声に鳴らない慟哭、置き去りにした世界
過激な市民運動は続いているが、かつてほどの勢いは削がれ、街では普通に出歩くことに支障がなくなった。これも観籠総理の迅速な対応……というのがあるが、何よりも官邸前の出来事が大きく、あの場にいたものは"観籠信者"と呼ばれるほど彼に心酔したものも出てきている。
今が夏休みで良かったと俺は安堵している。未だに学校は二階堂を中心として反政府組織に占拠されている。学生たちの多くは夏休みであるため、登校していない。学生全てが二階堂の意見に賛同しているわけではないので、無駄な争いが避けられている。
アイスを食べながら、ごろごろとテレビを見ながら時間を無駄に使っていると、家の呼び鈴がなった。
「また来たのか……。いや別に良いんだけどさ、せめて事前に連絡とかしない?」
旅行から帰ってから、頻繁に剣を除く六班の皆が勝手に俺の家にやってくる。軽井沢に変なことをしていないかという理由らしい。どれだけ信用ないんだと思いながらも、ついでなので課題を一緒にしたりと有意義な時間を過ごしている。
剣はというと、俺の話を聞いて全国各地を周る旅に出かけたようだ。一度だけではなく二度までも大型アドベンターとの戦いに参加できなかったことが、彼のプライドを酷く傷つけたらしく、自分の足で、アドベンター発生の兆候がないか調べまわるそうだ。
最近、剣から写真が送られてきたが、アドベンターの死体をバックに笑みを浮かべていた。小物ばかりで不満はあるが、いつかは大物を見つける気負いらしい。
課題も一段落済んだ俺たちは、皆好き勝手にくつろぎ始める。テレビでは占拠された建物たち……特に学校について大きく報道されていた。リーダー格が若い学生ということもあり、メディアの注目も高い。政府は彼らとの交渉を根強く進めているが、人質は未だ解放どころか姿すら見せず関係者も不安を募らせているようだ。
二階堂は既に俺の知る二階堂ではなかった。たった数日で別人のように表情が変わっている。人とは、こうも短時間に変わるものなのだろうか。
「そんなに気になるか、学友のことが。」
「な!!?」
突如、後ろから男の声がした。聞き覚えのある声だった。驚き振り向くとそこには、見慣れた姿が、あの時とまったく変わらない、磯上がそこにいた。
「磯上!お前!どうしてここに!!」
俺の叫び声に皆が集まる。全員が驚いたような表情を浮かべる。
「懐かしいな。六班勢ぞろい……ではないな。剣はいないんだな。まぁその方が都合が良いさ。あいつだけは俺やレンとはまた別ベクトルに危険な男だもんな。」
そう言ってサキを意味深に見つめる。磯上は知っている。剣の正体を。俺は磯上の胸ぐらを掴む。亡霊の頭目。彼をここで倒せば終わる。全てが終わる。だが……今はその時ではない。
「……?激昂にかられて殴られることは覚悟してたんだけど、どうしたんだ?まさか……まだ俺との友情を感じていたのか?だったら嬉しいよ。俺も境野。あの日、有栖川を殺した日、亡霊だと打ち明けた日からずっと変わっていない。俺は今もお前のことを友人だと思ってるよ。」
「黙れよ……一連の……今だって起きている暴動の数々もお前の仕業なのか磯上!」
「そうだよ?厳密には俺ではなく……紹介したろ?四騎士。最後の一人がやってる。まぁもう手遅れだよ境野。あれはもう止まらない。お前は何一つ止められていない。天満月も雷伝もムォンシーも、彼らは全員目的を成し遂げた。お前は全て後手だ。今回も同じ。もう終わってるんだよ境野。」
淡々と告げられる事実。それは間違っていない。俺が気づいたときには全て手遅れだった。何百万人、何千万人という犠牲者が既に出ている。それでも最悪の事態は避けているはずだ。だって放っておけば、どの事件も人類は全滅していたのだから。
