美少女カエサルとの優雅なディナー
その日、古代ローマに来て初めての夕刻、俺はユリアが泊まっている邸宅に案内された。場所はガデスの隣の町。ガデスにはユリア好みの宿所がなかったからだ。そして、それがいままでガデスに足が向かなかった理由でもあるという。
「ユリア様はおしゃれ好きでわがままですからねー」とリヴィアがあけすけに言っていた。自分の主人にひどい言いようだ。
「いいじゃないか、リディア。潮の香りは好きだが、やはり花々がたくさん咲いているところでゆっくりするほうがいいじゃないか」
主人のほうも主人のほうで言わせたい放題である。ローマでの奴隷と帝国主義時代の奴隷とではえらい違いだということを肌で感じる瞬間だ。
「生産労働に使われる奴隷が多いことは確かだが、わがの家のように奴隷に家計を管理させたりするところもけっこうあるぞ。哲学や歴史や詩にくわしいギリシャ人を奴隷として連れてきて、実際にやらせる仕事は将来の元老院を担う子弟の家庭教師、なんていうところもある。うちもそうだった」
ユリアが丁寧に説明してくれる。前にいた世界で知っていたローマとこのローマとのすり合わせが出来て助かる。
何しろ、すでにこれまで勉強していた古代ローマとの種々の相違点、並びに『カエサル』が女の子という異常事態に直面した以上、自分の知っている歴史知識がどこまで通用するか、確証が持てなくなっているのだ。
「居眠りをして奴隷の家庭教師に頭を叩かれたこともあったなあ」
奴隷と言っても住み込みの書生に近い扱いを受けている者もいたのだと習ったっけ。
ユリアがリヴィアを近くに呼び寄せ、その頭をなでる。
「私とリヴィアはさっきも話したが、親の代からの付き合いで、幼なじみであり姉妹のような関係かな。なかにはエジプト人のように奴隷をいじめる奴もたまにいるが、たいていのローマ人は自分の家の奴隷を頼りにしているし、奴隷も主人のために一生懸命働く」
「なるほど」リヴィアの働きっぷりを見ていればよく分かる。
「主人が出世すれば奴隷と言っても財産を作れるしな。奴隷の身から解放されてもあいかわらず解放奴隷として主人に尽くしている者も少なくないよ」
ユリアも年若い少女とはいえ公職に就いているわけで、リヴィア以外の奴隷も仕事をしていた。屋敷には基本的に女性が多いが何人か壮年男性もいた。おそらくは腕っぷし面担当なのではないかと思う連中だった。
さて、その日の夕食。色とりどりの花に囲まれたダイニングに案内された。長椅子の上にいくつもクッションが置かれている。
「明日はローマへ出発だから、今日は簡単に庶民風だ」と、ユリアがうきうきしていた。
「楽しそうだね」
「普段と違った内容の食事だし、旅のまえというのはそれだけで楽しい」
遠足のまえの日とかはワクワクするのと同じ感覚なのかもしれない。
まず出されたのは前菜。ゆで卵、オリーブ、キイチゴ、山羊のチーズが出された。別の皿に用意されたのは何か発酵臭のする野菜で、ニュアンス的には漬物だ。
さらに皮をむいたイチジクに生肉がまきついたもの。
俺が怪訝な顔をしていたのか、ユリアが説明してくれた。
「これはイチジクに生ハムを巻いたもので、私の大好物だ」
生肉に見えたものは生ハムだったのか。ずいぶん贅沢だな。
食卓の周りにはローマの食事といえばよくイメージされる長椅子がいくつか置いてある。
ユリアはと言えば、いまは部屋のなかなのでマントは脱いで短衣だけの姿であるものの、そのしわのひとつひとつまで細かく手で直して姿勢を作っている。なるほど、おしゃれというものは細やかな気配りに現れるのだなと思う。
俺もなれないながらに長椅子に横になった。……どうも落ち着かない。
「……来ているものが乱れてるのです」
皿を持ちながら、リヴィアが俺のマントを直してくれた。恥ずかしい。しかも目の前にはとびきりの美しい金髪少女で、さきほどヘラクレス神殿でこれ以上ないくらいのカッコイイ宣言をした美少女なのである。いろいろ恥ずかしかった。
殻をむいてもらったゆで卵を口にする。半熟でおいしかったが、やっぱり食べにくい。
「きみのいた世界では、このようにくつろいで夕食をとらないのか」
ユリアが優雅な手つきでゆで卵を食べた。
横になって食べるのは、言うまでもなく二十一世紀の日本では、入院などの何らかの事情がない限りはまごうことなくマナー違反である。
「普通は椅子に座ってご飯を食べるね」
ユリアは目を丸くした。
