世界にただ一人だけ
メタンハイドレードと呼ばれる燃料がある。海中に大量に眠る資源。別称「燃える氷」。メタンガスが低温、高圧の深海で固形化したものである。未来の資源として期待されているが問題が一つあった。それは採掘が極めて困難であること。費用対効果が薄く、経済的価値が薄いのだ。
かつてこの業界の第一人者であった天満月教授は何とかこの燃料を実用できないか検討していた。その方法の一つとして、固体化したメタンハイドレードを一度気体化させることだ。海中に眠るメタンハイドレードを気体化させれば、あとは勝手に気泡となりて地上にあがってくる。あとはメタンガス同様、燃料として活用できる。
海上に巨大プラントを作り上げ、メタンガスの工場として機能する……はずだった。その計画は、市民団体の手により頓挫する。海洋生物の保護や、安全性が立証されていない、そんな理由だった。
事実、この件については天満月教授も反省している。目の前の燃料に目がくらみ、環境のことを考慮していなかったと。後日、彼は環境を配慮した夢のエネルギーの開発に成功することになるのだが……。それはまた別の話。
天満月教授が懸念していた環境問題とは、メタンハイドレードが気体化する際に、誤爆をしてしまうことになる。即ち、海中に眠るメタンハイドレードが、もしものミスで全て気体化してしまったら?この星の環境は終わる。メタンガスが大量に放出され、大気中の酸素濃度が低下し、酸素を必要とする全生物が死に至る。それだけではない。メタンガスは温室効果ガスでもある。地表の温度を宇宙へと放出せず溜め込む性質を持つ。即ち、急激な温暖化。死の星に繋がることを意味していた。
天満月のこの手法の注意点は一つ。気体化する際は温度管理を厳重にするということ。ボイル・シャルルの法則というものがある。これは気体の圧力と体積は、温度に比例するということ。即ち、温度が急激に上昇した場合、メタンハイドレードの気体化コントロールは崩れ一斉に気体化する。恐ろしいのは、一度そのような事態が起きた場合、ボイル・シャルルの法則と前述のメタンガスの性質から、連鎖的に気体化が進行するということだ。故に特に温度管理の難しい夏は、控えた方がいいと論文にも記している。
この世界に存在する核兵器は公表済みのもので数万発存在する。非公開を含めると見当もつかない。こんな話がある。現代兵器を用いた戦場でミサイルもいくつか落とされた。その地域は、その戦時中はその期間だけ平均気温が平年より高かった。現代火器が放つ熱量はそれほどまでに大きい。核兵器はどうなるか?核兵器とはいくつもの種類がある。だがその多くは熱量を帯びたもの。爆風と熱線で敵を倒すことを目的としている。その熱量は計り知れない。
そんな核兵器が、数万発も同時に、爆発を起こすとどうなるのか?明白である。一瞬ではあるが、この星の平均気温は上昇する。天満月の論文……天満月が作った海上プラント……。それはまだ生きている。今年の夏、異常な暑さ。亡霊は、少しずつメタンガスを大気に放出し、この星を温暖化させていた。
決定的なタイミングを、引き起こすために。
人々は苦しみ始める。現在の気温は60℃。人の、生命の住める環境ではない。海の近くの人は既に倒れていた。メタンガスが、地上に上陸し始めたのだ。エアコンで凌ぐも上昇し続ける気温。一体、何℃まで上がるのか……。そんな心配は、一瞬で無にかえる。
大爆発。メタンガスに引火したのだ。多くのものが爆発に巻き込まれ死亡。そして更に上昇する気温。加速化するメタンハイドレードの気体化。爆発、爆発、爆発。
異変が起きてから、三十分も経たないで、この星は、炎の星となった。燃える、燃える、燃える。海は沸騰し、蒸発。雨雲を作るもすぐに蒸発。水蒸気となって大気を漂い続ける。忘れてはならない。水蒸気もまた、温室効果ガスなのだ。海が蒸発し始めてから、星の温暖化は加速度的に進行した。生命は、人類は死に絶えた。
死の星に一つの影があった。呆然と立ち尽くしていた。何が起きたのかも理解できなかった。見慣れた景色は全てなくなった。燃えて消えた。境野連は、この星に一人取り残された。有栖川の作り出した肉体は、高温にも耐えた。
「あ……あぁ……。」
一人燃える大地を歩く。生き残りがいると信じて。でも誰もいない。あるのは死体、炎か熱かガスによりやられた死体。見たくなかった。その中に……知った顔が……高橋たちの顔があったら、俺はどうにかなってしまいそうだから。
人類は全滅した。亡霊の目的は成就した。
そんな考えが、頭から離れなかった。
「やはりこの環境でも生きていられるのか。」
人の声がした。誰でも良かった。すがりつくように声の方向へと振り向く。そこには……磯上がいた。
「みんなよくやってくれたよ。天満月の論文、雷伝による実証試験、ムォンシーの洛神によるメタンハイドレードの操作、そしてピエールによる最後の仕上げ。誰一人欠けたら出来なかった。」
「磯上ィィィッ!!!」
頭の中が真っ白になっていた。ただ許せなかった。目の前の男が。人類を、全生命体を皆殺しにして、灼けた大地に平然と歩くこの男を。俺は大地を蹴り磯上に飛びかかる。拳を握りしめ、思い切り振りかぶり殴りつけた。