「”それ”は言い訳だよ境野。言っただろ?人類の撲滅は"俺"と"四騎士"で行うんだ。一人でやるものではない。境野、お前は今まで四騎士と相対するまで、彼らが何をしようとしていたか、予測できたか?何一つできていない。そしてこれからもだ。お前は、俺たちのやろうとしていることを、ただの一度も食い止められず終わるんだ。今だってそうさ。これから何が起きるのか、お前は分かるのか?」
その言葉はどんな刃物よりも鋭く俺の心に突き刺さる。言い訳。そのとおりだ。最悪の事態が避けられたのは皆、偶然。そうだ、天満月の時も、雷伝の時も、ムォンシーの時も俺は俺一人で何一つ成し遂げていない。多くの人たちの助けがあってようやくたどり着いた。偶然に偶然が重なってたどり着いた。
磯上の胸ぐらを掴む手が思わず緩む。反論できない。磯上の言うことは正しい。有栖川を救えなかったあの時から、俺は一度も、勝利を掴んでいない。
項垂れる俺に磯上は慌てた様子を見せる。
「悪い悪い、俺は境野を責めに来たんじゃないんだ。いや実際境野はよくやってると思うよ。今日来た理由はな、お前に別れを告げに来たんだ。永遠の別れ。見ろ境野、これが何が分かるか?よく見るんだ、お前ならすぐに分かる。」
磯上は何もない空間に手を差し出すと突然、大きな穴が空いた。別次元の穴……直感的に理解できた。穴からは景色が見える。更に音が聞こえる、匂いがする。とてもとても懐かしい匂い。思わず俺は涙ぐんでしまう。
「うそ……だろ……?」
「やっぱり、お前が見ると全然違う感想を持つんだな。そうだ、こうして実際目の前にあると、こことの違いが明白になるだろ?」
その次元の穴の先には……俺がいた世界があった。懐かしい光景、懐かしい日常、懐かしい環境音、懐かしい匂い、懐かしい空気。五感全てが訴えている。ここは、俺の戻るべき場所だと。光り輝いて見えるその美しい景色。それが目の前にある。目に溜まった涙は、自然と溢れ頬を伝う。あぁどうして、俺は今までこの景色を、この世界を忘れていたのだろう。
「家族が待っている。親友が待っている。仲間が待っている。恋人はいたか?子供は?はは、境野の年齢的にはまだ難しいかな。でもな境野。お前は一人ではない。今も向こうで、お前を待っている人がいる。毎日祈りを捧げ、いつか帰ってくることを祈り続けている人がいる。」
やめてくれ。そんなことを言わないでくれ。まるで走馬灯のように記憶が駆け巡る。両親、友人、同僚、親戚、あの世界での思い出。人間関係だけではない。お気に入りの場所があった。声を交わさずとも心で通じ合っていた者もいた。毎年必ず行っていたところがあった。初めて見た時、感動して言葉を失った美しい景色があった。いつか行ってみたいと夢見た場所があった。俺の夢はまだ、その先に残されたままだった。夢が満たされないまま、中途半端に終わった。夢の続きが、目の前にある。
「なぁ境野。もう終わりにしよう。これは亡霊としてではない。一人の友人としてお前には、故郷に帰って欲しい。この世界の醜い争いに、お前を巻き込みたくないんだ。」
磯上の言葉に嘘はない。心の底から出た言葉だった。彼は本当に、俺の身を案じて、俺の故郷への扉をどういう手段を用いてか開けたのだ。俺は少しずつ自然に、まるで吸い寄せられるように扉へと近づく。温かい光を感じた。まるで俺を迎え入れてくれるような、労いの言葉をかけられているようだった。「おかえり。」そんな言葉が、どこからか聞こえた気がした。
足が止まる。俺の意思ではない。止められている。気がつくと俺の手が握りしめられ引っ張られていた。高橋の手だった。俺の手を強く握りしめて離さない。
「え……?」
俺は思わず呟く。俺自身理解が出来ていなかった。自分の行動にも、高橋の行動にも。
「だ、駄目だ!行っちゃあ駄目だ境野!!」
