月の女神さまの(一方的な)契約書
いや、それを「それ」と呼ぶのがふさわしいのか、自信がない。
数々のローマの遺産のなかにわだかまるそれは、目に見えないモノだったから。
見えないのに、確実のいる存在。だから、「それ」としか言いようがない存在――
では、どうやって「それ」を認識したかと言えば、自分でも何とも説明しがたい。
寝ているときの夢が起きているのに脳内で展開され、それが視覚と重なっているような感じ。網膜には映っていないのに認識している感じ。見えていないのに視えている感じ。
現実世界での認識を拒絶しているのではない。目が覚めたら夢を忘れてしまうように、「それ」を認識しようとするそばから忘却へこぼれ落ちていく、砂時計の砂ような何か。
「それ」がゆらりと動いた。
恐怖。本能的で根源的な恐怖。
逃げなければ――
周りを見る。あるのは、物言わぬ彫像たちばかり。逃げたい。逃げたい。逃げたい。
足が動かない。頭が回らない。「それ」から顔を背けることさえできない。
「それ」がゆらゆらとゆらめき、動きを収め――向こうが、俺を認識した。
「まずい――!」
気合いを入れ、気迫を込め、目線を外す。そして回れ右をして逃げだした。
しかし、その逃走はほんの一瞬にして終了した。
目の前が真っ暗になり、動けなくなったのだ。
「うわああぁぁぁっ!」と、とうとう叫ぶ。しかし、その声は不思議とくぐもった声しか出なかった。まるで柔らかで温かな枕に顔を押し付けて叫んだような声だった。
「しょ、初対面で胸に顔をうずめられたのは、初めてです」
極上の枕が女性の声を発した。何事かと頭を左右に動かそうとすると「あんっ」とかいう甘い声がする。
ぎょっとなって顎を逸らせるようにして上を見ると、お互いの息がかかる距離で女性の顔に出くわした。とんでもない美人であった。
「……そろそろ、私の胸から離れてほしいのだけど――」
その女性が申し訳なさそうに言う。ようやく自分が見ず知らずの女性の胸に顔をうずめていたことを悟った。
「いや、これは、あのっ、そのっ」
「糸原聖也さん、よね」
「ははは、はいぃぃっ! 名前バレてる! 何で? どうしてっ?」
緩やかに波打つ長い金髪。現実の女性、なのだろうか。そう思うくらいきれいだった。ついさっき、こんなきれいな女の人の胸に顔をうずめさせていただいたのか。
ただ美しいだけではない。年齢は俺より少し上だろうが、その年齢に似つかわしくない威厳のような気品さえ感じる。
そして、その服装。
きらきらした輝きを持った薄絹でひだのていねいにつくられた衣装。身体の線をすっきりと見せていながら、その衣装はギリシャローマ神話の女神をほうふつとさせる。あの衣装なら胸の柔らかさがあれほどダイレクトに伝わってくるわけだ……って何言ってんだ俺。
ローマ展だから何かそれっぽいコスプレをしているのだろうか。
ご丁寧にも彼女の手には弓が握られ、矢筒を背負っていた。
それにしてもなぜ俺の名前を知っているのだろうか。会ったことがあるのだろうか。
目の前の美女は矢筒から矢を引き抜き、弓につがえて、構えた。
「え――っ」やっぱり怒っていらっしゃったのか。
(いくら胸に顔がぶつかってしまったからと言っていきなりそれはないのではないのだろうかそもそもあれは不幸な事故と言うべきであって――)
凛々しく眉を持ち上げ、目に鋭い光を宿らせて、彼女は弓を思い切り引き絞った。
「契約は契約」と、女性が口調をあらためた。
「私の命令に従うか、いまここで死ぬか――どちらにするかしら?」
「たたた、助けてくださいっ!」
「いいお返事です。じゃあ、動かないでね」「えっ?」
その彼女の狙いは、矢先の緊張は、俺の向こうに集中している。向こう?
