海底の狂い神、生態破壊
生体濃縮という言葉がある。食物連鎖により微生物、小型魚、貝類、大型魚と捕食されていくにつれて、体内に毒物が濃縮されていくという話だ。かつて人類が生み出した化学薬品が原因で有名になった言葉で、甚大な健康被害も引き起こしたことがあるが、これは別に前々から自然界でもあったことなのだ。一部の魚などはこの生体濃縮を利用して、体内に毒物を溜め込み、外敵に自分は毒があるから捕食をしては危険であるとして、身を守る手段としても使われている。
龍星会はそこに目をつけた。悪魔の毒薬トライビクター。その作用は摂取者に強力な多幸感をもたらし、気分を高揚させ、嫌なことを忘れさせる。依存性はそこまで高くないが、その効果は極めて高い。多用すると、副作用として幻覚、幻聴、妄想、精神的依存、分裂症など精神病の発症など負の面も大きい。一般的な違法ドラッグと似ているとも言える。
だがトライビクターの他薬物と異なる点は、体外に排出されにくい点である。人類であれば、その高度な代謝機能により、他薬物と比べ遅くはあるものの、いずれは排出される。
しかし魚などの小型生物の場合は、排出されずそのまま残留していくのだ。
即ち、悪魔の毒薬の生体濃縮。海の食物連鎖を利用して、海洋生物を薬漬け……否、生きた高濃度トライビクターへと変貌させたのだ。
それだけではない。海の水はやがて蒸気となり雨雲となって、恵みの雨を降らす。恐ろしいことに、このトライビクターは水蒸気となっても残留し続けるのだ。つまり……いずれ全世界に降り注ぐのだ。トライビクターの雨が。
人類に、否、全生命に逃げ場はない。トライビクターが世界を埋め尽くすのだ。それこそが、龍星会の目論見。否、亡霊四騎士である、ロン・ムォンシーの目論見である。
信じられなかった。ムォンシーとは面識がある。確かに善性の人間ではないのかもしれない……だが……このような、全人類どころか全生命を巻き込む悪徳を犯すなど、そんな人間には見えなかったのだ。
「ハオユ!ムォンシーはどこにいるんだ!こんなこと……いやそもそもどこで流しているんだ毒薬を!止めなくては!!」
「あのメスガキがいるところと……毒の放流元は同じです……。」
ハオユは悔しそうな顔で指を差した。その先は海。何もない海。
「龍星会本部は今、海底……潜水母艦 洛神にいます。」
遥か海の底、深海。ロン・ムォンシーはそこにいた。僅かな側近たちとともに、世界の終わりを迎えるまで、日の届かない闇の底。
「境野くん、少し落ち着くんだ。君は抱え込み過ぎだよ。世界を担う英雄ではないんだ、君はただの人間だ。つらければ頑張らなくても良い、時には逃げ出しても良い、でなくては、君の心は潰れてしまう。いずれ朝が来る。そうすれば警察や救急車が来て、事態の解決に乗り出すだろう。今、君が為すべきことは、数少ない正常者として、警察に報告することじゃないのか。」
ピエレットはそういって俺の手を握った。それは……そのとおりだ。一人で抱え込む必要はない。それに敵はマフィア。警察も今回の件で動き出すはずだ。明日になれば、たくさんの警官が駆けつけてくる。俺のするべきことは……できるだけ今日起きたことを説明し、警察の捜査に協力することだ……。
こうして長い夜は終わりを迎えた。中毒症状を起こしている人たちはたくさんいる。俺たちは鍵を締めてずっと厨房に潜んでいた。幸いなことに誰一人入ってこず、朝が明けた。
朝になると、薬が切れたのか、たくさんの人が横に倒れていた。脈や呼吸を確認する……生きている。恐らく、薬の影響で覚醒状態となり一晩中動き続けたせいで、薬が切れた瞬間、疲れ果てて皆、眠りに落ちたのだろう。
俺はハオユとピエレットの制止を振り切って、ホテル別館に急いだ。彼女たちの無事を祈って。
「う、うぅ……ふ、不覚だわ……私がこんな……薬を盛られるなんて……。」
みんな無事だ。サキは一人、身体を重たそうに動かして、なんとか外部へと連絡をしようとしていた。俺の姿を確認して安堵の表情を浮かべる。
「お……兄ちゃんは無事だったんだね……多分クスリ……効かなかったんでしょ……?平気よ……皆……今は寝てる……ありがとうね……。」
そして力尽きたかのようにサキは倒れた。俺は抱きかかえ、布団に寝かせる。同時にサイレンの音が聞こえた。パトカーが来たのだ。
