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ユリア・カエサルの決断  作者: 遠藤遼
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命からがら、ユリアが志を立てる

 港町ガデスはイベリア半島の南東、「ヘラクレスの二本の柱」――二十一世紀ではジブラルタル海峡として知られている場所のそばに位置している。


 町並みは属州ながら石畳もきちんと整備され、家並も小ぶりとはいえローマ式のものが多い。ローマ人の知恵の結集ともいえる上下水道も町を走っている。ちゃんと浴場まであるのには、正直驚いた。ローマ人は風呂好きだと聞いていたが、ほんとうなんだな。


 でも、ここは古代ローマではあるが、俺の知っている古代ローマではない。


 偉大なる『カエサル』が凛々しい美少女である世界なのだから、本来の古代ローマにおける港町ガデスがどのような場所であったかまでは知らない俺としては、このガデスが歴史上のガデスとして「正解」なのかはわかりかねる。


 町は活気に満ちている。いわゆるファンタジーものでイメージする港町の雰囲気そのものだ。船が行き交い、荷物がやり取りされている。人夫たちが大声でしゃべりながら町中を闊歩していた。開け放たれた窓から何かを焼いている煙が上がり、うまそうな匂いがして、いまさらながらにお腹が空いているのを思い出した。


「これまでせっかくスペインに会計監査員として赴任したのだからと属州内のたいていの町を見て回ったのだが、なぜかガデスにはこれまで来たことがなかった。だから、どこでうまいものが食べられるか、私もよくわからない」


 ユリアが冗談めかして言いながら、「すまない」と頭を下げた。


「いや、そんなこと……」「セイヤの腹の虫に謝っているんだ」


 そんなにお腹が鳴ってしまっただろうか。


「下品な奴なのです」このぺったんこは何でこんなにつっかかるんだ。


「許してやってくれ。リヴィアは親の代から私の家に仕えている奴隷で、彼女の父親ともども家計全般の管理を任せている。奴隷といっても実際には私とは姉妹みたいに育ったから、焼きもちを焼いているんだ」


「焼きもちなんて焼いてないのです!」


「ずっとお兄ちゃんをほしがっていたじゃないか。黒髪だし、ちょうどいいと思うが?」


「そ、それはっ……!」


 ぺったんこが頬を赤らめて怯む。俺の顔を何度も見る。口をあうあうする。


「お、お兄ちゃんとは、もっと崇高であるべきなのです」妙なこだわりがありそうだ。


「ほう、ではこれから私はずっとセイヤと腕を組んで歩いてみようかな。何しろ異世界から来た人間。何をするかわからないから押さえておかないといけないだろ?」


 そう言ってユリアはさっそく俺と腕を組んだ。短衣ごしにユリアの大きな胸のふくらみと柔らかさと温かさを感じてしまった。


「うっ……それは困るのです」俺も困るのです。


 ユリアはそこそこ人の出入りのある店を選び、鼻でくんくんと匂いを嗅いで「この(バール)に入ってみようか」と誘った。そんな仕草までカッコよかった。


 なかにはL字のカウンターがあり、そこに大きな陶器のツボが埋め込まれていて料理が保温されいていた。客たちはそこから料理をもらってテーブルとイスで食べるようだ。


「売られているのはプルスといわれる小麦の粥だ」と、ユリアが教えてくれる。


「他には魚の身のつみれのスープやオリーブの実があるみたいなのです」


 リヴィアが素早くカウンターをのぞき込んでユリアに報告していた。


「きちんとした昼食(プランディウム)にご招待すべきなのだろうが、私の館に案内していては夜になる。しかもあいにく明日は、任期満了に伴ってローマへ旅立たなければならない。それらを勘案して、まずはお腹を満たすことのほうが大事だと思ってな」


 店の主人は最初、俺の服装を見て鼻白んだ感じだったが、一緒にいるのが会計監査員であるユリアだとわかると一転して笑顔で食事を提供してくれた。会計監査員は属州総督のような立場と比べるべくもないが、公職には違いないのだ。


「あ、おいしい」素直な感想が出た。人間、いかなるときでも食事は大切なんだな。


「うむ。ここのお店の料理はたしかにおいしいな」ユリアも一口粥をすすってうなずく。


 助かったのはガルムと呼ばれるローマの魚醤の存在。日本的に言えば秋田のしょっつるだろうか。親戚の家で食べたものと味がよく似ている。なんだかんだ言っても醤油的なその味は根っからの日本人である俺の舌に懐かしい塩味と旨味をもたらしてくれた。


