ユリアの敵は、「日本語」を使える男
その日はさらに珍しいことがあった。何が珍しいって、ふたりしてピザを取り合っているときにユリアが男の人から声をかけられたのだ。
「これはこれは。どなたかと思えば、元老院議員ユリア・カエサル殿ではないか」
張りのある低めのいい声だった。わざわざピザ店内に入って来て声をかけてきたのは長衣を纏った男。白髪交じりの初老の奴隷を連れていて、長衣には元老院議員の証である赤い縁取りがあった。
二十代後半か、まだ三十歳は超えていないだろう。男のくせに長い金髪を後ろで結わえている。すらりとした立ち姿にはどころなく気品のようなものさえ感じさせた。
口元には薄い氷のような笑み。その目も冬の夜明け前のように冷たい。それらが色白の肌の整った顔立ちと合わさると、銀色のクールさを醸し出すから不思議だ。
ちょうどピザを一切れ新しくくわえた瞬間に声をかけられたユリアだったが、意外なことに急いで飲み下して口元を拭くと、わざわざ立ち上がって挨拶を述べたではないか。
「マルクス・ポンキウス・カトー・ウティケンシス殿、このような新参元老院議員にまで声をおかけくださるとは。ユリア・カエサル、感謝の思いに言葉もありません」
もとが美少女である。その上、当代随一とも思える洒落者である。礼に則った立ち居振る舞いをすると、これ以上ないくらいにカッコイイ。
ユリアがこのように礼を尽くすのだ。それなりの権力者なのだろう。
しかし、彼はこのパーフェクト・ユリアにまったく心が動いていないようだった。
「属州の報告も読ませていただいた。なかなかの観察眼だった」
「恐れ入ります」
男の視線がユリアの笑顔から俺の方に移った。男の動きが止まり、目が合った。
ほんの一瞬の出来事だ。
しかし、何だろう。この寒々とした感覚は。
間違えて他のクラスに入り込んでしまったような感じ。いや、それよりももっとひどい。
初対面なのに、ほんの一瞬なのに、分かってしまった。
この男は、心の底の底から俺を嫌っている――
「――ユリア殿はその放埓な性格を何とかすれば、まあ、モノになるかもしれんな。卑しくも、国家運営を司る元老院議員の一員なのだから」
「放埓とは、いやいや、手厳しい」
「いろいろな女性に声をかけたり、金銭面でも奔放なようだが、すこしはストイシズムを勉強するなりしたらどうかね? 最低限の衣服や雨に耐える生活は心身ともに鍛えるぞ」
「か弱い女の身なれば、そこは曲げてご寛恕を――」
「その心情がローマのよき伝統を腐らせないことを祈っている」
ユリア、よく耐えていると思う。氷の粒のような嫌味を笑顔で受け止めながら、自分のペースで振る舞っている。俺なら皮肉のひとつも言い返している。
「――おまえはいったい何をしに来たのだ。異世界人」「え……っ」
男が急に声をかけてきてびっくりした。頭が真っ白になる。ほんのささやかな言葉と向けられた視線が胃のあたりに氷塊のごとき重苦しさを突っ込んだ。
何も言い返せないでいると、それは単純にとっさの反応ができなかったにすぎないわけなのだが、男は後ろに控えている奴隷にひとこと何かを指示して店を出ていった。
俺も一応ユリアの隣りに立って見送ることにしようとした、まさにそのとき。
去り際にごく小さな声で、ユリアではなく俺だけに聞こえるようにつぶやいた。
「つまらない奴だ……」
心臓が止まりそうになった。
そのつぶやきは、たとえユリアに聞こえていたとしても何を言っているかわからなかっただろう。なぜなら男のつぶやきはラテン語ではなく、若干外国訛りがあるものの日本語だったのだから。
さっきの奴隷がユリアに「本日のお食事分はカトー様がお支払いになりました。どうぞごゆっくり」と述べ、主人のあとを追っていく。ユリアは愛想よく見送っていた。
「何なんだ、あの人は……」
奴隷が店から出てその姿が完全に見えなくなったところで、ユリアがその笑顔のまま向きなおった。訂正、目が笑ってないや。
「現在の元老院最大派閥を率いるマルクス・ポンキウス・カトー・ウティケンシス」敬称が略されている。ユリアが先ほど来の「営業スマイル」のまま、付け加えた。
「もっとも、多くの市民は裏では皮肉を込めて『小カトー』と呼ぶ」
「えっ!?」
俺が驚きの声を上げると、ユリアはここで初めてちょっと人の悪い笑顔になった。
「その驚きぶりから察するに、セイヤのいた世界でも小カトーは有名なのかな?」
「ま、まあね」
俺の、日本にいたときの知識について、ユリアがストレートに聞いてきたのは初めてだった。あの男について、気になることが特別あるのだろうか。
「ふーん。どんなふうに有名なのだ?」
「あー……ローマを侵略しようとしたカルタゴを破った大カトーの子孫としてだけど」
「ふーん」
ユリアはにやにやと俺の顔中を観察したあと、俺の首にガシッと腕を回した。
「まあ、いい。何となくこの辺のことを聞くのはタブーというかルール違反のような気がするから、この辺にしておこう」
「そ、それは、どうも」
ユリアの豊かな胸の柔らかさが、たゆんたゆんと傍若無人に後頭部に広がっていますけど? 風呂上がりの甘い香りが、吸う息にいっぱいになってますけど?
でも、ユリアの奴、いまの答えが「ウソ」だと見抜いている気がする。
先ほどの日本語の件もあり、動揺していることは事実だけれど、歯切れ悪くなったのはそれだけではない。
小カトーは『カエサル』の政敵としてのほうが歴史上はよほど有名なのだ。
「だがな、セイヤ。覚えておいてくれ」
ユリアの胸がこれ以上ないくらいに押し付けられ、俺がこれ以上ないくらい心臓ドキドキになったところで、さらにその美貌を耳元に近づけて、ユリアがささやいた。
「――あの小カトー、このユリア・カエサルの当面の敵だ」
「えっ――?」
理由を聞く前に、ユリアはパッと俺を解放し、いつもの朗らかな笑顔に戻っていた。
「どうした、セイヤ。顔が真っ赤だぞ。遅くなるまえに残りのピザを食べてしまおう」
ユリアが俺の手を取って席に戻る。女の子らしい小さく柔らかい手。しかし、この小さな手が間違いなく、『英雄カエサル』の手なのだ――
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