ユリアの涙
「セイヤ! 大丈夫か! モエミ殿、物音がしたようだが、ディアナ様はどうされた!?」
ユリアが待ちきれずに部屋に飛び込んできた。その姿に動揺した。
髪は振り乱され、目は腫れぼったい。着ている短衣もベルトが少し斜めになっていた。普段のユリアではありえない姿だ。
「どうしたんだ、ユリア」
おしゃれ好きのユリアから考えれば、この格好は半裸に等しいほどじゃないか。
「どうしたじゃない。セイヤ、よかった。気がついてくれたんだな」
腫れぼったい目は、涙の名残のようだ。現にまた、涙がひとしずく頬を伝って――。
「ひどい顔だぞ、ユリア」
「うるさい。誰のせいでこうなったと思っているんだ」
ぐずっと鼻をすすって、ユリアはもえみちゃんに向き直り、その手を取った。
「モエミ殿、ほんとうにありがとう。ありがとう」
「どういたしまして」
もえみちゃんが日本語でささやいた。「あんな美少女を泣かせるなんて。センパイのスケコマシ」久しぶりに聞いたぞ、そんな言葉。
何か言いたそうなユリアに向かって「邪魔者は消えまする」と言い残して、もえみちゃんは部屋から出ていった。
もえみちゃんが扉を閉めたのを確認して、あらためてユリアが俺に向き直り、あろうことかその豊かな胸に俺の頭を抱きしめた。
「ああ……セイヤ、ほんとうにすまなかった。私を逃がすために、大怪我を負わせて」
「む、ぐ、ぐ……」
柔らかくていい匂いのする至福な感触を味わいつつも、呼吸ができないことには勝てず、ユリアの腕をぱんぱん叩いた。
「ああ、すまん。苦しかったか」ちょっと幸せだったけど、とは言わない。
「ほんとうにすまない。私はあやうく、きみという大切な存在を失うところだった」
ユリアのストレートな物言いに、胸がドクンと高鳴った。
(どういう意味で、ユリアは、こんなことを……)
こんなにきれいな子に「大切な存在」なんて言われたの、初めてだから。
何か問いかけようとするまえに、ユリアが別のことを話しはじめた。
「かつて異世界人(大カトー)は、ある程度の未来を知っていようだとキケロから先ほど聞いたけど、ひょっとしてセイヤは、今日、こうなることを知っていたのか」
ユリアの真剣なまなざしが俺を貫く。さっきとは違った意味で胸の鼓動が大きくなる。
慎重に、でも、誠実に答えなければいけない。
「可能性はあった。だけど、結果まではわからなかった」
「そうか……」ユリアが沈鬱な表情になった。
「だから、キケロの家で、あんなにしつこくいろいろ忠告しようとしてくれたんだな。それを、私は――」ユリアが目を伏せた。
ユリアが顔を上げ、俺をまっすぐに見た。
「きみのいた未来の異世界で、私はどのような評価を受けているのだろうか」
喉がひきつった。いままでユリアが質問してこなかったのが不思議ではあったが、このタイミングで来られるとも思っていなかった。
究極の問いである。
きみはローマの英雄となり、歴史に名を残すのだと、喉まで出かかった。
しかし、それを言うわけにはいかない。
英雄になるにしても、それはユリア自身が掴まなければいけない。
ユリアという人生そのものが、彼女の作品なのだ。
そして、まだユリアは未完成なのだから。
「こんなときに、くだらないことを聞いて、困らせてしまったな。許してくれ」
かすかに笑ってユリアがそう言った。珍しく自嘲的な笑みだ。
「クララ、キケロ。ともにいまのローマで有名人であり、次代を担う人材だ。だから異世界人の来訪を受けたのだと思う。翻って私はどうだ。まだ何もしていない。きみに出会ったガデスで、アレクサンドラ像に誓ったものの、まだ何もしていないんだ」
「ユリア……」
「何者でもない私なのに、セイヤという異世界人がいる。いまでなくとも、未来において、私は異世界人の来訪を受けるにふさわしいだけの仕事をしたと言われるのか――」
俺はため息をついて、ユリアに明るい声をかけた。
「ユリアらしくないじゃないか」
「そうかもしれないな。カテリーナを救おうと思ったのは、ローマの本来の精神に照らして『元老院最終勧告』というものが化け物に見えたからだ。それは変わらない。でも、同時にそれと引き換えにして、最高神祇官に選出してもらおうという狙いもあった」
「最高神祇官になることは、必要なことだろ?」
ゆくゆくは、すべての権力を彼女は手にすることになる。俺は、そのひとつひとつが彼女の手に渡るところを見届けなくてはならない。
「全員が出席している今日の元老院で私は演説をし、カテリーナの助命は勝ち取った。だが、そのせいで今日、私はきみの命を失うかもしれなかった」
もえみちゃんのおかげで傷がほとんど治ってしまったので実感がないけど。実感がないぶん、俺自身のほうがユリアよりもさっぱりしている。そこはかとなく申し訳ない。
「でもさ、ユリア、俺は大丈夫だったし。ユリアのほうも大丈夫だったんだろ?」
「ああ、おかげさまで。追手も来ないし、ここの料理はうまいし、キケロにはセイヤの件で平謝りされてちょっと気分良かったし」
かなり満喫しているじゃないかと思ったが、照れ隠しだったみたいだ。
だって、ユリアはこう叫んだんだ。
「でも、だ! さっき、横に、セイヤが、いなかったッ!」
ぶっきらぼうな言葉が、むしろ、ありのままの心情を俺に伝える。
「セイヤがいないと、ダメなんだ! ……ああ、もう! 何でこんなに言葉が出てこないんだ。女の子を口説くときみたいに口が回らない。ユリア・カエサルらしくない!」
