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暗闇の水を飲んではいけない  作者: まさつき


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2/2

【後編】暗闇の水から

「ちょ……やめてよ、停電?」


 女の目の前には黒しかない。冷蔵庫の扉に表示されるはずの[節電]や[製氷]といった緑色の文字が消えている。ペットボトルの水を取り出そうとしていた手を引っ込めた。停電なら、冷蔵庫を開けるわけにはいかない。電気がなくても、数時間程度は冷気を保ってくれると聞いた覚えがある。しかし、猛暑日の続くこの夏場ではどれほど効果があるのだろう? いずれにしろ、手を触れずにおいたほうが良さそうだ。


 窓のほうへと目を向ける。黒い壁だけがある。窓を叩く雨音が、そこにまだガラス板があることを教えてくれる。普段ならぼんやりと街灯の光が窓から差し込み部屋を淡く照らすのに、一切の環境光が今はない。室内灯は当然ながら、家電の待機を示すLEDの小さな灯りも含めすべてが消えた。まさか自分の家の中を手探りで歩くことになるなんて。家電が灯す微細な光が夜の視界を意外なほどに支えてくれていたと、今更ながらに女は気づかされた。


 こめかみに一筋汗が流れる。暑い。裸の肌に汗が浮き始める。停電は光を奪い、熱を与えた。室温が上がっている。エアコンも動きを止めた。冷気を吐く羽根の口を開けたまま、何の音も立てていない。少しだけ窓を開けてみようか? おぼつかない足取りで、家具のあちこちに手を触れながら、窓辺に近づく。


 ときおり閃く稲光が部屋に差し込み、女の白い肌を室内に浮かび上がらせる。他にも暗闇に不安を覚える人が近所にいるかもしれない。窓辺に立ったら、裸を見られてしまうかも――そっとカーテンの隙間から首だけを出す。変わらない激しい雨風が、世界を無数の黒い筋で塗りこめていた。雨音は海の磯を割る波音のように荒々しい。僅かに隙間を空けるだけで雨が吹き込み、部屋は水浸しになるだろう。それどころか強風に煽られて、自分の細腕では二度と窓を閉め直せなくなるかもしれない。窓を開けるわけには、いかなかった。


 ベランダ越しの街並みからは、人の手による人工の灯かりが失われている。正真正銘、女の住むマンション一帯は停電になったのだ。見渡す限り明かりは見えない。あるのは一瞬の稲光だけ。停電をもたらした元凶を、恐怖の主を、今は頼るしかない。


 しかし、ときおり他人の家の中で閃く明かりがあることに気がついた。懐中電灯?――いや、スマホのライトか。そうだ、自分のスマホは今いるこの部屋、リビングのテーブルに置いたんだっけ。


 思い出して女は振り返り、テーブルの上をまさぐる。余計なものを弾き落とさないよう慎重に、天板の上へ手を這わせる。テーブルには何があったか。ティッシュの箱、飲みさしのマグカップ、一輪挿しの花瓶、家電のリモコンがいくつか。しかしいつまでたっても、肝心のスマホがみつからない。テーブルの縁を手探りしながら歩く。足の小指を椅子の足にぶつけて短く悲鳴を上げる。涙目になりながら、ようやくスマートフォンが手に触れる。置いた場所は、洗面所側のテーブルの角だった。


 手が汗ばむ。スマホを取り上げる指が滑りそうになる。顎先から汗が雫となって落ち、足の甲に垂れた。うなじから流れる汗が背骨に沿って伝い落ちる感触は、人の指先が這うのに似ている。文明の燈火を手にしているはずなのに、なぜか不安が増してくる。首筋に滲む汗が鎖骨のくぼみに溜まり始める。喉が渇く。水を飲まなきゃ。ペットボトルは冷蔵庫の中にしかない。仕方がない、水道の水を――


