決別、捨て去った自分
首相官邸の前は常に賑わっていた。市民活動家たちが大挙し、柵を乗り越えようとするが、それを警察機動隊に止められる。首相官邸の周りを機動隊が隙間なく取り囲んでいる。異常な事態だ。
「いやしかしトライビクターの影響が突然なくなって助かりました。警察機関も無事立て直しが出来て……もし今なおトライビクターの影響下だとゾッとします。」
観籠総理の秘書は汗を拭きながら現況を伝える。占拠された多くの公共施設、毎日のように行われる略奪と破壊。目頭を強く抑えた。自分が少し留守をしていた間に、このようなことが起きるとは。
洛神の撃破は最低条件だった。境野連。あの少年によって被害は最低限食い止められた。あとは今の事態を収束させれば良い。
黙って立ち上がり、部屋を出る。秘書は慌てた様子で追いかけてくるが手をかざした。ここからは危険だから、中で待ってほしいと伝えた。
「いたぞ!観籠だ!!戦犯だ!!売国奴だ!!」
観籠が外に出た瞬間、数多の暴言が観籠を襲う。だが観籠は毅然とした態度で胸を張り、その言葉を受け止めて前進する。機動隊は観籠を止めるが、大丈夫だと言って前進を止めない。
歩みを止める。そして深呼吸をした。
「皆の衆、私が観籠である!君たちの言葉、主張は全て聞いている!!嘆かわしいことだ!!この国の腐敗、不手際、全て私の責任だ!!」
観籠は深々と頭を下げる。民衆はその姿に静まり返った。そして観籠は言葉を続ける。
「君たちの意見は必ず、国政に反映させよう。勿論国政というのは私一人でするものではない。多くの者の意見を聞いて、決定するものだ。故に君たちの望むものになるとは限らないが……それでも可能な限り近いものになるよう努力はする!!」
全員が静まり返り、観籠の言葉に呑まれていたが、それも一瞬のことだった。一人の男が声をあげる。
「お、俺は仕事をなくした!あんたは知らないだろうけど……ゼルテッキという会社だ!みんな国の政策ミスだといってた!俺たちみたいな下級国民のことなんてあんたは何も知らないだろう。」
「ゼルテッキ。確か大手車メーカーの下請けで金属加工を営んでいた会社だったな。政策ミスというのは一年くらい前に起きた技術基準変更によるものかな。安心したまえ、ゼルテッキに限った話ではないが、その制度変更により被害を受けた下請けを主とする企業に対しては現在国会で提出中だが、失職手当と新規事業を計画している。これはようやく某国と調整がとれたのだが、我が国の加工技術を評価していて、制度変更により仕事を失った者たちが立ち直れるほど、いやそれ以上の利益を出せることが予定されている。」
「わ、私は子供が産まれたのに手当を突然打ち切られたの!みんなは国が子供の手当を廃止したからだって聞いたわ!!」
「確かに現行手当は廃止した。それは制度悪用が目立ち、不正受給をしている者が多いからだ。新制度は既に始まっている。遡っての請求も証明さえできれば受けられるはずだ。」
皆が不満を訴えるが、それを全て観籠は聞き入れた。丁寧に親切に。人々の怒りが少しずつ落ち着きを取り戻していく様子が目に見えて分かる。機動隊の緊張が緩んだそんな時だった。一人の男が飛び出し、観籠にぶつかる。その手には、小さなナイフが握られていた。観籠の身体に血が滲む。
「だ、だ、騙されるなみんな!!こいつは売国奴だ!!仕事を失った!?子供の手当だ!?そんなの自己責任じゃねぇか!!!お、俺はこの国に見捨てられたんだ!!!知ってるか、この国の弱者に対する扱いを!!お、お、俺はずっとずっと差別され続けた!!病気というだけで!!国は俺の病気を障害扱いはしていない!!そりゃそうさ対して高価でもない薬さえあれば普通の人間と変わりないんだから!!でも周囲は違った!!俺が病気だと知ると皆、距離を置いて、仕事すらくれない!!役所に訴えても半笑いで厄介者扱いだ!!全部こいつのせいだ!!こいつがもっと仕事をしていればこんなことには……!」
男は話し続けた。自分が受けてきた差別の数々を。機動隊が駆け寄ってくるが観籠が手を伸ばし制止する。そして、そっと男の背中にその手をまわした。