そうだ、柔らかな胸の感触で忘れていたが、向こうには「それ」がいるはずだった。
肩越しに振り返ると、ゆらゆらとゆらめく「それ」が先ほどと変わらずに存在した。
逃げないと、とその美女を促そうとしたとき、彼女が言葉を発した。
「月の女神ディアナの名において、プルートーの『絶望の吐息』よ、退散せよッ!!」
引き絞った矢が解き放たれた。
白い筋。巻き起こる風。
「それ」に吸い込まれていく一本の矢。
その矢を中心に空間が揺らぐように収斂し、「それ」は風船がしぼむように、あるいは綿菓子づくりを逆再生したかのように、細くなり、弱まり、収縮して消えた。
何だったのか。ただ、心からほっとした。死なずに済んだ。
「危なかったわね、聖也さん」
きわめて当然のように、その美人が声をかけてきたが、どう反応したものか。
彼女はどこか懐かしげな優しい笑顔で言った。思わず頬が熱くなった。
「先ほどのモノは冥界の神プルートーの『絶望の吐息』。あれに飲み込まれた者は、肉体の命を奪われ、魂を冥府に叩き落されるの」
平時に聞いていれば厨二か電波かと聞き流したことだろう。でも、さっきのモノが俺の命を狙っていたことを本能的に理解している。
「あ、ありがとう、ございました」のどがカラカラだった。「ところで、あなたは?」
「この格好はあなたたちがわかりやすいように纏っているのですが……ディアナという名前はご存知?」
その女性が温かな笑顔で小首を傾げる。えっと、ディアナ、ディアナ――。
「古代ローマの、狩猟の女神……」
「ご名答!」すごくいい笑顔だった。彼女は胸を張った。
「私はそのディアナです」「えっと……」「古代ローマの狩猟と月の女神ディアナ。ギリシャ神話ではアルテミスと呼ばれることもあるのはご存知ですわね」
女神さまでしたか。それはそれは。ありがとう。
なんて、軽く受け入れるわけにはいかないわけで。やっぱりコスプレか。でも、命を救ってもらったことは事実、なんだよな。
「間に合ってよかったです」と、俺の両手を取って感激の面持ちで握りしめている。女の人の手ってすごく柔らかいんですね。
その手のぬくもりに感動したわけではないけれど、もう少し話を聞いてみたくなった。
「でもこれも、古の誓約を果たしたまで」
「誓約?」
「さっき、聖也さんは私の言うことを何でも聞くから助けてくださいとひれ伏したの、覚えてますよね?」
「は、はあ」誇張的表現を感じたが、面倒なのは嫌なのでおとなしく従おう。
俺の返事を待って、自称女神様が慈悲深く微笑まれた。
「これからあなたには古代ローマに行っていただきます」
「いやいやいやいや!」だめだ。かっ飛んでる。
「あ、旅費的なお金とかは気にしないで大丈夫ですよ。むしろ、あっちへ行ったときのために、少し金貨と銀貨を渡してあげちゃいます」
「いや、そういう心配をしているわけでは……」
俺の困惑をよそに、ディアナがどこから取り出したのか、小さな布袋を握らせた。ずしりと重い。開けてみるとほんとうに金貨銀貨が入ってんじゃん。
取り出して見てみると、現代日本のものとは思えない、どこか未発達の鋳造技術。
描かれているのは人の横顔。ラテン語の文字。
見間違えるはずがない。ローマに興味を持ったきっかけがこれなのだから。
「これって、ほんものの――」驚いてディアナに問いかけた。
「そう。古代ローマの通貨よ。やっぱりお金がないと困っちゃいますからね」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」ますます混乱してきた。
「いまから、ここからなんですか? パスポートとか、両親の許可とか、学校とか――」
いや、自分でも何言っているのかよくわかってないよ。
わかっていないけど、何か言わないとどうしていいかわからないのだ。
だって、いまから古代ローマだよ?
ここは二十一世紀の日本で、ローマは二千年前の西洋世界。
そうだ。パスポートうんぬん以前にこの地球上に古代ローマはもはやないのだ。
ないからこそ、「古代」ローマなのだ。
「あなたが会いたがっていた『カエサル』に会わせてあげます」
ディアナの言葉がまたしても思考を停止させる。
「糸原聖也さん。都立南国分寺高校二年生。部活は一年のときは剣道部だったけど、いまは歴史研究同好会。成績はクラストップだけど、体育だけはちょっと苦手」
「え?」
「この『古代ローマ展』にはたまたま顧問からもらえたチケットでやってきた。ちょうど今日は期末テストの最終日で明日から試験休みだし、あなたの誕生日だから」
「は、はぁ……」
「昔からあなたがいることで周りの人もラッキーな目に遭う幸運体質。おかげで今日も、後輩の女の子がタダでこの展示会に来ることができた」
「まあ、そうだけど」
「その一緒にいた女の子は、幼なじみだけど同好会の後輩に過ぎず、かわいいと思ってはいるもののそれ以上に進展もなく、ゆえにまったくもって残念ながら彼女はいない」
「おいおいおいっ!」
「あの子ならあと一押しで彼女になってくれると思いますけど?」
ディアナは実に事細かに俺の情報を開示してくれた。最後の一文以外はものの見事に事実ばかりだ。なにこれ、新手のストーカー?