「高橋……境野は故郷に帰るんだ。見ただろう今の様子を……あいつはずっと苦しんで……。」
「うるせぇよ!そんなん関係ねぇよ!!あたしが嫌なんだ!!境野に帰られるのが嫌なんだよ!!!」
まるで子供のようだった。普段の様子からは考えられない、幼稚で論理性に欠ける。そこに何の根拠もない。
磯上は心の中で舌打ちをした。高橋の行動は確かに非論理的で人を説得するにはまったく道理の欠片もない。だが彼女の悲痛な表情と、強く握りしめた手には真実があった。どんな理論武装を固めた正論よりも、強く大きい真実があるのだ。計算の上でやっているのならとんでもない腹黒な女だと言いたいが、あれを素でやっているのだから高橋は恐ろしい。
次元の穴の先に見える、境野の故郷らしい景色を見る。境野は涙を流していた。郷愁の思いから流された涙だった。恐らく境野にとっては……いや有栖川や……あの世界の人間にとってはそうなのだろう。
その世界の人々が見える。かつて有栖川が言ったとおりだった。その世界は人類が正しく歴史を歩み、人類が人類の為に作り上げた光り輝く世界が広がっていた。俺たちの悍ましい世界とは対極だった。何もかもが嘘の腐った世界とは。
しかし行ってみたいという欲求はすぐに吹き飛ばされた。磯上には見えていた。その世界の地獄のような存在を。悍ましく恐ろしい存在が、ずっと俺を睨んでいた。あれが俺に伝えているメッセージはただ一つ。「こちらに来れば殺す。」ただそれだけだった。境野にとっては慈愛に満ち溢れた女神だが、俺からすると男を奪われ嫉妬に狂った女神にしか見えない。
子供のように駄々をこねる高橋に「ならお前も境野と一緒に同じ世界に行けばいい。」なんてことを言うのもありだと思った。でも無理だ。俺も高橋も、この世界にいる人間は全て、この次元の穴を潜った瞬間、魂ごと、あれに燃やし尽くされるだろう。何が起きたのかすら理解できぬほど一瞬にして。
それでも騙して行かせることもできる。だがそれはできなかった。磯上が境野に感じている友情もまた真実。元の世界に戻ったとき、ともに来た仲間が燃え尽きてしまっていたことを知った時、境野は深い絶望に落ちるだろう。それは耐えられなかったのだ。
───故に、高橋の今の行動は。実のところ境野連をこの世界に引き止める最適解なのだ。知ってか知らずか……あぁされては磯上も打つ手がない。それでも……。
「境野、少し失礼するよ。本当はな、境野。お前には真実を知ってほしくなかった。でもここまで来ると知った上でお前には選択しなくてはならない。」
磯上は境野の頭に触れる。瞬間、境野は欠落していた記憶が蘇る。それは……有栖川との記憶。彼女との、この世界での淡い思い出。彼女のまばゆいばかりの笑顔が見えた。
「嬉しい!君ならきっと分かってくれると思った!うん、境野くんは優しいから、つらいのは分かるよ。でも、それでも私は嬉しいの。だって、私を選んでくれたから。」
それは、確かにあった記憶。仁と別れ有栖川と二人きりで話をした記憶。この世界の真実を知り、俺がとった別の選択。彼女はあの後、一人で仁と決着をつけに行ったのだ。俺のことを気づかい、俺と仁の関係を知っていて、あまりにもつらいことだと分かっているから。
「あの時と今の違いは分かるか境野。そいつらだ。そいつらがお前を狂わせたんだ。エデンの使徒。それがそいつらの、いやこの世界の人類の別名。アドベンター、エデン。有栖川から聞いているだろう。遥か彼方からこの星にやってきた、楽園の獣に寄生し変貌を遂げた、アドベンター。」
磯上は高橋たちを指差す。エ……デン……?有栖川に説明されて知っている。この星に、太古の世界に降り立った存在。ああ、あれもアドベンターだったのか。アバロン、シャングリ=ラ=アガルタ……なるほど確かに共通点がある。みんな、この星の動物に寄生して、この星に侵略しようとしていた。
