ユリア・カエサルのお母さんに泣きつかれる
ユリアはローマに戻った。
彼女にとっては「戻った」なのだが、俺は日本にいたときもローマに行ったことはなく、ローマに「行った」または「来た」になる。まあ、どちらでも大差はないのかもしれない。
何しろ、すべての道はローマに通じているのだから。
「やはり、生まれ育ったローマは落ち着くな」ユリアは晴れやかな顔をしていた。
「ここがローマなんだ……」憧れのローマ、感動っ。
「石畳の道、きれいっ。整然としてるっ。ガデスの比じゃないっ。さすが首都ローマっ」
「セイヤはローマに来るのは初めてなんだな」
「うん。すっげぇ建物の数っ。向こうのが上下水道っ!? マジで三重橋なんだっ」
この時代にこれだけ巨大な上下水道を備えていたのだから圧巻だ。
ユリアは俺に対して、自分の持ち物のようにローマを自慢していた。
「あっちに見えるのがカピトリーノの丘。ユピテル以下、ローマの神々を祀っている聖地だ。もちろん女神ディアナも祀られている」
「おおっ」
「向こうがパラティーノの丘で、昔からの高級住宅地だ」
「うおおっ」
「そして丘に囲まれるようにある平野部分がフォロ・ロマーノ。元老院議事堂などがあるローマの中枢だ」
「マジかよっ!? あれが本物の元老院議事堂かよっ」
周囲の建物はかなり高層の住宅が多いんだな。
「ローマは、もともと七つの丘の上に住んでいた部族たちから建国されたんだ」
「ああ、聞いたことがあるぜっ。丘の上のほうが水はけも日当たりもいいということで、自然、そちらのほうが高級住宅街となったってやつだろっ?」
「よく知ってるな。それで、丘の下のほうには所得の低い層や、新しくローマにやってきた者たちが住むようになっていったんだ。我がカエサル家もその口だ」
我らがユリアの家だがフォロ・ロマーノに続くスブッラという庶民街にあるという。いわゆる昔からの名家ではないためらしい。
「ユリア様の家は、れっきとしたお家柄なのです。スブッラに住んでいるからといって、貧しいわけではないのです」ぺったんこは元気だった。
スブッラはにぎやかだ。いろいろな物売りの声やその他、俺には何だかよくわからない露天商や店の売り買いの声がしている。アメ横みたいな感じが近いかもしれないが、もっと雑然としていて、パワフルな印象を受ける。
「肌の色も髪の色も、本当にいろんな人がいるんだな」
「ああ、この半島近辺はもとより、ガリア人やエジプト人、東方のギリシャ人もいるからな。ただし、髪の色がオレンジの女には気をつけろ」
「何でだい?」細い路地辺りにときどきいるじゃないか。
軽く尋ねたのだが、ユリアは真っ赤な顔でうつむき気味になった。
「そういう髪の女は、しょ、娼婦、だからだ」
視線をさまよわせながら、ユリアが小声で言った。聞いた俺の方が恥ずかしくなる。
「せせせ、セイヤは真っ昼間っから何を聞いてくるんだっ」ぽかぽか殴られた。
「痛い痛いっ。そっちが振ってきたんじゃないか」
「セイヤがローマは初めてだからって言うからっ。……セイヤのバカ」
幸いリディアは町の喧騒のおかげで俺たちの声は聞こえていないようだったが、いろいろ気恥ずかしさがピークだった。
「あ、でもさ」と、恥ずかしさから逃れるため、日本での「古代ローマ」の知識を総動員した。「オレンジの髪だけじゃなくって、青い髪の人も、そういう人なんだよね?」青い髪の女性も何人か見当たるけど。
すると、ユリアがぎょっとした顔で俺の顔を見た。
「何言ってんだ、セイヤ。青い髪の女がそういう人だなんて言ったら、執政官のキケロに殺されるぞ。しょ、娼婦の髪の色はオレンジだけと法律で決められている」
やっぱり細かなところで、俺の知識とはズレているらしかった。
「ここが私の家だ」
賑やかな店の一角、正確には店と店の間の通路にある扉をユリアは指さし、馬を下りた。
「ああ、ユリアちゃん、お帰り。どうだったい、スペインは?」
「帰ったかい。お母さんが朝からそわそわしていたよ」
片方は布を売っている店、もう片方は木製品を売っている店のようだった。
「ただいま。おじさんたちも元気そうだね」
「おや、お婿さん連れてきたのかい?」「これは一大事だ」「ななな……っ」「何言ってるのです!」店主たちの軽口にユリアが赤面し、リヴィアが激昂していた。
商人特有の元気の良さに当てられていると、ユリアが俺を促して奥の扉を開いた。
ひんやりした空気が、街の喧騒で火照った肌をなでる。
「家の前を店舗にして貸している。この辺りの家ではどこでもやっていることだ」
扉一枚隔てたからと言って、街の賑やかさがすべて消えるようなことはない。