「私は女神ですからこのくらい、あなたの心から読み取ることは容易なことです」
ディアナがいままでとは違った笑い方をした。文字通り何でもお見通しと言わんばかりの神秘的な笑み。しかしやっぱり「彼女はいない」は余計だったんじゃないかな。それもあんなに装飾過多な言い回しをしなくてもいいと思う。やっぱりこの人ムカつくかも。
「もともとあなたは私の命令に従うしかないのです。契約は契約ですから」
「あの、さっきも言ってましたよね、『契約は契約』って。何の契約ですか?」
ディアナは弓を背負うと、どこから取り出したか薄茶色の布のようなものを広げて見せた。大きさはA4より一回り大きい。ずいぶんごわごわしているように見え、アルファベットがずらずらと書き連なっている。
「これは『契約の羊皮紙』」「はあ」展示物の羊皮紙と同じ色味だ。
ディアナはその文字列のいちばん最後、署名欄らしきところを指して言った。
「この羊皮紙のここに、あなたの名前が書いてあります!」
「は?」女神様、ドヤ顔なさっても困るんですけど。
「契約の証として幸運体質も見事に備わり、署名もある以上、あなたはこの契約に従わなければならないのです!」
「……ごめん、文字が読めないんだけど?」
ディアナが目を丸くし、片手を口に当てて、驚愕の表情を作った。
「まさか……ラテン語が読めないなんて」「読めるわけないだろ!」
ディアナは顎に人差し指をつけて「んー」と考える。いや普通だから。俺日本人だから。
「では、これでどうですか?」とディアナが羊皮紙の表面をなでた。彼女が触れたところから文字が揺らめき、違う形をとる。「これで読めるでしょ?」
羊皮紙の表面に書かれている文字が日本語になっていた。
文頭の修飾的表現をいくつか取り去った内容としては、こうだった。
「遥かなる先の世で冥界の神プルートーに命を狙われるとき、助けてほしい。そうすれば、月の女神ディアナの命に何でも従う。契約の証として幸運体質を女神から授かる。聖也」
何度読み返しても、そう書いてあった。至極簡単な内容。でも俺が、何度も何度も、まるで入試の合格発表の掲示を見返すように読み返したのは、別の理由があった。
「どうですか?」と、俺をのぞき込むディアナ。
「あなたの名前が、あなたの筆跡で書かれてますよね?」
そうなのだ。何度読み返しても、どう見ても、そこに書かれているのは、文章も文末の署名も、明らかに俺の字だったのだ。
「どうして……?」
「契約は契約ですから」ディアナは繰り返しながら、一歩、近づいてきた。
「お願い。このままでは『カエサル』がその使命を果たせないの」
ディアナがこの上なく真剣なまなざしでじっと見据える。
「どういう?」
「そのままの意味よ。このままなら『カエサル』はあの三月十五日の暗殺をされることはないだろうけど、それだけよ。一人のローマ人が生まれて天寿をまっとうしたというだけ。ローマは皇帝を戴くことはなく、共和政体のまま余命を引き延ばして緩慢な死を迎える。あなたの知っている古代ローマ帝国はどこにも存在しなくなる」
ディアナが後ろを振り返り、その白く輝くような指で展示物を指す。
先ほど見ていた初代ローマ皇帝アウグストゥスの像が、煙を吹き消すように消えた。
アウグストゥス像だけではない。その後に続く皇帝たちの像が次々と消え、皇帝たちの事績を示す円柱のレプリカも消えていく。
そして――ユリウス・カエサルの像だけが残った。
しかし、その説明文が変わっている。
「ある元老院議員の像。名前は伝わっていない」――ガリアの征服者でも、終身独裁官でも、ローマ帝政を開いた偉人でもなく、ただ一人のローマ人に成り下がっていた。
「これは、どういうことなんだ」