「それでは戦争中と変わらないじゃないか。ああ、でも、かつてローマを苦しめたカルタゴの名将ハンニバルは、常に食事は椅子に座ってとっていたというから、セイヤは案外、名将の器なのだろうか」
そんな立派なものではない。だが、椅子に座って食べる食事が日常的なのだということは、家族みんなで立ったまま夕食をとるのが普通ですというくらいの衝撃があるというのは、ディアナが授けてくれたローマ人の常識がささやいている。
ユリアは大好物だと言ったイチジクの生ハム巻きをつまんでいた。
食卓にはフォークはない。ナイフとスプーンはあるが、手づかみが主力である。
ユリアがその白い指に赤みを帯びた生ハムを軽やかにつまみ、おいしそうにで食べるその姿は妖艶ですらある。食事をするだけでこんなに魅惑的な人は、初めてだ。
さらにベーコンとキャベツのシチュー。ベーコンの塩味がきいていておいしかった
「ほんとうなら葡萄酒を出すところなのだが、この地方の葡萄酒は酸味がきつくて今日の料理には合わないから水にした」
不服はない。たしかローマでは葡萄酒は水で割って飲んでいたはずだが、未成年なので俺はいけないと思います。
食事のあいだ、ユリアは適度に話しかけてくれて、会話を途切れさせないでいたが、ユリアは俺の本来の家族のことなどは触れなかった。気を遣ってくれているのかもしれない。
シチューを片づけるとはちみつとクルミ、ナツメヤシ、ブドウと、最後に小さな赤いリンゴが出てきて、初めてのローマの晩餐は終了した。おいしかったし、楽しかったです。
「母上の言う通りセイヤに会うことができたとドラゴン便に手紙を持たせてを飛ばした。そろそろ母上から返事が来るはずだが」
「ぶっ!」思わず水を吹いた。普通にドラゴンという単語が出てきたけど、どこまで俺の知っているローマとずれているのだろう。俺は巨大なドラゴンが炎をはきながら小さな封筒一つを持って空を飛ぶ姿を想像した。
布をもらって口周りを拭いていたら、扉の向こうでギャアギャアいう鳴き声がした。
「ああ、ちょうどうちのドラゴンが戻ってきたな」
ユリアが俺の後ろの出入り口を見ながら、するりと身を起こす。俺も身を起こした。
緑色の鱗に覆われたトカゲに似たは虫類。しかしその頭には二本の角があり、コウモリのような羽が生えている。そこにいたのは体長一キュビット(約四十五センチ)のずんぐりしたドラゴンだった。ちょっと拍子抜けした。小さいんだ。子供なのか。
その小さなドラゴンはきょろきょろとして、ユリアを見つけてしっぽをぱたぱたした。
「ただいまー」
「おお、おかえりー、シャール」
「うぇええええええ!?」と、ものすごく変な声が出た。
「ものすごく変な声なのです」皿を下げたリヴィアに言われた。うるさい。
「あいつ、しゃべれるの!?」
「当たり前じゃないか。シャールはドラゴン便のドラゴンなんだから。かわいいだろ?」
小さな翼竜はとたとたとと部屋に入り、ユリアに羊皮紙を渡していた。
「はじめまして。ボク、シャールです。よろしくね」ドラゴンはにっこり笑っている。
「お、俺はセイヤ。よ、よろしく……」
「ドラゴン便のドラゴンは特別でな。これ以上大きくならないが、言葉がしゃべれる」
ユリアがドラゴンの頭をなでている。少しだけドラゴンの目が細くなる。喜んでいるのだろうか。まるでペットの大型犬のようだ。
「きみの世界にはいなかったのかな? ローマとガリアの境の森辺りにドラゴンの森があるらしく、よくそこで捕獲される。そして、ドラゴン便の元締めによって、郵便ができるように人間との接し方やローマの地理を教えられるのだ」
ちなみにシャールはいまリヴィアから水の入った皿をもらって飲んでいた。
「元老院議員の家や大きな商家なら、だいたい自分専用のドラゴン便を持っている。手紙や報告がすばやくできるのは、統治能力にもかかわってくるからな」
情報が素早く手に入ることは政治でも商売でも大事だよな。
「いまだって、昼間したためた手紙を持たせてガデスから飛ばしたシャールが、この時間にはローマに住む母上の返事を携えて帰ってきてくれる。ありがたい話だよ」
ものすごい速さである。シャールは床に座って手づかみでクルミの実を食べていた。
「ごちそうさま。おやすみなさい」
シャールはもらった餌を平らげて、とたとたと部屋から出ていった。屋外の小屋に帰って寝るのだという。やっぱりここは、俺の知っている古代ローマとは違うローマなんだな。
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