かっこうの巣、何もかも
「その注射器は……何なんだ……お前は俺に何を。」
「何って、気持ちよくなる薬だよ?お兄ちゃん、つらそうだったから元気にしてあげようと思って。できた妹でしょう?」
「そのお兄ちゃんと呼ぶのはやめろ!もう分かっているんだ!お前が……境野家に何らかの方法で妹として……境野美奈を騙して娘として生活していたことは!!」
我慢できなかった。まるで自分のやっていることが何一つ間違っていないと振る舞う彼女に。未だにばれていないと思っているのか、自分のことを兄と呼ぶその態度に。俺は心底嫌気が差したのだ。
「そんなことまで分かってるんだ。あーあ、だからかぁ……効き目が悪いのは……でもお兄ちゃん、お兄ちゃんだってそうだよね?お兄ちゃんも私と同じ、お母さんを騙してるんじゃない?」
弱いところをつく。事実そのとおりだ。だが、だからといってこの女の行為が許されるわけではない。
「……そうだ。俺だってお前と同じだ。お前と同じ罪を背負った罪人だ。だがだから何だというんだ。俺は全てが終われば全てを話して……一生をかけて償ってやる。だがお前は何なんだ、そうやって騙し続ける気なのか、あの罪のない女性を、罪のない家庭をッ!」
それはサキにではなく、自分に言い聞かせるものだった。許されるとは最初から思っていない。ならせめて俺は隠し事なんてやめて、まっすぐと……サキはそんな俺の覚悟ともとれる言葉を聞いて、笑っていた。
「何がおかしいッ!!」
「あぁ……ごめんごめん。だって……あまりにも独りよがりなんだもんお兄ちゃん。知ってる?そういうのをね、自己満足って言うの。全てを話して、一生かけて償う?あはは、本当に自分のことしか考えてないんだね、お兄ちゃん。そんなことをして……喜ぶのはお兄ちゃんだけだよ?俺は罪を認めて贖罪をした?だから悪くないって言いたいの?本当に独りよがり。ねぇお兄ちゃん、想像したことある?突然、平和な家庭で、長年子供に恵まれなかった夫婦が、ようやく手に入れた幸せな家族である息子と娘が、自分の実の子供じゃなくて、実の子供なんていなくて、今までのは全部家族ごっこだったって、伝えられた憐れな女の気持ちが。」
それは頭に浮かんだ。俺とサキが全てを告白した後の話。あの広い一軒家に一人、生活をする女性の姿を。ただいまと言っても何も帰ってこないで、冷たい、人気のない空気が肌を刺す。いくら待っても、もう誰も帰ってこない家で、一人静かに、食事をつくり、適当にテレビを見て、返事のない相手に相槌をうったり笑ったりして……そんな日がずっと続き、そして年老いて一人寂しく死んでいく……。
「その表情、想像ついたみたいだね。そうだよ、お兄ちゃん。私たちはずっとこれまでも上手く言ってたじゃない。家族ごっこの何が気に入らないの?少なくとも、あの人、境野美奈の笑顔は、本物だったと思うよ?」
俺の頭の中は巡り巡っていた。今日もそうだった。俺が一日外泊して戻ってきたときの彼女の顔が浮かぶ。俺がクッキーを齧っていた時の顔が浮かぶ。心底幸せそうな顔だった。それは嘘偽りない、本当の幸せが、確かにそこに……。
「お兄ちゃん私はね、お察しの通り催眠により記憶認識を操作して家族として振る舞っていたの。でもお兄ちゃんは特別でね、お兄ちゃんが心の底から、本心で私の能力を受け入れるつもりがないと、操作できないんだ。ねぇお兄ちゃん?覚えがあるんでしょ?お兄ちゃんは、この家の家族になりたかったって。」
それを俺の本質を射た言葉だった。俺がこの世界に来た時、初めて感じた記憶。それは"昔の頃に戻ったようだった"という感想。そして家に帰ったときに最初に声をかけてくれた女性。ノスタルジックな雰囲気に飲まれ、このままで良いと、そう選択したのは俺自身ではないか。全ては錯覚、似たようなものを勝手に自分の記憶と結びつけ、そうであると誤認識しただけ。真実なんて、最初からなかった。俺の全てが虚構だったのだ。だからきっと、偽物の認識を違和感なく受け入れて、家族であろうとしたのだ。