「壁は厚いのだがな。私としては物売りの声がないとかえって落ち着かないくらいだ」
ユリアが冗談めかしている。そういう上目遣い、すっげえかわいいからやめてほしい。
門番役の歳を取った奴隷にユリアがあいさつすると、老人は目を潤ませて出迎えた。
壁にはモザイクや絵の具で、いろいろと絵が描かれている。色彩感覚もおしゃれだった。
「母上、ユリアです。属州から戻りました」
ユリアがマントを外しながら呼びかける。リヴィアがそのマントを受け取り、小走りで家の奥へ消えていった。
ユリアに言われるままに家のなかにずんずん来てしまったが、よかったのだろうか。
よくなかった、と言われても行くところもないから、困ってしまうけど。
ユリアがさらに奥へ案内してくれた。
「何しろ、神々に祈りを捧げてセイヤをこちらの世界に呼んだ張本人だしな」
「そう言われると、何とも複雑な思いがするね」
紹介されたユリアのお母さんは、気品のあるご婦人だった。顔だちは親子だけあってユリアとよく似ているのだが、快活なユリアと比べると知的な雰囲気が強い。
ユリアがお母さんに帰還の報告をすると、お母さんは娘をぎゅっと抱きしめた。
「おかえりなさい、ユリア。ほんとうにご苦労さまでした」
母子はともに目に涙をためて見つめ合い、言葉を交わしあっていた。
しばし感動の再会の時間を持ち、ユリアはそのお母さんのそばに腰を落ち着けた。
ユリアのお母さんはあらためて俺の顔を見ると、やさしげな微笑みを浮かべた。
「初めまして。ユリアの母のアウレリアです」
アウレリアさんに手招きされて、正面の椅子に座る。リヴィアが人数分の飲み物を用意してくれた。ユリアのお母さんか。緊張する。
しかし、アウレリアさんの話の内容にあまりにも驚いて、緊張も吹っ飛んでしまった。
「あなたのように異世界から招来された方というのはローマの歴史上、何人かいます」
有名人もいれば無名人もいたという。無名といっても、その異世界人がそばにいた人物はローマの歴史になくてはならない人物がほとんどだったという。
その論理で行くと、俺がいることでユリアはローマの歴史になくてはならない人物と判定されることになるのかもしれない。未来については言わないつもりなのだが……。
しかし、娘のことになるとアウレリアさんは豹変した。
「ユリアはごらんのとおりのおしゃれ好きなだけで、借金ばかり作ってくるドラ娘。そのくせそのお金も、かわいい女の子やきれいなお姉さんを見かけると、ホイホイと贈り物に費やしてしまい、そのために新しい借金をこさえてきて、いまでは押しも押されもせぬローマ史上最高の借金女。はっきり言って、穀つぶしです」
アウレリアさんが一気にまくし立てた。ユリアが「あ、あの、母上、それは、少しひどいのでは……」と小声で抗議したがアウレリアさんは無視。
世を儚む母の嘆きは尽きない――
「私は神々に祈りました。ええ、そりゃあもう真剣に。三日三晩、食事を一切断って」
真剣だったんだな。でも三日三晩の祈りで、人生まるごと異世界に飛ばされた俺は割に合っていたのかいないのか……。
「そして、あなたが遣わされました。魔術師だと聞いていましたからそうなのかなとも思いましたが、あなた、あまり体を鍛えていませんね」白熱したら俺にも容赦がなかった。
「でも、それでも――」
アウレリアさんが俺をじっと見つめる。その目に涙が浮かんだ。
「あなたが来たことによって、娘がローマの歴史に名を残すような偉業を成し遂げるとは、母である私には、全然思えません。はっきりと言っておきます。全然思えません」
大事なところだったんだろうな。二回言ってる。
「ただ」と、アウレリアさんは付け加える。
「どうか……、このバカ娘を……、ううっ……少しでもまともな人間に……」
涙ながらに懇願されてしまった。どうしよう。
いやいや、俺はユリアを英雄にするためにディアナに送り込まれたのだから、やるしかないんだろうけど。ユリアだって、昨日は心に期するものがあったわけだし。
あなたのお嬢さんはローマ最高の英雄となるのですよ、と教えてやろうか。
いや、そんなことを言ってもダメ娘としてしか見ていない以上、聞いてもらえないだろうし、逆に不審がられるだけだろう。
だが、とも思う。
これだけ娘のダメっぷりを嘆いている母親を見ていたら、別の可能性も考えられる。
ひょっとしてこの『カエサル』は、俺が思っているより、問題児なのではないか――。
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