たとえ全てが夢に消えたとしても
彼女は一人布団に潜り込んでいた。何も聞こえない何も見えない。布団さんはいつでも優しく私を包み込んでくれる。私は寝ているんだ。寝坊して学校に登校するの忘れてしまったねぼすけなのだ。だから誰が来ても起きないのは仕方ない。
「ちょっとー!起きてるんでしょうー!いい加減にしなさいよー!!」
母さんの声がする。部屋の中に入ってきた。布団にくるまっていた私を引っ剥がし、無理やり引っ張る。服を無理やり脱がし、学生服だけ置いて出ていった。ひどい。
今日から新学期。夏休みは終わり学校がまた始まる。暦の上では秋が近づいているというのに、残暑はまだ厳しく……秋服なんて着てられない。
下着姿のままでいるわけにもいかず、渋々着替えた私に次に襲いかかるのは空腹。育ち盛りだから仕方ない……朝のルーティンが済んで、身体が自然と食事を求めてしまうのだ。
「まったくもう……今日から学校なんでしょう?いつまでも夏休み気分じゃ駄目じゃない。あーもう髪がまだボサボサ……。」
学校に行きたくない。まぁつまるところそういうことだった。一体どんな顔をして同級生に顔を出せば良いの?意味が分かんない。憂鬱な気分のまま少しずつ食事を摂る。ささやかな抵抗。
玄関のベルが鳴った。母さんが「はーい」と言って玄関に向かう。新聞配達?それにしても遅すぎる。地域の回覧かな。そんなことを思いながらミルクを口にする。
「あら、境野くん、わざわざ迎えに来てくれたの!?ごめんねぇうちの娘まだ準備がまだなの。外だと悪いしどうぞあがって。」
牛乳を吹き出した。テーブルが牛乳でぐしゃぐしゃだ。ティッシュ!いやそうじゃなくて逃げる……ど、どこに?いやというかまだ私、化粧も……。
母さんと境野くんの話す声が聞こえる。どんどん近寄ってきてる。
「あ、あうあいあんんああう。」
「……なにしてんのあんた?あー!ちょっとなにしてんの!!牛乳こんなに零して!!」
訳の分からない奇声をあげて両手で顔を隠す私の姿を母は冷めた目で見ていた。
「あー……お兄ちゃんちょっとテレビでも見ておこう?先輩、まだ髪すらセットしてないよ。……良いから早く!デリカシーがなさすぎだよ!!」
境野くんの妹に助け舟を出されたことに感謝しつつ、私は洗面台に逃げるように走った。いつもどおり……いつもどおり……すれば……いいだけ……。
「おはよう、境野くん。突然どうしたの?今まで私の家に迎えに来たことないじゃない。」
「いやだってお前、一人だと気まずいだろ?一緒に学校行って謝りにいってやるから。ええっとほら……人類殲滅なんて言ってたし。」
「なんで、そんなこと今言うのよばかぁー!!」
今となっては、何故自分があんな凶行に走ったのか理解ができなかった。境野くんの話だとカナンがどうのこうの?何言ってるのかさっぱり分からない。でも全ては終わったことで、あの時、死んだはずの私はどうしてかこうして、ここにいた。
「う、うぅ~……無理だよ……顔向けできないじゃん……。」
「だから俺も一緒に来たんじゃないか、約束しただろ、今度は一緒にいてやるって。有栖川。」
彼は笑顔でそう答え手を差し出す。ずるい話だ。そんなことを言われると私も何も言えないのが分かっているくせに。少し目を逸らしながらも、彼の目を見て私は、その手をとった。
久しぶりの学校。道行く私の友達は挨拶をしてくる。そう普通、彼女たちはまぁ普通。だって私のことなんてほとんど知らないし?問題は教室に入ってからだ……うぅ……まずはごめんなさい?いやそれとも無言で頭を下げるのが先?いやいやここは謝罪の菓子折りでも持ってくるべきなの?分からない!
