月の女神さまからのミッション・インポッシブル
ドラゴン便が心のなかで一段落したころ、寝室へ案内された。日が暮れたら寝るだけというのが基本的なローマスタイルと言っていい。まあ、テレビもないしな。
ベッドは来客用のそれなりに豪華なものなのだろうが、日本人の俺には大きめのギャルソンワゴンに薄い布団とクッションがついているだけに見えて仕方がなかった。
寝室の用意はリヴィアがすべて準備してくれた。お礼を言うと相変わらずぶっきらぼうに、
「ユリア様のご命令なのです。おまえのためじゃないのです」とか言われた。
横になって背中を伸ばすと、自分が思いのほか疲れていたことがわかる。
あおむけになって、伸びをしたり、腰をひねったりして、少しストレッチをする。いろんなところが、ボキボキと音を立てていた。
体は疲れているのだが、頭のなかが妙な熱っぽさをもって冴えてしまった。
家族のこと、学校のこと、もえみちゃんのこと――。
木戸の窓を開けて中庭を見る。今日は満月。月明かりのおかげで夜目がきく。月って、こんなに明るいものだったんだな。
ローマの一般的な建物に準拠しているこの邸宅も、中庭には大きな木が植えられていた。昼間は流していた噴水も夜になったので止めている。古代ローマは上下水道とも完備されているとはいえ、こんな属州で噴水を設けるのは大変なぜいたくなのではないか。
涼しい風が頬をなで、その風が女性の声を運んできた。
「聖也さん、私の声が聞こえますか――」
自分の名前を呼ばれてぎょっとした。声は中庭からする。
中央の木のそばにひとりの女性が佇んでいるのが見えた。
肩に矢筒を背負い、弓を握った美しい女性。全身を月の輝きにさらしながら、自身の身体もうっすらと光に包まれている輝かしい黄金の髪の女神。ディアナだ。
驚きのあまり声をあげそうになるのをこらえ、ベッドから飛び降りた。足音を忍ばせて中庭に向かう。やましいところがあるわけではないのだが、ディアナの姿を他の人に見られていいのかわからなかったのだ。
中庭に出るとディアナが月光を浴びて微笑んでいた。
「聖也さん、無事、『カエサル』に会えたようね」
その優しげな微笑みに無性に泣きたいような懐かしさを覚えた。だがその一方、この謎の女神によって俺はローマに似た別のローマに放り込まれたという腹立たしさもあった。
どんなふうに声をかけたらいいのだろう。
それでも喉を励まして、声をひねり出す。
「ディアナ、どうやってここに――」
いまの自分の気持ちを表すことが出来なくて、自分でも陳腐な言葉で落ち着いていた。
「満月の夜なら、私はあなたに会うことができるから。それに初めての異世界でいろいろ戸惑うことも多かったでしょ」
聞きたいことが多すぎる。ひとつひとつ全部聞きたい。
「あのさ、まず聞きたいんだけど、何で空中落下なんて物騒な転送の仕方になったの?」
「ごめんなさいっ」俺の詰問にディアナがえらい勢いで頭を下げた。
これには、ちょっと俺のほうが引いてしまった。
「ほんとうは、海賊に捕まっているユリアのまえに颯爽と現れて、聖也さんが海賊を見事撃退! その聖也さんのカッコよさにユリアが一目ぼれでふたりはラブラブに、というのを考えていたのですが……」
「ごめん、それどこの少女マンガ?」
ディアナが咳ばらいをした。
「半分は冗談ですが」
「半分だけかよ」
「海賊からユリアを助けてもらおうとは思っていましたが、空中に転送完了させるなんて、考えていませんでした。『絶望の吐息』の悪影響が残っていたのかもしれませんね」
ただの高校生に何を期待していたのだろう。冗談にもほどがある。
しかし、海賊からユリアを助けたというのはウソではないし。その意味ではディアナの言う通り、「半分は冗談」なだけだった。
だとしたら、それはそれで疑問だ。何で俺は海賊相手に戦えてしまったのだろう。
「ひょっとして、あれも金貨みたいにディアナが用意してくれた能力とか?」
「半分は契約によるもの、とだけいまは言っておきます」
「曖昧な言い方だな」
そして、最も聞きたかったことを質問する。
「ここってさ――俺の知ってる古代ローマじゃないよね?」
『カエサル』って言ったって女の子だったし、小さいとはいえドラゴンが郵便だし。
ディアナは穏やかに微笑んで、俺の顔を両手で挟むように触った。
「あなたはほんとうによくやってくれたわ。おかげで早くも運命の修正がなされている」
「運命の修正――」
「お願いしたはずよ。カエサルが『カエサル』の仕事ができるようにしてほしいって」
ディアナの言葉に、びっくりする。海賊と戦ったことだろうか。
だが、ディアナは予想とはまるで違うことを言った。
「今日、ガデスの町のヘラクレス神殿に行ったわよね?」
「『絶望の吐息』に追いかけられて逃げ込んだというほうが正しいと思うけど」
「そこでアレクサンドラ像を見た」
「ああ、そうだ」
ディアナは大きく息をつきながら微笑んだ。心底安心したかのように。
「さっき『絶望の吐息』が現れたのは、ユリアが『カエサル』としての重要な選択を間違えようとしていたから。結果として聖也さんが契約に反し、私の加護の外に行ってしまおうとしたから」
「そうだったの?」
「思い出してみて。そのとき、ユリアは何をしようとしていたか」