「すまない。よければもっと教えてくれないか、君のことを。君の言葉は全て私の胸に留めよう。どうか話してくれ、君の受けた許されない数々の仕打ちを。そしてどうか信じてくれ。私は君を裏切らない。」
その目は慈しみに満ちていた。まるで子を諭す親のように優しさに満ち溢れた目だった。すこし汗をかいている。ナイフで刺された患部が痛むのだ。だというのに観籠はその男に笑顔を見せて、真剣に話を聞こうとしている。
男はその様子を見て、手に持っていたナイフを落とす。堰を切ったように涙を流した。それを観籠は優しく抱擁した。男は観籠の腕の中で、まるで子供のように泣きわめいていた。そんな様子を、暴徒だった人々や、中継に来ていたマスコミたちは、時間が止まったかのようにずっと眺めていた。
遠目でそんな様子を見ている者が一人いた。歯ぎしりをする。
「あぁ、駄目だ。それは駄目だよ観籠総理……。そんなことをしては……みんな正気に戻ってしまう、みんな我を取り戻してしまう。一筋縄ではいかないね。稀代の名総理だ。まったく、手間をかけさせてくれる。」
「暗殺しますか?今なら誰の仕業かわかりません。」
「駄目だ。今、観籠総理が殺されたら、英雄視される。それは人々の心の支えとなり、模範となる。あんな"できた"人間が英雄なんて駄目だよ。英雄になるのは"不出来"な人間でなくてはならない。」
ここはひとまず退散だ。彼女は踵を返す。なに、愚民の扱いには慣れている。今はヒロイックな気分に酔いしれてもらおう。どうせ数日もすれば忘れる。人類とはそれほど愚かで救いようがないのだから。
美しく長く輝いているような金色の髪、透き通るような蒼い眼。まるでそれは地上に舞い降りた女神を彷彿させる。だがその眼の奥に秘めた思いは螺旋状にねじ曲がり、腐りきった沼の底のように、深く深く根を張っていた。
トライビクターの影響がなくなり、治安維持機能が回復したのか、暴動は収まってきている。だが未だ占拠された建物は数多くある。学生を中心とした反政府団体。彼らは学校に立て籠もり、政府に対して自分たちの主義主張を通すよう訴えている。
だが、そんな彼らの反応も少しずつ世論は冷たくなってきた。それも観籠総理のカリスマによるものが大きい。まだ反政府運動は優勢ではあるものの、それも時間の問題であるとの見方が強かった。
「くそっ!観籠め……!!民衆を拐かし、巧みに世論を操作するとは……!!」
彼らのリーダー格である二階堂はイラつきながら机を叩きつける。学生の中にも我々の活動を疑問視するものが出てきている。とんだ平和ボケだ。言葉で通じないから今があるというのに。観籠は稀代の詐欺師だ。耳触りのいい言葉で人を騙し、魅了する。私は決して、あの悪魔の声に耳を貸さない。
幸い我々には人質がいる。長く交渉を進めれば必ず世界を変えることができる。あの女性が笑える世界に変えることができるのだ。
二階堂は人質を監禁している部屋に向かった。政府への交渉の最終確認。小出しして少しずつ、私たちの案を受け入れるよう譲歩させる。部屋のドアを開ける。不快な匂いがした。これは排泄物の匂いだ。掃除をしていないのか……。
「おら、おっさん!どうした返事しろよ!いつもみたいに仮病か?なめた真似をしてんじゃねぇぞ?」
監視を任せた学生が、人質を蹴り飛ばしている。暴言を浴びせている。おかしい、真面目な学生に任せたはずなのに。どうしてこんなことを。
「やめるんだ!何をしている!この人は人質とはいえ年配の方なんだぞ!」
「え、二階堂さん何を言ってんの?こいつはこの国を腐らせた戦犯、老害じゃないか。そんな奴が俺と同じ空気を吸うことすらおぞましいというのに。おい返事しろよ老害、ほら、教えたとおりに言わねぇと、ご飯やらねぇぞ?」
ほんの数日だった。彼に任せたのは。任せたときは純粹無垢な眼で、監視役を喜んで引き受けていた。それが今はどうだ?その眼は腐りきっていて、それでいて純粋な眼で、年配の人間をまるで物を扱うように蹴り飛ばしている。人は……ここまで短時間に変わるものなのか?