殴られた磯上の肉体は四散した。違う。これは……人間の肉体ではない。磯上の肉体は細かな粒子となり辺りに散らばる。まるで砂人形のようだ。
「どうした、今更驚くことでもないだろう。こんな環境で生きていられるのは、普通の人間ではない。俺もお前も。同じことだ。」
「お前は何者なんだ、人間ではないとするのなら、人間の姿をした何者だと言うのなら、どうしてこんなことをした!?」
「俺は人間だよ。普通ではないだけさ。境野。この世界にお前が来てしばらく経ったと思うが、不思議に思わなかったのか?俺のアタッチメントは、明らかに異常であることに。」
磯上のアタッチメントはワカメを生み出す能力。それ以上でもなんでもない。能力としては奇妙な能力ではあるが、何もおかしなことはないのだと思っている。
「かつてこの星に降臨したアドベンター、エデン。そして奴が産み落としたエデンの使徒であるアダムとイブ。アタッチメントとは即ち、エデンの力の限定的な行使でしかない。肉体の一部を変質させたり、肉体に流れるエデンの残照を殴りつけるなどして他に流し込み影響を与えたり、肉体そのものをかつてのエデンに近づけるものだ。それがアタッチメントの正体。レベルの高さとは即ち、エデンに近づくこと。エデンの使徒の王の素質。例えば夢野は、人間性さえ捨てれば王となりえたんだ。ここまで言ってわからないか?俺のアタッチメントはそもそも前提が違う。このように、触れずして、あらゆる空間にワカメ……即ち生命を誕生させることが出来る。エデンには出来ない芸当だよ。」
磯上の足元に、焼けただれた大地にワカメが咲く。否、ワカメとは磯上が言っている言葉に過ぎない。ワカメは陸上に生えないし、そもそもこんな環境で生える植物もない。即ち磯上の能力の本質は、如何なる環境下であろうと、ワカメのような生命を生み出す能力。それは神の御業。無から有を生み出す反則技に等しい。
だが……それは恩恵もそうだ。アタッチメントと異なる能力。他のアドベンターからの祝福だと雷伝は言っていた。
「それも違う。これは恩恵ではない。そもそも俺に恩恵なんてない。最初からずっと、ただの人間としてお前のそばにいた。あの頃から、お前と初めて出会ったあの試験の日から何一つ変わりないさ。」
粒子となり霧散していた磯上の身体がもとに戻っていく。嘘だ。こんな肉体が能力ではないなど誰が信じるというのか。
俺の疑いの眼差しを当然のものだと磯上は受け入れ、少し笑った。
「軽井沢には正直驚いたんだ。全組織が高周波振動によって深刻なダメージを受けてた。目標の完遂目前でなければ不穏因子として殺してただろうね。」
磯上が手をあげる。粒子化して霧散していく。霧散した粒子はまるで意思を持つかのように磯上の周りを回転し、もとに戻り……また手の形へと戻った。この粒子には磯上の意思がある。まるで肉体の一部であるかのように。
「昔話を聴きたいか?俺の誕生日を。俺の贖罪とニンゲン……いや、こいつらエデンの使徒の業を。聞こえるか境野?歓喜の声が、長きにわたる怨嗟が成就する瞬間が。お前は聞いたはずだ、アバロンもシャングリ=ラの時も。」
聞こえる。喜びに打ちひしがれる声が。歓喜の叫びが。俺の中に次々と入ってくる。聞き覚えのある声だった。確かにアバロンの時も、シャングリ=ラの時も俺は同じ声を聞いた。
「この声は人の声だよ境野。彼らは、この星で唯一人巡り会えた同族に、想いを託しているんだ。」
「唯一人巡り会えた……?お前は何を言っているんだ。」
「悠久の願いの果てに出会えたのさ。彼らの名はノア。かつて楽園を目指し続けた宇宙を旅する開拓者たち。遥か遠くの星々に夢を乗せて世界を巡った冒険者たち。そして、復讐を誓った殉教者たち。」
磯上は思いを馳せる。ここまでたどり着いたことに、感無量な感情と、一つの復讐を成し遂げた達成感。数万年前に誓った祈りはここに成就した。
はるか昔、楽園を目指す人類がいた。彼らの名をノア。ノアとは、彼らの総称。夢を託され滅びを迎える故郷をたち、人類の希望を乗せて旅立った。彼らの乗る舟の名は惑星間航行大型宇宙母艦アーク。アークの中ではエネルギー装置が循環しており、数千年の活動が約束されていた。
彼らは長旅の末、この星を見つけた。環境が我らが居住可能な星だと分かった。文明もない。それは戦争になることもないということだ。凄惨な争いをする必要もない。アークは着陸する。皆が喜びながら、涙を流し抱き合う。この幸運を分かち合った。この星が新しい故郷になると信じて……。
彼らの移住は順調に進んでいった。各地に散らばる仲間を集め、この星で新たな人類史を作り出そうと、希望に満ち溢れていた。人々の思いが一つになった時だったのだ。既にこの時点で、悪辣な企てに呑み込まれていることも知らず。
数億人の人々が星に集まる。ノアの船団。船団は集合し連結、そのまま星に根を降ろす。アークのもつ都市機能がそのまま星の活動拠点となる。ここが人類史の始まりの地となり、ここから新たな歴史が始まると、誰も疑いを持たなかった。