「なるほど、協力に感謝する。」
事情聴取をしているのは公塚光俊。警視庁公安部アタッチメント犯罪課所属。若くして警視まで上り詰めたエリート。彼は俺のことを知らないが……俺は彼のことを少しだけだが知っている。かつて仁とともに捜査をしていた。
「あ、あの公塚さん……仁のことは……。」
仁。その言葉を出した瞬間、公塚は一瞬ピクリと反応するがすぐに平然とした態度をとる。俺は彼に謝罪をした。本来ならば、俺がいなければ仁は亡くなることなどなかったのだから。
「なるほど、君が例の……。頭をあげろ、そして胸を張るんだ。仁は君にそんなことを望んでいない。」
「けど、それで公塚さんは……。」
「私のせいにするな。君はただ誰かのせいにしたいだけだろう。謝罪をしたい相手を探しているだけだ。仁は言わなかったのか、俺のことは気にするなと。話は終わりだ。君は何も気にする必要などない。」
淡々と、事務的に、冷徹に公塚はそう言い放つ。別の世界の話のように、無関心であるかのようにも見えた。公塚にとって仁はただのビジネスパートナー。協力関係ではあっても、そこまで思い入れはないのかもしれない。
「まったく冷たい警官だね。気を落とさないで境野くん。何なら私が慰めてあげようか?」
突然背後からピエレットが俺の両肩に手を当てて話しかけてきたので驚き振り向く。彼女も取り調べを終え、警官から解放されたようだ。その長い金髪が朝日に照らされキラキラと輝き、彼女の周りだけ一枚の絵画のようだった。周りの警官たちも見惚れているのか、度々手を止めて見ている。
「私たちの仕事はこれで終わりだね。あれを見てごらん。おそらく非常食だ。知ってるかい、政府は食糧危機に備え備蓄食糧を三年分抱えているんだ。それだけで維持費は数百億円。普段から野党や市民団体には税金の無駄と言われていたのだが、ふふ、今回ばかりは大活躍といったところだね。食べるかい?私は先程食べたが……味は期待しないほうが良い。」
ピエレットは俺におにぎりとペットボトルに入った水を渡す。食べ物全てが毒……そんな状態が続く限りこんな食事が続く。俺はおにぎりを齧った。不味い。パサパサしていて……旨味なんてまるでない。でももったいないし、不味くても我慢して食べる……凄くつらい。そんな様子をピエレットは笑いながら見ていた。
ホテルの人たちは病院に運ばれることはなかった。いや、運べないのだ。既に病院の病床は埋まっていて、受け入れることが出来ない。海から汚染されたあらゆる食物は人々の身体に巡りに巡って、世界中の人々を薬物中毒にさせたのだ。
警官たちはホテルの厨房にある食材を見て顔をしかめる。
「これは……今まで見た中で特に酷いですね……。」
食物に蠢く蟲。これこそがトライビクターの正体。蟲が生み出す毒素が身体を蝕んでいく。そして濃縮された毒素は蟲の卵となっていき、産卵するのだ。幸い人体から産卵した事例は聞かない。卵となる前に体外に排出されるからだ。だが……高濃度のトライビクターを摂取し続ければあるいは……。そんな想像もさせてしまい、生理的嫌悪感は否めない。
「予想どおりだ。やはりこの近辺に犯人はいるようだ。各自、警戒態勢。ここに臨時捜査本部を立ち上げる。」
公塚の一言で、ホテル近くにテントを立てていく。そんな様子を俺たちはホテルから眺めていた。
「……なぁ境野。本当にあたしとは会ってないんだよな?記憶が曖昧でさ。」
「あぁ、話をしたのはコトネだけだよ。明らかに状態がおかしかったから、眠らせた。今も寝てるみたいだ。」
「いやぁ、凄かったんすよ境野っち……ハッシーの姿……。」
「くそっ……なんでお前は記憶あんだよ……。話すんじゃねぇぞ!もし話したらぶん殴るからな!!」
「怖いっすねー、あっところで聞いたっすか?あーしら、しばらくここに滞在することになるみたいっす。病院はあいてなくて、家に返すにも交通機関やインフラは死んでるから、ホテルが避難所みたいになるみたいっす。食事や水も提供してくれるらしいっすよ。」
「あぁ、あの不味い備蓄食だろ?聞いたよ……うーん同情する。」
俺は毒が効かないので平然と食べるのだ。蟲がついてるみたいだけど、そんなの気にしない。これも有栖川が俺の肉体を丈夫に……有栖川か……。