ユリアが髪をかきむしった。隠しようもなく涙が溢れていた。
それで、十分だった。
「ユリア。俺は、きみが大切なんだ。傷ついたり、死んだりしてほしくないんだ」
暗殺なんてされたくないんだ。
ユリアはと見れば、真っ赤になっていた。口をパクパクしている。
「そそそ、それって、セイヤ……」
「俺はどこにもいかない。俺は、ユリアのためにいる」
「ほ、ほんとうか!?」
「ああ、俺はディアナ神によってきみを守るようにつかわされたんだから」
「違ーう!!」ユリアの右拳が見事に俺の頬に炸裂した。
手加減をしているとはいえ、曲がりなりにもローマ屈指の剣術使いである人物の一撃に、一瞬、意識が途絶えた。
「ああ、セイヤっ!? 違うんだ! いや、違わないけど違うんだっ!」
半泣きのユリアに両肩を掴まれて揺さぶられた。めまいがした。
いや、俺だって何というか、察してるよ。でも、恥ずかしいじゃん。
「ユリア、待ってくれ、ほんとうに、死んでしまうから」
「お、おう。すまない」
めまいが治まるのを待った。ユリアはユリアで、何かを待ってるように黙っている。
「あのな、ユリア。俺のいた国では、あんまり物事をはっきり言わないんだ」
言上げしないことが、大和の美ですから。
「そ、そうか。でも、ローマでははっきり言うべきだと思うぞ」
ユリアが食い入るように俺を見つめ、じりじりと近づいてくる。一挙手一投足どころか、呼吸
さえも見逃すまいという気迫だった。
「だから、はっきり言わせないでくれ」
「だから、はっきり言ってくれ」
わかってるよ。女の子にここまで言わせて、ヘタレですよ。
でも、俺は日本の高校生。あちらはローマの美少女、というより歴史上の偉人(仮)。身分違いやらなんやらなら、史上最高ランクなわけで。
病み上がりにはきつい。だんだん頭がごちゃごちゃしてきた。
「とにかく!」俺が急に大声を出したものだから、ユリアがびくっとなった。
「俺はユリアが死ぬまでどこにもいかない!」
「よし、わかった!」ユリアも気合いっぱいに声を張った。
「セイヤは私が死んでいいというまで絶対死ぬな。そして、私のそばから離れるな!」
俺もユリアも、真っ赤な顔で怒鳴り合うように言い合う。
「ユリア、きょ、今日のところはこの辺にしないかしてください」
「う、うむ。異論はない」
ユリアは、まったくもってわざとらしく咳払いをすると立ち上がり、短衣の乱れを直した。ちらっと見えた太ももが色っぽいななんて思ってません。
「今日はちゃんと寝ろよ」とか言いつくろうユリアがかわいい。
冷静になるためにお堅いことを考えよう。例えば元老院のこととか。
すると、俺の興奮を一気に冷却するような出来事に思い至った。
「あのさ、ユリア」部屋から出ていこうとするユリアを呼び止めた。
「は、はいっ!」
ユリアが飛び上がって振り向いた。声がひっくり返っていた。瞳が潤んでいた。
「今日の元老院なんだけど、全員出席だったと言ってたよね」
「……そんなことか。そうだ。属州赴任や遠征中でない限り全員来ていたぞバカ」
ユリアが超白い目で俺を見た。何でバカって言われた?
でも、それどころではなく、焦っていた。
「じゃあさ、今日、子供が生まれて遅刻した議員とかはいなかった?」
「私の知るかぎり、最近赤ちゃんが生まれた、あるいは生まれる予定の議員はいない」
信じらない……。力が抜けた。
(カテリーナの一件のあいだに、生まれた子供がいないなんて)
それは、俺の知っているローマの歴史にとって大きな歯車のズレになるから。
史実のカテリィナ事件を俺が覚えていたのは、このとき生まれるある子供のせいなのだ。
この事件のさなかに生まれた、いや生まれるはずだった子供こそ、のちの初代ローマ皇帝アウグストゥス、『カエサル』の後継者その人だったのだから。
(アウグストゥスが、生まれていない――)
どこかで致命的に、ローマの歴史を間違えて変えてしまったのだろうか。
今日のカテリーナ助命がそれだったのだろうか。
そんなはずはない。赤ちゃんが生まれるというなら、これは昨日今日の問題ではない。
ユリアとローマの将来はどうなってしまうのだろう。
「大丈夫か。何だかまた顔色が悪くなったようだが」
「ああ……大丈夫だよ」
「いや、そうは見えない。ちょっと待ってろ。何か飲むものを持ってこよう」
「ああ……ありがとう」
ユリアは部屋から足早に出ていこうとして立ち止まり、少しためらってからこう言った。
「セイヤ、私は異世界人なら誰でもいいんじゃない。おまえがいいんだからな――おまえと一緒に食べるピザは、おいしいんだから。ずっと、そうしたいんだ」
頭をガーンと殴られたような衝撃。見上げたユリアが、またしても泣きそうなくらい顔を真っ赤にして出ていくところだった。
(何だそれ、何だそれ――ユリアずるい、とんでもないことを――)
ユリアの後継者になるはずの「アウグストゥス」がこの世界にいないということが事実だったとしても、あそこまで言われて決断しないのは男じゃない。
あんな真っ赤な顔をしながら、全身をしびれさせるセリフを置いていった女の子を、剣が使えようと使えまいと、男なら守らないわけにいかないじゃないか。
(ユリアは他の異世界人ではなく、俺のなかにいる誰かでもなく、俺が守るんだ)
絶対、ユリアを英雄にする。すべての夢をかなえさせる。
そして、絶対に暗殺なんてさせるもんか――
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