最後の灯火、人の輝き
「俺の人生は終わりのない旅のようなものだ。もう何もかもが意味がない。ただ歩いているだけの虚無。信じた果てがこれだ。」
連の訴えに天満月は静かに答えた。何一つ心に響かない。空虚な存在。かつてこの手にあったものを失った絶望が、子供に分かるものか。
「俺はどうすればいい。どうすれば良かった。得られた絆が、家族が喪われてしまったら、俺の旅はどうなる。旅の終着点がなくなった。その気持ちがお前に理解できるのか。」
天満月にはもう何もなかった。人生をかけて積み上げてきたものは全て否定された。残ったのは専門と無関係の称号のみ。息子も娘も存命だが、もう親子の関係は切れた。突き動かしているのは正義感と復讐心。ただそれだけだった。
「旅に終着点なんてない。終わりなどない。永遠に歩き続けるのが人生だ。旅の途中で別れというのはあるものだ。俺はこの世界に来たことで全てを失った。それでも歩き続けるのをやめない。歩いて歩いて歩き続けて、時には転んでも前に進まなくてはならないんだ。それが、旅の途中で出会い、別れた人たちに対する手向けになるからだ。そしていつかまた、旅の途中で出会えることを信じるんだ!」
確かに人は他人を信じ切ることはできない。皆、孤独なのかもしれない。だが孤独だからこそ、他者との繋がりを求める生き物でもあるのではないか。人生とは、そういう繋がりを、孤独からの開放を求める旅なのではないのか。
境野連は別世界から来た人間である。それは即ち、元の世界に確かにあったもの、全てを失ったことを意味する。故に彼の言葉はまるで自分に言い聞かせているようだった。失ったものの数で言うならば、天満月が失ったものなど僅かなものだ。失ったとはいえ同じ空の下に、確かにあったものなのだから。
「それが永遠の別れだとしてもか。」
同情に値する境遇なのは再認識した。だがそれでも納得できるはずがない。目の前で苦しみながら死んでいき、更にその死すら利用された孫が、浮かばれるはずがない。
「永遠の別れなんてものはない!いずれ旅の果てに必ず会える。死んでも別の生き物に転生し続け、そしていつか巡り会える。どんな形であっても……。俺はそれを信じている!」
「輪廻転生か。非科学的だな。俺はそのようなオカルトは信じな……。」
いや……俺は知っている。一つだけ、転生した事例を。───有栖川。あの女は、別世界で死亡したにも関わらず、その記憶を残したまま、こちらの世界へと転生してきた。その魂は確かに我々とは異なり、境野連に近いものだったのだ。
つまり……科学的証明ができないだけで、輪廻転生は存在したのだ。
「あいつが……俺の孫も、有栖川と同じように……?」
「そうだ!有栖川が転生して、他の人間はしないなんてことがあるか!?巡り巡って、お前は、旅の途中で巡り会えた大切な人たちに、顔向けができることをしているのか。正しかったと胸をはれるのか!」
孫の姿が浮かんだ。懸命に訴える連の姿が、なぜだか昔を思い出させた。「人を信じるのを忘れないでくれ。」悪鬼羅刹に堕ちた自分が、最後に残した人の欠片だった。
孫は最後まで、俺を信じ続けた。俺だけではない。世界を信じてくれた。世界を信じていたからこそ、俺の作り出したエネルギーが、きっといつか認めてくれるはずだと思っていたのだ。
傲慢な考えだった。孫は俺と同じだと思っていたがそれは違う。最後の最後まで他者を信じ続け、夢のエネルギーがいつか人々を救ってくれると、最後まで祈り続け死んだのだ。最後の言葉は、俺の本質を見抜いていたのだ。
自分が認められないのは世界が悪いからだと。自分は間違っていないと。違う!孫が最後まで俺のことを案じていたのは、夢のエネルギーを実現するためではない。他者を信じきれず、孤立していく俺を、最後まで案じていたのだ。
「それでも俺は全てを失った……そんな俺に何をしろというのだ。もう……。」
「俺にだって何もない……この世界にきて、今までのもの全て失って、記憶すらなくした。それだというのに、皆、俺のことを受け入れてくれた。だというのに俺は何も返せていない、何も取り戻せていない。その果てに何もないというのなら、俺は皆の笑顔に対してどう応えたらいい?皆の親愛にどう返したらいい?元の世界で……待っている人たちにどう顔向けしたらいい?俺は信じる!決して歩んできたこの道が間違っていなかったと!いや、間違えさせない!!」
