境界線の先に、見えるもの
「本当についていかなくていいの?」
時は夕暮れ、学校も終わり下校時間は過ぎている。境野邸の前に俺たちはいた。
「いきなり、ぞろぞろと入ってきても不審がられるだけだろ。」
「な、なら私たちがついていけば良いじゃない、クラスメイトなんだから、家にお邪魔するくらい、ふ、普通でしょ。」
夢野やコトネは食い下がる。理由としては合理性があるし、不自然ではないだろう。だが、二人はユーシーと違い荒事には慣れていない。そういう意味で連れて行きたくはなかった。
見慣れたはずの境野邸。真実を知った今は何故か不気味に佇む魔の巣窟に見えた。なんてこと無い一軒家だというのに。予感がした。きっと今日俺は、境野家と決定的な別れを告げることになるだろう。それはサキだけではない。美奈という女性とも。俺のことを最愛の息子と勘違いしている……女性とも。
ユーシーから御札のようなものを渡される。何か会った時、居場所が分かるものだという。サキは得体が知れない。もし、家族に何気なく入り込み、平然と過ごしてきたというのなら、超強力な催眠能力を有している可能性が高いという。家族の絆に入り込むというのは、極めて困難で、並大抵の催眠能力では矛盾点により、記憶の覚醒を起こしてしまうからだ。ユーシーはサキのことを言っている。それは分かっている。だというのに、サキがいかに脅威たる存在か説明を受ければ受けるほど、自分も同じ穴のムジナだというのが身にしみて……嫌な気分になった。
「ただいま。」
結局、夢野とコトネの反対を押し切り、俺は境野邸へと帰宅……いや侵入した。玄関を開けるとパタパタとスリッパの音がする。
「おかえりなさい!もう心配したのよ?急に外泊するっていうんだから、どう友達の家は楽しかった?ほら早くあがって、母さんね、今日は暇だったからお菓子を作ったの。レンに食べてもらいたくて。」
母さんの、母さんだった者の言葉が、酷く胸を突き刺すようで、俺の心にはまるで、鋭利な刃物が何本も刺さっているようだった。母さん……美奈は俺の顔を見て、心底嬉しそうに世間話をする。近所の子供たちの話や、小さい頃の話、学校の話や、ありふれた日常の話。俺は美奈が作ったというクッキーを齧った。
「どう、上手にできてるかしら?レンは昔から味に厳しいから……でも今回のは自信作なの!色合いからして綺麗でしょう?」
もうやめてくれ。俺を息子だと思わないでくれ。味がしなかった。きっと美味しかったのだろう。でもごめんなさい、あなたが愛した息子はもういないんです。俺がきっと奪ってしまったから、ごめんなさい、ごめんなさい。涙を流しそうになるが必死に堪える。彼女の前で息子でいなくてはならないからだ。
「あぁ……凄く……美味しいよ……。」
それが俺のできる、精一杯の言葉だった。酷く無愛想で、つまらない返事。だというのに美奈は、その一言だけでずっと嬉しそうに話し続けた。その度に俺の心は深く傷つけられる。無償の愛、それがあまりにも残酷で、残忍で。
「ただいまー。あれ、この靴……お兄ちゃん?」
サキの声が聞こえた。そしてギシギシと床を踏み、こちらに向かう音がする。俺は気持ちを切り替える。境野家に紛れ込んだ異物、その正体を見定めるために。
「あー!やっぱりいた!て、いうかずるい!何で勝手にお菓子食べてるの!?あたしのは!!?」
サキは俺が食べていたクッキーを指さして叫んだ。美奈はそんなサキの態度がおかしいのか、くすりと笑い「サキちゃんの分もあるわよ。」とクッキーの乗った皿をサキの方へと向けた。サキはそれを手に取り、口にしてテーブルについた。親子の自然な会話。そんな光景が目の前で繰り広げられている。きっと俺は、こんな光景に何の疑問も抱かなかっただろう。今日、役所で知ってしまったことさえなければ。もう戻らない光景、知るべきではなかったのだろうか。いや、そんなことは無いはずだ。だって、美奈には愛している夫がいるのだから。サキはそれを隠している。それはきっと許されないことだ。境野早紀を助けるのは、境野美奈の息子を奪ってしまった、俺ができる唯一の罪滅ぼしなのだ。
軽食が終わり、そのまま美奈は夕食の準備に入った。サキは自室へと戻ろうとしていたので、少し話があると呼び止める。できればサキの部屋ではなく、俺の部屋で話をしたい。得体の知れない相手の部屋に自ら向かうなど、まるで怪物の胃袋に飲み込まれた気分になるからだ。俺の言葉にサキは快諾し、ともに部屋へと向かった。
「それで話ってなんなの?わざわざ部屋に連れ込んで……お母さんに聞かれたら困る話なのかな~?」
サキはいつもの調子でニヤニヤと俺をからかうように話す。どう切り出すかはもう決めている。
「俺たちの父さんの話なんだけどさ、」
俺の記憶はここで途切れる。
ガタッ!