「うん、けっこうここの料理、いけるかも?」


「セイヤはほんとうにおいしそうに食べるのだな」と、変なところを感心された。


「いや、俺も作ってみたいなと思って」


「異世界人と言うのは料理も堪能なのか?」


「人によると思うよ。俺の後輩は女の子だけどすごく料理下手だったし。あちっ」


「ふふふ。慌てて食べるとやけどするぞ」


 ふとわれに返ると、こんな美しい少女と差し向かいで昼食を取って、何だか楽しげに会話できていることが夢のように思えて仕方がなかった。他称幸運体質の恩恵を、初めて自分自身が味わえたような気がする。


 食事中、リヴィアは隣のテーブルで粥をすすっていたが、ユリアが耳打ちをしたあと、いつのまにかどこかへ居なくなり、しばらくして布を抱えて帰ってきた。


「これを着るのです」ぶっきらぼうに押し付ける。見れば男物のシンプルなマントだ。「その格好では目立つのです」


 一瞬ぽかんとなったが、素直にうれしくなった。


「ありがとう、リヴィア」「お……意外に似合うのです?」「え?」


 するとリヴィアは見る見る顔を赤くした。


「勘違いしないでほしいのです。おまえのためではないのです。おまえが変な格好していたらユリア様まで変な目で見られるからイヤなのです」


 店を出て、また馬に乗った。もう少し町を視察して館に戻るのだという。


「ねえユリア。あの街の真ん中にある大きな建物は何?」


「ああ、あれはヘラクレス神殿だ」


 初めて生で見る古代ローマの神殿に、俄然興味がわいた。


「視察ってことは町中見て回るのだよな。あの神殿も行くのだよな」


「いや、会計監査の仕事に関係した範囲のつもりだ。もし神殿に興味があるなら、ローマへ戻ってから参拝するといい。それこそ無数にあるから」


 それもそうか。ローマに行けばもっと大きな神殿や数々の(二十一世紀の視点から見れば)名所旧跡を回れるのだから。


 ユリアに従って町を出る道に入ろうとしたところで、俺は大きく馬の手綱を引いた。


「どうした、セイヤ」


 道の先にいたのだ――あの「絶望の吐息」が。


 上野のときと違っているのは、周りに普通に人がいるということ。しかし、他の人は誰も「絶望の吐息」に気づいていない。それどころか、「絶望の吐息」のなかを通過している人もいる。狙いは俺だけなのか。ディアナ、守ってくれるんじゃなかったのか。