それは境野連の本心から出る悲痛な叫びだった。突然見知らぬ世界にやってきて、何もかも失った人間。この世界で唯一の人間。だが彼は決してその境遇を恨みはしなかった。世界の真実に近づいてもなお、彼は人類と寄り添おうとしている。彼は違う。この世界の人間とも、亡霊とも。
───だからこそ、やはりここで立ち止まるべきだったのだ。
「……それがお前の本心か、境野連。そうだな、考えてみれば例え正しい人類であっても、その心は変わらないのだ。であれば、全てを失った絶望は……はかりしれない……それでもなお人々に寄り添おうというのだな。」
これから彼は知るだろう。この世界の成り立ちを。楽園の真実を。天満月は伝えることができなかった。その事実があまりにも残酷で、知れば彼も有栖川のように壊れてしまうかもしれないと思ったからだ。
天満月は他の亡霊、四騎士とは事情が異なる。彼はただ空虚だった。空っぽの魂。どうでも良かった。亡霊の目的も、人類の行く末も、楽園も。
不思議な感覚だった。連と話していると、枯れ果てた心に、虚ろとなった世界に、小さな灯火が点いた気がした。それはとても小さな、吹けば消し飛ぶ僅かなものだったが、天満月に人間性を呼び戻すのには十分なものだった。
「もう手遅れかもしれない。だが人生をやり直せるのなら、お前のような若者と早く出会いたかった。」
核反応は今も続いている。連鎖的に、無限に反応し続け中心温度は指数関数的に上昇していく。施設内の温度計はとっくに振り切れていた。
天満月は柵を乗り越える。そしてまるで、贖罪のように奈落へと飛び降りた。
「なにを……!」
手を伸ばすがもう遅かった。その手は奈落に落ちていく天満月を掴むことが出来ず空を掴む。
「一つだけ、この状況を覆す方法がある。それは俺が直接、この核反応の中心に潜り込み、恩恵によって止めるのだ。」
「何いってんだあんた!自分で言ってたろ!中は数万度に上がるって!!」
そう、既に暴走した遺体は液状化し、超高温と化していた。近寄るだけで肉を焼く熱量。人の身ではどうしようもない。
「さようなら若者よ。万有引力の導きに。きっと君のような大きな存在なら、君の言う旅のめぐり逢いは、これからも素敵なものになるだろう。」
今なら境野仁が彼を守ろうとした理由が分かった気がする。平行世界の同一存在だからという理由だけではない。彼の魂の輝きが、あまりにも眩かったのだ。こんな狂った世界で、そんな清廉なものが汚れていくのが、見ていられなかった。それほどまでに、この世界は醜く、人が背負った業が重い。
肉が焼けていく。だが天満月は気にも止めなかった。老い先短い老人が、先のある未来ある若者のために命を張ることが、何よりも誇り高かった。皮膚は既にただれ、超高熱の液体が身体を軋ませる。
「やめろ天満月!!まだ他に方法があるはずだ!!」
敵の命を心配するなど、どこまでもお人好しな。だからこそ、俺は最後の最後に、人として……いや天満月個人としての矜持を思い出したのかもしれない。人ではない、些細な問題なのだ。肝心なのは、人としてではなく、俺個人が、前を向いて胸を張れる人間であったか。それだけだった。人類の罪を知らされた時点で、俺にまともな生き方などもう出来なかったのかもしれない。だがそれでも、自分勝手だと言われようとも、俺は……人のためではなく、孫の愛した、孫の信じたこの世界を、愛してみたいと、そう思った。
溶けていく。自分の身体が。不思議と痛みはない。消えていく。意識が消失していく果てに、恩恵を発動する。意識を失うその刹那、孫が俺に笑いかけていた。それは走馬灯の果てに見せた幻覚か、あるいは"奴"の介入か。どちらでも良かった。大事なのは、天満月虚空が、心の底から、胸を張れる人生を、選択をとれたことなのだから。
後悔があるとすれば唯一つ。彼が、境野連がこれから出会うことになる四人の亡霊たち。あれらは俺と根本的に性質が異なる。俺は所詮人生を投げ捨てた抜け殻。だが……あれらは、その果てが地獄であると知りつつ前進することを止めない狂信者たち。それは魂を侵す毒となって境野連を責めるだろう。願わくば……彼の無事を祈りたい。
青白い光が少しずつ弱くなっていく。施設の温度も低下していった。一人残された連は、天満月が落ちていった奈落をずっと、ずっと見つめていた。