「カエサル」な女の子との出会った
背中に何かが触れているのを感じ、やがてそれが緩やかに揺れる船の上だとわかる。頬をなでる潮風の感覚がむず痒く、それでいてどことなく懐かしい。
顔を照らす日の光、その温かさ、力強さ、そして眩しさ。
徐々に慣れて焦点がはっきりしてくる。空は青く、高く、雲の流れは早かった。
胸いっぱいに吸った空気が、潮の香りがするのにとても甘い。
「気が付いたのです。ユリア様! この男、生きてるのです!」
幼い少女の声がして、上体を起こした。見ればすぐそばにひざ丈の短衣を着た幼女がいた。黒い髪に黒い瞳だが、西欧系の典型的なローマ人の顔。まだ十歳くらいだろう。
そして、その言葉が日本語のように認識されているのに、その音が日本語ではないことに気づいていた。英語でもない。――ラテン語だ。
景色も聞こえてくる人の声も、もはやここが現代日本の上野ではないと告げている。先ほどの大立ち回りが思い出されたが、それも信じがたい。ケンカなんてしたことないのに。
しかし、ずきりと後頭部が痛み、何もかも現実であると冷酷にも告げていた。
(じゃあ何でさっき、あんなことができたんだ? 体育だって自信はないのに)
「目を覚ましたか」
幼女とは別の少女の声がした。
颯爽とした声。自信に満ち溢れていながら、自制された堂々とした品格とでもいおうか。それが女の人の声への評価でいいのかわからないけど。
「さっきは驚いたぞ。急に空から降って来て、私のむむ、胸に飛び込んできたのだから」
颯爽とした声の持ち主は、やはりあの金髪の美少女だった。
「しかも、あれだけの数の海賊相手に果敢に挑む姿、すごかった。傷一つないなんてどれだけ運が強いんだ。おかげで反撃の機会ができた。感謝している」
海賊たちのほとんどが、縄で縛られている。
周りにはローマ兵がそれらの男たちを厳しく見張りつつ、後処理をしていた。
そう、「ローマ兵」がいることも、なぜかわかるのだ。
「見たところ、怪我はないようだな」
そう言って微笑んだ金髪の少女は、短衣の上にさっきと違ってマントを羽織っている。
近くで見るとよくわかるが、同じ短衣といっても黒髪幼女のものとはずいぶん違う。身につけている肩当てや手甲にも細かな意匠が施され、マントをとめている右肩のブローチも細工がされていた。赤く染め上げられたマントのひだの一つ一つも計算されたかのように整っている。そして何より露出が多い。それが変にいやらしくなく、輝かしいばかりの美しさを際立たせる。一目でわかる。彼女はそうとうなおしゃれ好きなのだ。
それ以上に、着ている本人が美しい。
美しい髪飾りをした黄金色の髪が風に揺れる。
サファイア色の澄んだ瞳が楽しげな表情を浮かべていた。
透き通るような白皙の美貌には、おもちゃを見つけた子供のような笑みが浮かんでいた。
顔だちから察するに同い年くらいか。だが、大人びている。
歩くたびに豊かな胸のふくらみが躍動的に動いていた。
「ユリア様、気を付けないと噛みつくかもしれないのです」
幼女からずいぶんひどい言われようをしていた。そしてあの凛々しい少女はユリアというのか。ローマの女性ではよくある響きの一つだったように思う。
「大丈夫だよ、リヴィア」
凛然とした少女はまだ座り込んでいる俺のそばでふわりと片膝をついた。
「きみの名前は何というんだ」
問われて自然に自分の名前を、糸原聖也という名前を告げた。少女は「イトハラ・セイヤ……」と口のなかでその響きを転がしていた。どうやら名前まで勝手にラテン語化されているわけではないようだ。落ち着いて見てみれば、服は上野で着ていた学ラン姿のままだったし、そばには学生鞄もあった。
だから、改めて名乗り直した。「セイヤ・イトハラ」。名を先にしたのだ。
「セイヤ、というのか。うん、わかった」
少女は心をとろかすような親しみのある笑顔でうなずく。
「そうだ、私の名を言ってなかったな。すまない」
風が再び彼女の髪を揺らす。まるで彼女自身が一幅の名画のようだ。
「助けてくれてありがとう。私はユリア。――ユリア・カエサルだ」
少女の名乗った『カエサル』の言葉に、思わず息を飲んだ。
目の前で『カエサル』を名乗った少女は、そんな俺のことを面白そうに見つめていた。
少しでも面白いと思っていただけたら、ブックマークと☆の評価がもらえると嬉しいです。