「さ、境野くん、やっぱり私、保健室……。」
「おはよー。」
私の言葉を待たずして彼は教室の戸を開けた。ゆるせない。なんでそんなことを平気でするのかな?
「境野くん!!!!!!!!」
男の声がした。剣だ。待っていたと言わんばかりに血相を変えて彼に詰め寄る。
「楽園級アドベンター三柱が突然消えました!!あなたの仕業でしょう!!!!僕が全国各地小物を狩ってる間にあなたはなんてことをしてくれたんですか!!!?ふざけてるんですか!!?僕の立場何なんですか!!?馬鹿みたいじゃないですか!!!?」
「あぁー……それはサキに報告してるからサキから聞いてくれない?ほらここ人目あるし……。」
それを聞くと剣はまるで風のように飛んでいった。普段の彼からは見られない剣幕だった。
「お、おうおはよう境野……剣のやつすげぇな……あんなん初めて……お、有栖川……?」
「うっ……。」
高橋がこちらを見ている。立ち上がりこちらに向かってくる。言葉が出なかった。あれだけ色々と考えていたのに、頭が真っ白になった。でも伝えなくちゃいけない。許されないとしても、気持ちを伝えないといけない。
「ご、ごめんなさい!わ、わたしあなた達にたくさんの迷惑をかけて!!」
思い切りこれでもかというほどに頭を下げた。……返答がない。恐る恐る顔を上げる。
「……許す!というか……あたしも似たような経験があるし、そんな責められないって。どちらかというと夢野の方が許せないんじゃねぇの?」
「ふぇっ!?そ、そそそそそんな事ないですよ!!?わ、私は別にき、気にしてないですから!!」
杞憂だった。この二人が有栖川を責め立てる姿は想像がつかなかった。いつもどおりの表情で有栖川と接する二人を見て、俺は安心した。もう彼女は大丈夫だと。
「……何か物凄い疎外感を感じるんだけど。」
「そういえばコトネは有栖川とほとんど接点なかったなぁ……。まぁこれから付き合っていけば良いだろ。」
謎の不満を呟くコトネに、俺はそう答えた。別に付き合いたいわけではないけど、と不貞腐れるように口をとがらせてコトネは答えた。ただ、その表情からは有栖川に対する悪意などは感じられなかった。
───某所。とある豪邸。
境野連は一人そこにいた。ある男と約束をしていた。いや、約束をしたという方が正しいか。ここは豪邸の物置。物置にしては広々としていて、大きな倉庫のようだ。まったく金持ちというのは羨ましい……。そんな愚痴を零していると足音がした。ようやくやってきた。
「遅いぞ。遅刻するなよ。」
「ふん、呼びつけたのはお前だろう。多少の遅刻は多目に見ろ。」
彼の名は東郷幻弩。東郷財閥の御曹司である。物置の窓際に立つ。窓の外からは夜景が見えた。物置だというのに立地がいいことだ。
「やれやれ、こんなところが最後の景色になるとは。もっと良いところがあるだろうに。」
「いいや、ここで良いんだ。誰にも見られないほうが良い。」
俺は異世界からこの世界にやってきた存在。かつて磯上は俺に俺のいた世界を見せてくれた。そして戻ることができると提案してきた。どのようにして、そんな異世界への扉を開いたのか、答えは簡単だった。
東郷のアタッチメントは触れたものをテレポートさせる能力。テレポートの先に限りはない。例え行ったことのない深海であろうと。それは……認識さえしていれば異世界だろうとテレポートできるのだ。
即ちあの扉は他でもない、東郷が作り出したものに過ぎない。異世界に帰る方法は、こんな身近にあったのだ。
「……本当に帰るつもりなのか?」
「何だ?寂しいのか?」
