んでいた腕をそっと離した。
「こんなの……俺達らしくないよな……ごめん……」
「いいよ、大丈夫」と笑って誤魔化したいのに、優希はもう自分の本心を隠せる気がしなくなっていた。
「……」
「また明日な。気をつけて──」
帰れよ、と言いかけたところで思いきり、優希に抱きしめられた。
息ができないほどの強い抱擁に葵は、陸に打ち上げられた魚のように喘ぐ。
「ゆ、優希!く……苦しいっ!っから!」
背中をバンバン叩いて、咎めるが優希は一切、力を緩めてくれない。そのままずるずると薄暗い玄関の床に座りこんだ。やっと腕から解放されて、ほっと息を吐くと間上に優希の顔があった。思わず逃げ出そうと身を捩ると逃さまいと、さらにきつく抱かれる。
「嫌だった?」
優希の長い指が耳に触れる。
「嫌……では……ない」
消え入りそうな声で葵は応える。
そのまま葵を抱きしめて黙り込む優希に葵は当惑する。
どうするの……これ……
俺のピンチを何度も救ってくれたヒーローは、どうやら俺のことになると臆病に転じるらしい。
「俺さ、小さい頃からずっとお前に憧れていたのに……こんなにずるい奴だったなんて初めて知った」
葵は唇を尖らせて、拗ねたようにぼやく。
「なんとでも言ってくれ」
耳元で囁くように告げられ、葵は観念して目を閉じた。
雨音はもう聞こえない。
カーテンの隙間からは明るい日差しが差し込んでいた。