 ――闇の中で、水を飲んではいけないよ。お化けさんが潜んでいるからね。


 祖母の戒めが耳の奥に浮かぶ。忘れたことなどない。スマホのスリープを解き、ライトを点ける。安堵が訪れるはずなのに、女にもたらされたのは絶望だ。バッテリー残量1%。あの男から送られたメッセージの、山のような通知のせいだ。モバイル通信を有効にしたままだった。あなたのほうから別れ話を切り出したのに。あなたの勝手が私を捨てたのに。もう私のことなんか放っておいて――キッチンへの道筋を照らしたとたんに、頼みの明かりは切れてしまった。


 ――ダメだよ、いけないよ、決して飲んではいけないよ……祖母の声が聞こえる。隣に立ち、耳元で囁いているようだった。しかし。


 水、ミズ、みず。水が必要なのだ。禁忌に触れず、俗信を守っても、熱中症で倒れたのでは意味がない。室温が上がる。体温も上がる。渇きが増す。体内の水分が、汗となって逃げていく。闇の中でも、たとえ何かが潜んでいようとも。女は全身で、水の癒しを求め始めた。


 闇の中、キッチンにたどりつき、シンクの前に立って手探りでコップを取り上げ、手探りで蛇口をひねる。水が流れ出す。水柱に手が触れると、まだ生温かい。冷たくなるのを待たずに、一杯目を注いで飲み干した。温い水が喉を落ちていくが、渇きは癒えない。二杯目を飲んだ。まだ乾いている。三杯目を注ぐ。ガラスコップが手に重い。縁まで注いだ水はようやく冷たい。喉が鳴る。一気に全てを飲み干した。


「ん……なに、今の……なんか、飲んだ?!」


 確かに水だけを飲んだ。しかし、確かに何かを飲み込んだ。薄いゼリーのような希薄な塊が口内に触れ、舌の上を震えて這い、喉を滑って胃に落ちた。食道を通りながら、微かに揺れていた。身体の中に、何かが潜り込んだようだった。


 ――暗いところの水はね、お化けさんの隠れ場所になるんだよ。決して決して、飲んではいけないよ……。


 祖母の言葉が反芻される。迷信でもない。俗信でもない。本当に本当だったのか。ただなんとなく、守らなければ心が落ち着かないといった程度のことではなかったのか。守らなければ、意味の分からない恐怖に取り憑かれるから守っていた。ただそれだけのことだったのに――現実に、何かが起きてしまうだなんて。


 いや、これだってまだ、いつもの妄想なのかもしれない。闇と水が迫るときは、何かがいるような錯覚を得てしまう。でも、いつもそれだけだ。実際に何かが見える、匂う、聞こえる、味わう、触れられたわけでは――


「…………っ!」


 何かに、腹の内から身体を押された。小さな塊が胃壁にぶつかり内臓を震わせる。内側から骨を伝うようにして、水を跳ねかす音が聞こえる。骨伝導が蝸牛を刺激し、鼓膜も内側から震えている。胃の中を動き廻り、飲み干した三杯の水を掻き混ぜる何かの存在を女は確かに感じながら、再び激しい渇きにも襲われた。


 無性に水が飲みたくなり、四杯目を飲み干し、五杯目を空にする。コップ一杯は二百cc。五分とかけずに一リットルの水を飲んでいる。鳩尾の下に手を当てる。ところがちっとも、腹は膨らみを帯びていないのだ。なのに、内側で蠢くものの感触だけが確かにある。水を飲んだ分だけ、蠢くものが成長しているのだろうか。それとも、肉体そのものが侵食されているのか。内臓が透明な水の塊に置き換えらえていく光景が浮かぶ。腹に置く手のひらには汗が浮く。手のひらが触れる腹の皮膚が粟立つ。女が感じる身の内の感触は、一匹の小さな生き物が泳ぐ水槽を思わせた。


 ――吐かなきゃ。お化けさんは、からだから吐き出さなくちゃ……!