「あぁやはりここにいたのかい。探したよ境野くん。荷造りは済んだのかな。」
ふすまが突然開きピエレットが乱入してきた。突然の来訪者に全員目を丸くする。
「荷造りって……何のこと?」
「ん?帰りの荷造りに決まってるじゃないか。君と私は薬物反応が出ていないからね。こんなホテルにずっといる必要はないだろ?あぁそちらは境野くんのお母さんかな、はじめまして。息子さんならご安心ください。私が責任を持ってお預かりしましょう。境野くんもそれで良いだろ?一人誰もいない家でこの騒動が収まるのを待つより、私の家で蜜月の日々を過ごしたいと心で訴えているのが聞こえるよ。」
ピエレットは目を輝かせ俺の手を握り腕を抱きしめ身を寄せる。少しいい匂いがする。もう俺が一緒に家にくることは決まっているようだ。俺はピエレットの手を離す。
「悪い、ピエレット。実はもう先約があるんだ。これからちょっとそいつと話をする予定もあって。しばらくはここにいることになるから、ピエレットの家にはいけないよ。」
俺の言葉にピエレットの表情が凍る。そして張り付いた笑顔のまま、俺に迫ってきた。
「あ、あはは……先約?いつの間に?誰かな?ここにいる彼女たち……だよね?いつの間に?私の目を掻い潜って?中々やり手じゃないか、こんな屈辱を受けたのは初めてだよ。それで誰を選んだんだい、私よりも、魅力的だと思った女性は誰なんだい!答えてくれ。」
こんな表情、態度はピエレットのいつもの優雅さからは想像もできなかった。正直、ほっとした。今までのピエレットはどこか非人間的で……確かに美人で言葉を失うほど魅力的だったんだけど……まるで彫刻、命のないロボットを相手にしているようだったから。だが今の彼女は、凄く人間らしくて、血の通った同じ人間なんだと思わされた。
……まぁ、実際問題、今俺は彼女に凄く怒られているわけで、そんなことを思うのは少し不謹慎だけど。
俺は黙って指を差した。全員が指先に注目する。
「あはは……兄貴……その……お邪魔なようなら帰りますけど……。」
「いや、約束したろ?ハオユ、とりあえずここでは話しづらいこともあるだろうし、場所を変えよう。」
「お……とこ……?境野くん……ま、まさか今まで私に素っ気なかったのはそういう趣味が……?」
ピエレットは震え声で俺を見つめる。後ろの皆も信じられないような目で見てた。……サキはニヤついてたが。
「いや違う違う!おい、お前たちも誤解するなって、そんな目で見るなって!!」
ハオユと約束したのは、どうにかして龍星会を倒すことができないかの相談だ。今回の事件の元凶は龍星会。それに……ムォンシーとはやはり直接あって話をしたい。だからどうにかして潜水母艦洛神に近づけないか相談をするのだ。
皆、事情を納得してくれたようで、俺はハオユとともにホテル本館へ向かう。何にせよ、あそこが騒ぎの中心、何か手がかりもあるかもしれないからだ。
「ふふ……振られてしまったようね、ピエレット!あ、当たり前よ。レンは私に夢中なんだから……!」
「お兄ちゃんが伊集院さんに夢中かどうかはともかく、あれだけ全然眼中になかったら女として同情しちゃいますねぇ……まぁ気にすることはないですよピエレットさん。彼は変わってますから。」
しばらく沈黙が続いた。風がなびいて、ピエレットの長い髪を揺らした。だがピエレットは微動だにせず、境野連が立ち去っていった扉を見ていた。
「そ、その……大丈夫なの、あんた?い、言い過ぎたわ……そんなショック受けてるとは思わなくて……。」
その異常な佇まいに流石にコトネは悪いと思ったのか、申し訳なさげに謝罪した。
「ショック……私が……?なるほど、確かにショックではある……。」
そう呟きながらピエレットは外に出た。彼の姿が遠くに見える。小さくて小さくて、手が届かない。
「かなわないな……彼には私なんて、最初から見えていなかったんだ。」
ピエレットは一人、用意していた車に乗る。私ができることはもう何もない。あとは全て任せよう。私は私のやることを進めよう。
車が走り出す。後ろは振り向かない。空いた隣の席を名残惜しく見つめながら、用意していたペアグラスを捨てて、切なくて小さな思い出を胸に秘めて海の町を一人、後にするのだった。





