死にたい少年とメロンパンを買いたい楠木
その日、丘の上の楠木はいつものように背中に預けられた少年の体重が心なしか重いことに気づいていた。
いつもの午後、いつもの木漏れ日、いつもの少年の背中。
けれど少年の心を満たしているのは、いつもとは全く違う「死への渇望」だった。
すべてを諦めたような冷たい静寂が少年の体からじわりと伝わってくる。
それを悟った楠木は何百年もの沈黙を破り驚くほど陽気な声で話しかけた。
「ねえ、ちょっとそこの少年、そんなに暗い顔してるとせっかくのいい風が台無しだよ!」
少年は飛び上がって周囲を見回したが誰もいない。
ただ頭上からさらさらと葉の擦れ合う音が響いている。
「僕に、話しかけてるの?」
「そうだよ、君だよ! いやあ、初めて話しかけちゃった、驚いた?」
声は確かに背後の大樹から響いていた。
あり得ないはずの状況だったが楠木のあまりに屈託のない声に少年の心に張り詰めていた緊張がほんの少し緩む。
そして会話はごく自然に成立した。
「君さ、そんなに死にたいなら僕の願いを一つだけ叶えてくれない?」
楠木は丘のふもとに見える小さな建物を、葉を揺らして指し示した。
「あのさ、目の前にあるパン屋さん、あそこのメロンパンってやつをどうしても一度、自分で買って食べてみたいんだ、そのために少しの間だけ僕と体を入れ替わってくれないかな?」
どうせ捨てるつもりの命だ。
少年は深く考えもせず小さく頷いた。
「いいよ」
刹那、少年の視界がぐにゃりと歪み、一気に視点が高くなった。
次の瞬間、少年は息を呑んだ。
そこは楠木の目線。
遮るもののない圧倒的に雄大で美しい世界の景色が広がっていた。
驚きはそれだけではなかった。
体が木になったことで少年の感覚は五感を超えて世界へと溶け出していく。
ああ、世界が、生きている!!
空にも、海にも、足元の大地にも、すべてに固有の意識があった。
それらは果てしない大きさで互いに手を取り合い、優しく、そして力強く世界を包み込んでいる。
地球そのものが巨大な命として深く呼吸しているのを少年は肌で、根で、葉で、ダイレクトに感じ取っていた。
自分の抱えていた悩みや孤独がこの途方もない世界の広さの前ではまるで一粒の砂のように小さく思えた。
「おーい! 見て見て!」
地響きのような世界の歌の中に、ひときわ高くて弾むような声が混ざった。
見下ろすと自分の姿をした少年が、とってもとっても嬉しそうに、焼き立てのメロンパンを両手で高く掲げながら、こちらに向かって全速力で走ってくる姿が見えた。
息を弾ませ、顔を輝かせ、ただ一つのパンのために、世界を祝福するように走る自分の姿だった。
片や、世界のすべてを包み込む、果てしなく雄大な大自然の意識。
片や、その世界の片隅で、たった一つの小さなメロンパンに命を輝かせる人間という存在。
その、あまりに対照的で、けれどどちらも等しく愛おしい景色を目にした瞬間、少年の胸に言葉にならない衝撃が走った。
世界はこんなにも大きくて、そして、人間が生きるということは、あんなにもシンプルで、愛に満ちたことなのだ。
死の誘惑は、いつの間にか霧のように消え去っていた。
「ただいま! 美味しかったぁ!」
「自分」が楠木の幹に触れた瞬間、視界が激しく回転し少年は地面に尻餅をついた。
見上げれば、いつものように静かな、だけどどこか満足げな楠木が、優しく枝を広げている。
少年の口内には、なぜか甘いクッキー生地の香りと、バターの幸福な余韻が微かに残っていた。
少年は立ち上がり衣服の土を払った。もう下を向く必要はなかった。
今度は自分の足で自分の意志で。
少年はあの優しく力強い世界の呼吸を感じながら、丘のふもとのパン屋さんへと思いっきり走り出した。