「二階堂さん、こいつ面白いんですよ。俺が食事や飲み物をやらないって言ったら、凄い面白い顔するんです。んで何でもするとか言って、本当に俺の言う事聞くんですよ。その後、水を与えた時のこいつの態度と来たらほんと……おら、水だぞ受け取れよ。」
彼は人質の政治家男性の頭に水をかける。ポタポタと無造作に。それは水を与えているとは言わない。私は彼の腕を掴み睨みつけた。あまりにも目に余る行為だと。そのようなことは求められていないと。
「ご老人。私の仲間が失礼なことをした。監視役は変える。我々としては政府が交渉に出るのなら悪いようには……ご老人?」
水をかけられた老人は動かない。ゆさゆさと揺らすが反応はなく力なく倒れた。呼吸と脈を見る。脈が……ない。
私は慌てて鍵をあけて牢の中に入る。心臓マッサージ。監視役が今まで話をしていたということは、先程までは息があったということだ。間に合え!!
「君!!彼はこうして動かなくなってからどのくらいたった!!!」
「え?十分くらいだけど……どうしたんですか二階堂さんそんなに血相を変えて。」
二階堂の背筋は凍った。通常人体は心臓停止してから一分いないに応急処置、蘇生処置を施し心臓の運動を再開させることができれば九割強助かる。だが……そこから時間が経過するたびに、指数関数的に生還率は低下する。心臓停止から十分経過して生還したものは……記録上はいない。
二階堂は必死に心臓マッサージを繰り返す。AEDは近くにない。どこにあるかも分からない。今探しに行けば更に時間のロス。生還は絶望的となる。必死に心臓マッサージをする。だが戻らない。老人の身体は既に冷たくなっていた。それはかけられた水のせいだと、思いたかった。でもマッサージを繰り返しても、一向に体温は戻らない。
「……ハァハァ。」
「に、二階堂さん?どしたの?そんなに慌てて。」
「死んだ。彼はもう亡くなった。」
人質を殺してしまった。これが明るみに出たら非常にまずい。観籠総理は交渉の場につくと言っている。その真偽は不明だが、ここで重要なのは政府は我々の要求を受け交渉の席を用意したということだ。だというのに我々は……殺してしまった。人質を。
「た、大変だ!は、早くみんなに知らせないと!!」
「……アタッチメント発動。」
監視役の彼は転倒した。私の転倒した記憶を再現したのだ。突然の出来事に混乱する。私はすぐそこにあった鉛筆を手に取った。削りたてで鋭い。
何が起きたのか分からない様子で突然の転倒に監視役の彼は愚痴を零していた。
あぁ、そういえば。君の名前は頭の中に入っていなかった。
それの喉に鉛筆を突き刺す。鋭い鉛筆は首の柔らかな皮膚を突き破り肉をえぐる。そして出血。噴水のように吹き出る。だが息はある。頸動脈をついても人は生きていられるのだなと発見した。更に意外なことに気が付いた。それは自身の血液に溺れている。なるほど、よく頸動脈からの出血で死亡することを聞くが、鉛筆のような殺傷力の低いもので傷つけられた場合、出血は気管を塞ぎ、窒息死に至るのか。
倒れたそれを運ぶ。幸いなことに人質を監禁している部屋には原則立入禁止だ。人質への虐待を配慮した結果だが、幸いそれが上手くいった。
これで大丈夫だ。人質が死んだことを知っているのは私だけだ。大丈夫。私は正しいことをしている。彼女が笑って過ごせる世界を作るために。あの陽光の日差しのような彼女がいつか本当の笑顔を取り戻すために。手についた返り血をハンカチで拭いて、血と汚物の匂い漂うこの部屋に捨てた。そして私は部屋から立ち去った。