指を差された高橋たちはわけが分からない様子で困惑している。当たり前だ。エデンが降臨したのは数万年前。既に自分たちがエデンの使徒だという自覚すら、この世界の人類にはないのかもしれない。
「境野!目を覚ませ!!お前はずっと!!エデンの使徒に、エデンの都合の良いよう踊らされてるだけなんだ!!!」
俺の両肩に手を置いて磯上は叫ぶ。偽りは何一つない。真摯の叫びだった。磯上もまた、高橋同様、理論ではなく、友人として、友情から訴えに出たのだ。
「……磯上……エデンとかなんだか……どうでも良いよ俺には。お前、一つだけ俺に隠し事してるだろ……?」
「馬鹿なッ!俺はお前に嘘などついていないッッ!!本当のことなんだ!!エデンの使徒とは!!」
「いいや、ついてるさ。正確には話していない……か?知ってるんだろ磯上。俺の魂には、別の存在がいることに。そしてそれは、エデンではない。勿論アバロンでもシャングリ=ラ=アガルタでもない。別の存在。それはきっと……お前たちの敵なんだろ?磯上……。」
「……ッッッ!」
磯上は引きつった表情を浮かべる。痛いところをつかれた……という表情ではない。どちらかというとそれは、憐憫、そして後悔の表情。
「さ、境野!なら尚更だ!それを知っているのなら……高橋も伊集院も夢野も!俺だって関係ない!!帰るんだ!!お前は帰るべきなんだ!!お前は───。」
「この世界自身の敵なのだから。か?」
磯上は絶句した。それは即ち肯定である。アバロン=アーサーは言っていた。「貴様の本当の力ということか、まだ名も知らぬアドベンターよ」と。シャングリ=ハカーマニシュは言っていた。「お前とは協力関係でいれたかもしれないというのに。」「"我々"外来種とは根本的に異なるのだから。」と。
それが意味することは一つ。彼ら、楽園級アドベンターの王たちには分かるのだ。俺の正体が、俺が……いや俺たちが何ものであるかを。即ち俺たちの世界の人間もまたアドベンターと共生関係にある。そしてそれは、磯上の言うエデンの使徒のように、俺もまた名もなきアドベンターの使徒なのだ。
アドベンターは皆、敵対していた。自分たち以外は決して相容れないと。それは恐らくエデンと俺に潜むアドベンターも同じだろう。
「……仮に、仮にだ。俺が人類撲滅をお前に阻止されたとしよう。そのときお前はエデンから用済みになる。エデンの領域に土足で侵入した外敵として始末される。そのとき、俺はもういないだろう。帰る方法もない。お前は世界中の存在全てを敵にして、全ての存在に否定されて一人死んでいくんだ。理解しているのか?」
磯上は震える声で、確かめるように俺に問いかける。もしもの未来を。確信した。やはり磯上は根本的に良い奴なのだ。だってこんな時に、自分の計画の失敗を自分の死を想定してまで、俺の身を案じているのだから。
「……だって、しょうがねぇじゃねぇか。俺はさ、この世界の皆が好きになってしまったんだから。有栖川の気持ちには応えられなかったんだから。」
「たすけて」という彼女の最後の言葉が今も耳から離れない。目の前で死んだ彼女の姿が今も網膜の下に焼き付いていて、何度も何度も思い出す。彼女を選ばなかった自分がどうしていまさら、無関係者面をして元の世界に帰ることができようか。
境野連は笑いながら答えた。笑顔だというのにどこかその目には哀愁が漂っている。それが本当にお前の選んだ選択だというのか。お前はそれで良いのか。磯上は拳を握りしめ歯を食いしばる。
指を鳴らす。次元の穴は閉じた。
「最後にさ、話せてよかったよ境野。ありがとうな。次にあったときは敵同士だ。精々頑張って、俺たちを止めることだな。」
磯上は一瞬にして消え去る。最後に見せた磯上の笑顔は、どこか悲しげで、それでいて昔のままの笑顔だった。