「あのときは……たしかそろそろガデスの町を出発しようとしていて……」
「では、何をしないで済まそうとしていた?」
「えっと……あっ!」
思わず大きな声を上げてしまった。
「あのときユリアは、ヘラクレス神殿に行かないで、町を出ようとしていたんだ」
ディアナが俺の答えに満足したように微笑んでうなずいた。
「聖也さんがこうして無事でいられるのは、ヘラクレス神殿の加護だけではないの。ユリアの選択が正しい方向に修正されたからなのよ」
「ユリアの選択……」
「ここでの『カエサル』、つまりユリアがヘラクレス神殿に行き、アレクサンドラ大王の像を見るということが、ユリアに『カエサル』の仕事をしてもらうためのキーのひとつだったの。そして、それはあなたの世界の『ユリウス・カエサル』にも影響している」
「それって、どういう……」
ディアナは俺を促し、いつの間にか出現しているベンチにふたり並んで腰を下ろした。
「ユリアがアレクサンドラ像を見たとき、どんなだったかしら」
「見たとき……」
ディアナに促されて、ユリアの様子を振り返る。
「……アレクサンドラ像に対して、『いまの私と同じ年齢、十七歳にしてこの偉大な像を刻まれるだけの仕事を成し遂げたのだな』って。それから『ローマを世界一の大国にしてみせる』って決意してた」
「それなのよ!」
ディアナのやや大きな声が夜の闇の中庭に反響し、ちょっとひやひやした。
「ユリアがアレクサンドラと自分を比べて、このままではいけないと思った。それはとりもなおさず、彼女が心のなかで志を立てた証拠なのよ」
志によって思いが変わり、言動が変わり、人生が変わるのだと彼女は熱っぽく語った。
「じゃあ、もし今日、ヘラクレス神殿に行ってなかったら?」
「今日を逃したら、ユリアはこの属州からローマへ戻っていた」
「つまり、あのアレクサンドラの像を見ることはなかったってこと?」
「その結果、彼女はいままでどおりの人生しか生きない。『女好きで借金まみれ』の人生と、ちょっとの元老院議員としての仕事だけ」
ユリア自身も、まずは周りの顔色を窺っているつもりだったみたいなことを言っていた。
「もっとあとの年代になってアレクサンドラ像を見て、志を立てるチャンスもあるかもしれないけど、そのとき彼女はもう年老いてしまい、自分の人生の時間を湯水のごとく無駄に使ったことに涙するのが精一杯。そして何よりローマを襲う危機は、それまで待ってくれていなかったでしょう」
「知らないあいだに、歴史を変えてしまうかもしれない出来事に直面していたのか」
「すでに気づいている通り、この世界はあなたがいた二十一世紀の日本に直接つながっている世界ではないわ。ある種のパラレルワールド。でも、ここでの出来事が聖也さんの世界での古代ローマの『ユリウス・カエサル』にも影響を与えている」
「それって、この世界のユリアが失敗すれば『ユリウス・カエサル』も失敗してしまう運命になるってことなのか?」
そうだとディアナがうなずいた。
「だから、あなたは日本から今日ここに送り込まれた。今日、聖也さんがガデス郊外に出現しなかったら、ユリアをあの神殿に連れていけなかったから」
俺はディアナの話を呆然と聞いていた。さらにあることに気づいた。
「ということは、もうやるべきことを果たしたってことなのかな」
日本に帰れるのだろうか。あのちょっとずれた後輩にまた会えるのだろうか。
しかし、ディアナは首を振った。
「これだけでユリアがその使命を全うし、聖也さんの世界の『ユリウス・カエサル』が歴史通りの運命になるのなら、いくら神々といっても時空を超えて介入し、わざわざ聖也さんを送り込んだりはしないわ」
「ですよねー」帰還の日は遠いようだ。
「いまさらながらだけど、気を付けてね。この世界は聖也さんのいた世界と、時の流れが違う。具体的には、登場人物たちの年齢が違っているということ」
「……性別も違いますよね」
「どうせこれからずっと一緒にいないといけないのだから、気難しげな中年おじさんより、美少女『カエサル』でよかったのではないの?」
「ま、まあ、何というか……」
「それに、聖也さんはおっぱいの大きい子が好きなのでしょ?」
「ここで人の性癖を覗かないでくれっ」
「でも、この違いは実は大事なの。スペインからローマに帰還するとき、つまり今日の、聖也さんの世界の歴史の『ユリウス・カエサル』なら三十代なのよ」
いまユリアは十七歳だ。それがどういう違いになるのだろうか。
「聖也さんの知っている歴史と比べたときに、もっと年を取ってから起きるべきことが、人生の早い時期に起きる可能性があるということ。たとえば、暗殺とか」
暗殺――胃の辺りに冷たいものを感じた。
「時間の本質は原因結果の流れにあるから、物事の順番が優先される。つまり、時間の経過ではなくて、フラグが立ったものからイベントが起きる」
「そのフラグ管理を俺がうまくやればいいってこと、なのかな?」
「その通りです」と、ディアナが拍手した。拍手されてもなあ。
「日本にはちゃんと帰れるのかな」
ボソッとつぶやくと、ディアナがつっと目をそらした。
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