「本来のユリウス・カエサルは己の信念を貫き、結果として暗殺された。それは悲しいけれども、地上の命よりも大事な、やらなければいけないこともある。その生きざま自体が時代を開く捧げものだったかもしれないわね。しかし『カエサル』がおのれの信念を貫くことを諦めていたら? 自分の命かわいさにほどほどの仕事と人間関係で生きたら?」
「それだけで、俺の知っている歴史ではなくなってしまう、とか?」
「時の流れはとても複雑で残酷なの。過去の彼方の『カエサル』を登場させるためには『カエサル』の遥か未来にいるあなたの力がいる。過去・現在・未来は実は円環であり、一点。あなたの住んでいる世界と宇宙は無数の世界と宇宙がまったく同一座標で、重なることなく共に存在している。けれども、そのどれか一つが破綻してもいけない。――それが私の願い。契約の代償として、あなたに下す命令」
「その命令……拒否できたりはしないのですか?」
「拒否できるわ。でも、その場合は、さっきの『絶望の吐息』が戻ってくる。そして今度こそ確実にあなたの命を奪い、冥界へ魂を運び去る」
「やっつけてくれたんじゃないのか?」思わず大きな声になった。
「あれでもプルートーという神の力の一端。消滅させるなんてできないわ。あなたとの契約に従って私が一時的に、他の神である私の力で無効化させているに過ぎない。これも幸運体質の為せる業だと思って頂戴」
「それって、契約を俺が破棄したら『絶望の吐息』に殺される、のか?」
「私だってこんなことはしたくないんだけど、本当にこんなことは言いたくないんだけど、あなたを最後まで守ってあげたいんだけど、どーーーしてもあなたが私の命令に従いたくないというなら不本意ですけどあなたを守ってあげられなくなってしまうんですよねぇ」
頬に手を当てて、嘆かわしげな顔をわざとらしく作ってやがる。
「そうすれば、俺は死なないっていうのか?」
ディアナはにっこり笑った。「契約は契約ですから」うるせえ。
「契約の範囲にあなたがいる限り、私の力で『絶望の吐息』は近づけさせません」
「信じてますよ、女神様。『契約は契約』なんだろ?」
「もちろん、『カエサル』本人にバラしてはダメ。あくまでも『カエサル』の人生の選択として立派な英雄になってもらうようにね」
「はいはい。言われたとおりにやりますよ」
もうヤケだった。少なくとも、いますぐ死ぬよりはましだ。
「でも、その契約に従うということは、『カエサル』に立派な仕事をして暗殺されろということなんだろ?」
「暗殺は『カエサル』にとって歴史の要因ではないわ。あそこで死ななくてもいいの」
カエサルが暗殺されなくてもいい。もしカエサルが暗殺されなかったら――。
歴史のイフでも屈指の命題の一つだろう。
「あなたの幸運体質なら、『カエサル』が暗殺されないですむかもしれないわね」
そう言われてしまうと、『カエサル』が死なないように受けざるを得ないじゃないか。
「ま、いろいろ大変かもしれないけど、私もそちらでならもうちょっと簡単に会えるから。具体的には満月の夜」「いやいやいやいや!! それって月に二回だけじゃん!!」
「一時間だけだから、進捗だけ手短に報告してね」何だ、このブラックな感じ。
「あ、あと魔術的なものも使えるようにしてあげる。ちょっと制約があるから最初の満月の夜まで待っててね」「急に巻いてきてないか!?」
「最後にひとつだけ。もし万が一、ローマ世界で『絶望の吐息』に出会ってしまったら、プルートー以外の神の加護のあるところへ逃げなさい――ああ、時間がもうないわ」
いますごく大事なこと言わなかったか? しかし、聞きかえす間もなく、ディアナは当然のように弓に矢をつがえ、俺の胸元に目標を定めた。
「ここで死ぬか、私の命令を聞いて古代ローマに転送されるか――どっちにする、糸原聖也さん」
そして俺はディアナの矢に射ぬかれ、現在に至るのであった。
少しでも面白いと思っていただけたら、ブックマークと☆の評価がもらえると嬉しいです。