「バカ言え、ただな。俺には理解できないだけだ。お前の世界は地獄のような世界だった。俺が移動すればおそらく一瞬に灰と化すだろう。いや……そもそもお前以外の生命を通そうとすること自体、向こうのアドベンターの逆鱗に触れそうで恐ろしい。」
俺のいた世界には俺の内に潜んでいるアドベンターの本体がいるらしい。それは魂ごと灼き尽くす業火。俺が無事なのはあくまであちらの世界の人間だから。ただ他の世界の人間からすると、その世界はとにかく地獄の炎で満たされているようにしか見えないらしい。
恐らくは防衛反応。かつてカナンがやっていたように、そのアドベンターは外敵の進入を拒んでいるのだ……俺たち人類のために。
そして扉が開いた時、確かに聞こえた。帰りを求める声が。親兄弟親友……何よりもあの世界が俺の帰りを望んでいた。俺はこの世界の人間ではない。全てが終わった今、あるべき場所に帰り、あるべき姿に戻らないといけないんだ。
「友人にはもう伝えたのか?帰るって……6班の奴らは……。」
「いいや、伝えていない。誰にも伝えていないよ東郷。」
「何故だ?もう二度と会えないんだぞ。今生の別れだ。きちんと挨拶をしろ。」
「無理だ。それは無理だよ東郷……だってさ……あいつらに別れの挨拶なんてしたら……きっと俺は決意が緩んでしまう。でもそれは駄目なんだ。いつまでもあいつらの好意に甘えるわけにはいかないんだ。いつかは別れ、一人旅立つ道を選択しないといけないんだ。」
東郷は目を伏せた。俺の言いたいことを理解したのか、少し陰が入る。
「……損な役回りだな俺は。それじゃあお前の友人に酷く恨まれる。」
「悪いとは思ってるよ……。」
それでも俺は東郷に頼るしか無かった。元の世界に戻る唯一つの手段。東郷にだけは全てを話さなくてはならない。東郷はため息を吐く。
「実は俺はこれから旅をしようと思っていた。全世界を。見ろ、これがパスポートだ。遅れた理由は取得に少し手間取ってな。今回の事件で俺は気付かされたのだ。世の中にはもっと知るべきことがあると。東郷財閥の長として、見識を深めなくてはならない。ふん、お前の友人たちには説明するだけして、後は海外に高跳びだ。それで良いんだな?」
「それで良いさ。あいつらも分かってくれるはずさ。故郷に帰ったんだって。俺との思い出は、一時の若いころ見た夢物語のようなものだと思ってくれたらいい。」
そう、異世界からの来訪者という少し不思議な出来事。それにまつわる様々な出来事。彼女たちは夢を見たのだ。それは青春時代を彩る、楽しい夢物語。
「……ずっとお前に言いたいことがあったんだがな……境野、俺はお前のことが心底大嫌いだったよ。」
言葉とは裏腹に、その表情の奥には憂目を感じさせる。複雑な感情。
「お前がいくら寝言をほざこうが、あいつらも俺も、お前との出会いは、物語は夢物語で終わらせない。いつまでも胸の奥に、人生という確かにある物語の一部として生き続ける。お前はお前が思っているほど、小さな存在ではない。それを忘れるな、一生。」
そう言って東郷は拳を前に突き出す。
「これは貸しだぞ境野。いつか必ず返しにこい。」
「……東郷。あぁ俺もお前のことが心底大嫌いだったよ。」
東郷は俺の言葉を聞いて微笑んだ。それ以上の言葉はいらない。拳を突き合わせる。
東郷のアタッチメントの発動条件は相手に触れること。拳と拳が触れ合う時、能力の発動条件は満たされる。
瞬間、世界はブラックアウトした。俺の異世界の冒険はこれで終わる。
不思議な物語はここで終わる。ただ、この異世界で出会った人々のことを、俺は一生忘れないだろう。いつまでも、いつまでも胸に秘め続けて、俺の心の中で生き続ける。遥か遥か遠くの世界の出来事でも、永遠に共に生き続ける。
次回が最終話となります。