「絶望の吐息」がゆらりと動いた。


「どうした、セイヤ。……あそこに、何かいるのか?――あれは何だ?」


 リディアが怪訝な顔で「ユリア様?」と尋ねている。リディアには認識できないらしい。


「何だか、不吉な気配がするな、アレ」ユリアが馬を抑えつつ言った。


 待てよ。「絶望の吐息」を認識しているってことは、ユリアも「絶望の吐息」に襲われる可能性があるのだろうか。まずいじゃないか。


「ユリア、詳しい説明は後でする。とにかく逃げよう」


 手綱を操り、馬の首を巡らせ、いま来た道を駆ける。ユリアたちも続く。


「アレ、危険なのか?」


「飲み込まれれば、確実に死ぬらしい」


 町の人たちを器用にすり抜け、馬を走らせる。何人か、驚かせて転ばせてしまったようだが、許してほしい。


「セイヤ、あとをついてくるぞ。いや、常に一定の距離にいる感じか?」


 先ほどと同じくらいの距離にアレが漂っていた。馬の速度についてくると言うよりも、風船のつながった紐をを持った子供のあとを、風船がふらふらついてくるようだった。


「俺はアレに襲われそうになったところを、女神ディアナに助けられ、ここに来たんだ」


「じゃあ、ディアナ神に祈れば、助けてくれないのか?」


「満月の夜しか会えないって」あの矢で撃ち抜かれるとき、そんなことを言っていた。


 そういえばそのあと、本当にギリギリのところで「絶望の吐息」についても何か言っていなかっただろうか。


『もし万が一、ローマ世界で「絶望の吐息」に出会ってしまったら』そうだ、ディアナは最後に何か言っていたよな。そのときは、そのときは――っ



『そのときはプルートー以外の神の加護のあるところへ逃げなさい』



「ユリア、どこか、神様の加護のあるところはどこだッ!?」


「神様の加護のあるところ?」


「冥界の神プルートー以外なら誰でもいい!」


「だったら、さっきのヘラクレス神殿がいちばん近いぞ、セイヤ」


 再び手綱を返す。家々をすり抜け、ヘラクレス神殿の敷地へ――


「間に合うのか?」アレの動きの法則は分からないけど、とにかく手綱を強く打つ。


 神殿の境内地に馬は入れられない。飛び降り、さして広くはないが、きちんと石畳で周囲とわけられている境内地に転がり込む。着慣れないマントが脱げた。


「ユリア!」振り返るとユリアも馬から降りて敷地に飛び込んでくるところだった。リディアもとにかくついてくる。大丈夫。俺もユリアも「絶望の吐息」に捕まってはいない。


「大丈夫か、セイヤ?」


 ユリアが俺の身を案じる言葉をかけてくれた、まさにそのとき。上野でディアナの矢を受けた時と同じように「絶望の吐息」がしぼみ、消えていった。


「消えたみたいだ」


 ユリアが大きく息を吐いて、それから笑った。


「ははは。異世界人と一緒にいるのはずいぶんとスリリングなんだな。楽しいぞ」


 日本にいたときの俺の日常はスリリングとは無縁だったけどね。


「何はともあれ、ヘラクレス神に感謝だな」まったく同感だった。


「じゃあ、せっかくだからお参りしていこうぜ、ユリア」


 落としたマントを拾ってたたみながら、突如血相を変えて飛び込んできた俺たちに訝しげな眼を向ける他の参拝者たちを適当にあしらい、何食わぬ顔で神殿に上がることにした。


「では、行ってみようか」


 参拝者が出入りしている神殿本殿を目指す。参拝の作法も身体で覚えていた。


 本殿に入ったところで、ユリアが入口すぐの大理石の像のまえで立ち止まった。


 剣を振りかざした女神像のように見える。戦いの女神アテナだろうか。


 まだ少女らしさを残した面立ちながら、億万の軍勢を前にしても怯まない気迫に満ちた美しい作品だ。ルネッサンスの彫刻にも劣らない、傑作と言っていいだろう。


「リヴィア、あれは誰だ」


 ユリアの問いに対しリヴィアが像の周りを確認し、近くの人に聞いたりして帰ってきた。


「ユリア様、あの像はマケドニア王にしてコリント同盟の盟主、エジプトのファラオでもあられたアレクサンドラ大王だそうです」


 リヴィアの答えに対し、ユリアはある種の劇的な反応をした。


「あれがアレクサンドラ大王なのか――」と言ったきり、動かなくなってしまった。


 俺の知っている歴史ならば「それ」は「アレクサンダー大王」という男性なのだろうが、やはりというか何というか、こちらも「アレクサンドラ」という女の子になっていた。


 アレクサンドラ大王。偉大な英雄にして後世にギリシャとオリエントを融合したヘレニズム文化と呼ばれる時代を築いた人物――。改めて見てみるとその像の風貌には単なる美少女にはない英雄の猛々しさと知的な風格を感じる。


「アレクサンドラは」と、ユリアは「大王」の敬称を略していった。


「いまの私と同じ年齢、十七歳にして偉大な像を刻まれる仕事を成し遂げたのだな」


 ユリアはアレクサンドラ大王像を見据えたまま、誰にともなくつぶやいた。


 これまで快活な表情をずっとしていたユリアがふっつりと黙り込んでしまった。


「ユリア?」


 心配になってのぞき込む。何か怒ったような顔つきでアレクサンドラ大王像を見上げていたユリアの口元がかすかに上がる。笑っているのか?


「セイヤ」ユリアが俺の方に顔を向けた。笑っていた。


「アレクサンドラ大王は十七歳で偉業を成し遂げた。私も同じように偉業をして悪いことはないではないか」


 彼女の言葉が飛躍していて、何を言いたいのか、すぐには分かりかねる。


「ローマに戻ったら、元老院の大人たちに気を使って小さく身をかがめ、顔色を窺い、聞き分けの良い後輩を演じることで、私の番が回ってくるのを待っているつもりだった。でもそれではきっと間に合わない。ローマも――そして、私も」


 ユリアがそのサファイア色の瞳をキラキラさせて俺の両肩を掴んだ。その笑顔は溢れくる情熱と、隠せない野望と、あらゆる常識にケンカを売ろうと企む獰猛さで彩られていて、それが目も眩むほどに美しい。


「私はローマを世界一の大国にしてみせるぞ。アレクサンドラ大王の国にも劣らない、いや、アレクサンドラ大王が卒倒するような大国に創りかえるのだ!」


 熱狂そのもののような口ぶりだったにもかかわらず、あとになって思えばこのときのユリアはそうとう抑揚のかかった言葉を選んでいたのだと思う。


 目覚めたばかりの朝の太陽のごときすがすがしさで宣言したユリアには、ただ美少女と言うだけでは済まない何かがあって、俺は英雄『カエサル』の息吹を感じ取っていた。

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