 腹を押さえて女はトイレに向かって奔ろうとする。しかし、出来ない。普段であれば目を瞑っていても動ける勝手を知った狭い室内であるのに、闇しか見えない道筋では足元がおぼつかない。それほどに、光がない。ようやく辿り着いたトイレの扉を開けると、そこに待つのはさらに深く濃さを増す闇だった。


 しゃがみこみ、手探りで便座カバーを開き、顔を下に向ける。消臭剤の匂いが顔に触れる。口を開け、片手の人差し指と中指を喉奥に突っ込み、舌の奥を押す。潰れた声を漏らして、嘔吐く。込みあげる。吐き出せそうだと思った。ところが、胃液一滴すら出てこない。腹の中で何かは、悠然と揺蕩っている。代わりに女が感じたのは、なぜか急で激しい尿意だった。


 洩れる……! と思って瞬時に立ちあがり、便座に尻を落ち着ける。座った途端に音を立てて尿が流れる。捻り過ぎた水道の蛇口のように、体の水分を全て吐き出す勢いだ。ところが違和感を覚えた。アンモニア臭がひとつもない。鼻腔を刺激しているのは、鉄錆に似た匂いだ。おかしい。生理にはまだ早い。痛みもない。だいたい、液体が流れ出ている場所が違う。視えなくても、尿道を流れている確信がある。放尿感があるのだ。ならばこれは血尿か? それともまさか、便器の中に流れているのは、体を巡る命の水、血液そのものなのだろうか――


 いったいどれほど流れ出したのか。体中から水分が絞り出され、肌は老婆のように深い皴だらけになっているのではないか。開け放したままだったトイレの扉の向こうで、一瞬の閃きに部屋が照らされる。轟音が轟く。壁が短く震える。落雷は鎮まりそうもない。よろけながらも立ち上がり、トイレの水を流した。鉄錆の匂いが遠のいていく。流した分だけトイレのタンクが給水されるが、水音ははいつもより弱々しい。停電でマンションの水圧が下がっているのかもしれない。それでも水は必要だ。断水してしまう前に、もっと水を飲まないと。もっと、もっと、もっと……。


 女はキッチンへ向かいながら、裸のままの両肩に自らの腕を回した。身体を撫でる。悪寒がある。熱中症の症状だろうか。頭がぼんやりとしている。肌は皴枯れてはいないようだ。体に浮く汗が濃い。指に掬って舐め取ると、ひどく塩辛い。水道の蛇口をひねる。コップに水を注ぐ。さっきよりもやはり、水流を細く感じる。飲み干し、注ぎ、飲み干し注ぎを繰り返す。腹の底の何かが生き生きと動く。蹴った。腹の内側を蹴られた。その響きが膀胱を揺らし、激しい尿意を再びもたらす。


 トイレに駆け込む。便座に座る。やはり吐き気はない。痛みもない。座った途端に、また激しく尿が出ていく。血の匂いも変わらない。流れに乗って、腹の中の何かが下へ降りていくような感覚がある。腹の下、腸の下、股に近い下腹部へ。直接つながっていないはずなのに、何かは小さな袋状の臓器の中へ潜り込んだらしい。命のゆりかご、子宮にいる――なのになぜだろう、不思議と恐怖を感じない。


 そもそもこの何かに対して、自分は恐怖を感じていたのだろうか。下腹に手を当ててみても、女にはこれを押し出して流してしまおうという衝動が湧かない。恐れていたのはもしかしたら、祖母の言葉そのものだったのでは――分からない、頭のぼんやりが増している。また室温が上がったか。体の表面が熱い。なのに、内側は水中にいるかのように冷えている。寒気とは違う。ひどく眠気を感じはじめた。もっと水を飲んでから、体を休めなくては――