身体がビクリと反射する。クラスメイトの目が一瞬こちらに向くがすぐに視線が逸れた。どうやら俺は授業中に居眠りをしていたようだ。皆、マジメに教師の話を聞いて黒板に書かれた内容をノートに書き写している。チャイムがなった。授業終業の合図だ。俺は身体を伸ばす。まだ眠気はとれない。
「もう、どうしたのレンくん。居眠りなんかして、寝不足なの?」
こいつは幼なじみの■■■サキ、小学生からの付き合いだ。
「ごめん、何かちょっと疲れてるみたいで。」
次の授業は教室移動だ。急いで向かわなくては。俺はサキと一緒に別教室に移動する。すると一枚の張り紙が目に止まった。それは、住民票と戸籍謄本だった。俺のものだ。頭痛がした。そうだ、俺は役所でこれを貰って……妹に……。
「サキ……?お前……何してんだ……?妹の次は、幼なじみなのか……?」
幼なじみを自称する女に俺は問いかける。女は笑う。そして世界は崩れた。
そこは暗い部屋だった。天井が見える。両手両足に違和感を感じた。何らかの手段で拘束をされているようで動くことができない。おそらく俺はベッドのようなものに磔にされているのだ。
「どうして気がつくのかなぁ、ずっと夢を見ていた方が、お互い幸せだったと思うよ、お兄ちゃん?」
サキの声がした。磔にされているので見えないが、確かに近くにいる。
「お前は一体、何者なんだ。何を隠している。」
「それはお兄ちゃんもお互い様、だよね?お兄ちゃんも私に隠していることがあるんじゃない?」
その言葉はまるで全てを見透かしているかのようだった。隠し事……あげればキリがない。そもそも、俺の存在自体が嘘なのだから。
「どうしたの?隠し事、あるよね?自分は隠し事があるのに、妹には包み隠さず話せだなんて、都合が良すぎると思わないの?」
ギシっと音がした。ベッドに重みがかかった音だ。おそらくサキは今、俺を磔にしたベッドに腰掛けたのだ。
「隠し事なんて……そんなもの俺には……。」
「あはは、嘘だよね?誤魔化せてないよ?これ、お兄ちゃんの荷物にあったんだけど、何だろ?戸籍謄本?おかしいなぁ、お兄ちゃん出生日がないんだけど。ねぇこれって大事なことじゃないの?何で私に隠すのかなぁ?」
わざとらしく、俺がつい先程、知った事実を反復する。それは残酷な事実だった。その言葉は冷たい刃物が、俺の内臓を突き刺すようだった。
「ち、違う……俺は……。」
本当の両親の顔と美奈の顔が浮かんだ。この女が一体何者なのかは分からないが、俺が一つの幸せな家族を奪ってしまったのは紛れもない事実で……そこには落ち度しかない。
「いいんだよ、それで。」
突然身体に重みがかかる。俺はサキに抱きしめられていた。
「辛かったんでしょう?大丈夫、あなたは悪くないから。だって何も知らなかったんだから。そんなの非難するのはおかしいよ。お兄ちゃんも被害者なんだから。」
それは俺の心にあいた孔を埋めるような蠱惑的な言葉で、甘い甘い蜜のようだった。思えば俺は誰かにこうして、許してもらいたかったのかもしれない。気がついたら見知らぬ世界にいて、ずっと一人、孤独だった俺の心を満たしてほしかったのかもしれない。
でも、この感覚は覚えがある。似たようなことをずっと受けていた。夢野の告白。彼女は隙を見てこうして、俺に薬液を注射をしていた。夢野は完全に善意からだと分かる。だがこの女は……。動かない手足を無視して、身体を上下左右に動かし、無理やり抱きついてきたサキを弾き飛ばす。サキは床に倒れ、そして手元から……注射器が転がり落ちた。
「いたた……お兄ちゃん、気持ちは分かるけど大丈夫だよ、わたしはお兄ちゃんの味方だから。」
そう言いつつ手元に注射器が無いことにサキは気づいた。俺の視線が自分ではなく別のものに向いてることにも。
「あちゃー、バレちゃったか。なんか酷く精神が憔悴してるし、いけると思ったのになぁ。」
悪びれもなく……サキは立ち上がり、またベッドに腰を掛ける。