「ね?だから受け入れようよ。大丈夫、お兄ちゃんがそう願うなら、今日のことは全部忘れるから。明日からまた仲の良い家族に戻ろう?あ、でも血の繋がってない妹だからって、えっちなことは駄目だからね?」
サキは優しく、まるで壊れ物を扱うように、そっと優しく俺の頭に手を当てた。あとは俺の思い次第ということだ。だが俺は……一つだけまだ教えてもらってないことがある。
「お前はさっき一人で、と言ったが境野美奈には夫がいるはずだ。境野早紀という。その人はどこにいったんだ?」
サキの手が止まる。それは予想していなかったからなのか、それとも痛いところをつかれたからなのか。
「答えてくれ。確かにいたはずの父親、境野早紀はどこにいった?」
俺は繰り返し、確認するように答えた。
「境野早紀は……もういないよ。この世のどこにも。」
それは一体どういう……俺が質問をするより早く、サキは答える。
「家族に入り込むっていうのはね、とても大変なことなの。分かるでしょ?今までずっと一緒だったのに、日常に入り込む異物。誰だって気づいてしまう。例えば三人家族が突然四人家族になってたら、きっとおかしいと思って調べない?だからね、私は三人家族のまま、境野家に入り込むことにしたの。ついていたのは境野早紀……さき。ふふ、女性名みたいだよね。男性女性ともに使える名前……。」
もう察しがついた。いや、この質問をした時点で薄々感づいていた。なぜ俺たちに父親が一度も姿を見せないのか。なぜそのことを境野美奈は一度も言及しないのか。
「だから私は境野早紀を殺害して、その役目を消して、娘として入り込んだの。」
境野美奈は子供をずっと望んでいた。突然出てきた娘を、まるで違和感もなしに受け入れたのだ。彼女にとって長年の悲願、例えそれが夢に消える幻だとしても、どうしてそれを否定することができようか。愛していたはずの夫が喪失したことにも気が付かず、ただ家庭が欲しかった。そんな女性の末路。
だから……やはり間違っているのだ。サキの言っていることは。例えその結果、一人の女性を不幸にすることになったとしても、人の命を弄び、虚偽の事実を植え付けるやり方は、下劣でしかなく、許されないことだ。
「やっぱり無理だ。俺とお前は分かりあえない。人の命を奪っておいて、そんな態度をとれる人間が信用できるはずがない。」
サキは黙り込む。これから俺をどうするつもりなのだろうか。先程から力がまったく出ない。おそらく拘束している道具に何か仕掛けがあるのだろう。俺を殺害して、代わりのお兄ちゃんを立てて、また境野家に居座り続けるのだろうか。永遠に……永遠に?
「最後に一つだけ、教えてくれないか。なぜ境野家なんだ?」
境野家は特別裕福な家庭ではない。特別な家庭ではなく、極々平凡な家庭である。そんな家に、リスクを負って娘として潜り込む理由が分からない。サキにも本当の家族がいるはずだ。俺と違って。裕福な家とか、有名人の家とかなら、色々と下衆な理由で潜り込むことは難なく想像がつく。だがどう考えても、境野家に潜り込む理由が分からないのだ。
「それ、聞いちゃうんだ。どうしようかな。」
勿体ぶったような態度だった。焦らしているというより、答えあぐねているような、そんな様子だった。暫くの間、沈黙が続き、やがて口が開く。
「私が境野家に潜り込んだのはね、お兄ちゃん、あなたが目的だからよ。」
意外とも言えるその言葉に、俺は閉口した。俺が目的だった……?どういうことだ。サキと出会ったのは俺がこの世界に来てから数日の出来事……いや違う。仁さんの言葉を思い出した。記憶の欠落……俺には俺の知らない記憶がある。仁さんと知り合い、交流した時間。その間に、俺はサキに目をつけられる、何か重大なことをしていたというのか。
「うん、もう良いかな。改めて紹介するねお兄ちゃん。私に本当の名前なんてない。だから今までどおり境野サキでいいよ。私はあなたを、いえあなたのようなアドベンターを狩りに派遣された、特務員よ。」
そう言うサキの様子は今までのような親密な態度ではなく、まるで機械のように、事務的な態度へと変化していた。