 三度キッチンに向かって水を飲む。水流はさらに細くなっていたが、女はコップ五杯分の水を飲み干した。とっくに水中毒を引き起こしてもおかしくない量を飲んでいる。女は水中毒の症状など知らなかったが、体に辛い不調はなにひとつ起きていなかった。ひどく気怠く、強い眠気だけがある。渇きは消えた。気がつけば、あれほど動き回っていた何かはおとなしく、子袋の中で安らぎを得たらしい。


 女はベッドに倒れ込む。部屋の熱気も、外の豪雨も、激しい雷鳴も変わらない。闇があるのも変わらない。それでも女は、大きな安らぎを感じていた。強い眠気に引かれ、やがて深い闇の底へと意識を落とす。落ちた底の底には、小さく愛らしい青い何かがいた。女の意識は静かにそれに寄り添い、人生で初めて知る心地よい温もりが心の内から湧くのを感じながら、共に健やかな眠りを得るのだった――



 刻は、等しく流れている。誰の身にも、女の身にも。豪雨をもたらす黒雲にも、太陽をめぐる地球の動きにも。体の上から熱に押される感触を得て、女は目覚めた。室内が明るい。首筋に汗が浮いている。部屋に籠もる不快な熱気と湿気はそのままだが、雨音は消えていた。寝返りをうち窓を見る。髪が湿って重い。カーテン越しにも分かる鮮やかな青。朝が、訪れていた。


 女はゆっくりと体を起こす。胴を支える腕の先、ベッドにつけた手のひらから湿り気を感じる。寝ていた場所を確かめる。視線を落としたベッドは、びっしょりと水に濡れていた。寝汗にしては量が多い。ふと、昨夜の出来事を思い起こす。まさか、夜尿……しかし濡れてはいても、シーツは真っ白なままだ。


 ベッドから立ち上がり、テレビのリモコンをテーブルから取り上げる。体に不調は感じない。電源ボタンを押すとテレビは点いた。昨夜のうちに停電は復旧したのかもしれない。映ったチャンネルは地上波の公共放送で、集中豪雨の被害を伝えるニュースを流している。冷房も点けた。冷たい風が女の体を吹き抜けていく。テレビで連休中の天気予報を解説しているのは、お気に入りの男性天気予報士だ。


「こまめな水分補給を忘れずに、冷房を適切に使用し、熱中症にお気を付けください」――そう言って、画面の優男が女ににっこりと笑いかけてくる。急な気恥ずかしさを覚える。素っ裸でいることを思い出す。昨夜の出来事も思い出した。そうだ、トイレはどうなっているのだろう? まさか血まみれになって――確かめてみたけれど、汚れはどこにも見当たらない。念のため水を流したが、いつも通りの流量で便器の水は引き、タンクには変わりの水が満たされていく。


「夢、だったのかな……」と呟き、女は髪を掻きあげた。柔らかな黒髪は汗に濡れ、指どおりがひどく悪い。シャワーを浴び直そうと思い、洗面所に向かう。三和土に捨てられた泥だらけのパンプスが目に入る。


「あー……そだ、あのお金とかも確認しないとかぁ……」


 憂鬱な三連休の予定を頭の中で組みながら、洗面所の扉を開ける。薄暗い小部屋に明かりを灯すと洗面台の鏡には、汗にまみれながらも柔和な顔をした女性の裸身が映っている。しかし。


「あれ? なんで……?」


 腹が、膨れている。細身で平らな腹部のはずなのに、へその下あたりがなだらかに隆起している。両手を下腹に添えてみる。静かに両の手のひらで撫でてみると――


「あ、動いた」


 呟いて女の口元が、柔らかくほころぶ。この膨らみは、もしかしたら……。


「帰ってきて、くれたんだ」


 求められて流した子は、男の子だったろうか、それとも女の子だったろうか。診断は三ヶ月だった。あれから二ヶ月が過ぎた。あの頃からだ。闇の水に近づくたびに感じる、小さな人の気配は……もしかして。


 ――子供が欲しいと、確かに男は言っていた。それなのに。


 ――いや、それならば。


〈了〉

残暑厳しいですね

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