第一話 血の鎖
最近、私の学校の女子たちの様子がおかしい。クラス一の秀才だった三島冴子の成績はどんどん落ちぶれ、独りぼっちでいつも沈んだ顔をしていた桐野和沙は今は独りを楽しんでいるかのように明るい顔をしている。しっかり者のソフト部のキャプテン、桂桐子は急にだらしがなくなり、クラスで王国を築き上げていた佐伯沙知は、あんなにいた取り巻きと絶交して今は独りだ。でも、皆、どこか穏やかで幸せそうな顔をしている。きっと、最近噂のヴァーチャルオンラインゲーム、『ダークネス・キャプチャー』だ。きっと、皆、願いを叶えてもらったんだ。いいな。私もインストールされていないかな。どうして私のヴァーチャルゴーグルにはインストールされていないのだろう。皆の願いなんかよりも私の願いの方が大切で重いのに……。
私は妹のことが大好き。毎晩のように続く両親の喧嘩に脅える私は妹がいなかったら耐えることができなかっただろう。私にとって妹はたった一人のかけがえのない家族だ。私には妹さえいればいい。もしも、妹が世界を滅ぼそうとして、人類が生き残るには私が妹を殺さなければならないとしたら、私は世界の滅亡を選ぶだろう。それくらい、妹のことが好き。この好きはきっと、ただの家族愛を超えた好きなのだと思う。だって、妹といるとドキドキする。妹の声、妹の感触、妹の身体、その全てに私は信じられないくらいの苦しさと喜びの混じった奇妙な胸のドキドキを感じる。私は永遠に妹と一緒にいたい。妹と超えたい。何をって……。それは、あなたとあなたとの境界。その境界を超えてしまって一つにぐちゃぐちゃに溶け込んでしまいたい。私は妹に妹は私にしてしまいたい。きっと、妹もそれを望んでいるはずだ。
でも、駄目だ。私と妹の境界には血の鎖が引かれている。私たちが姉妹である以上、私たちは家族以上の関係になることはできない。だから、私の願い。それは、この血の鎖を断ってしまうこと。
私はある日、校舎の裏で妹が知らない男と唇を合わせているところを見つけてしまった。唇を離したあと、妹は真っ赤に頬を染めて少し俯いた。男と妹は長い間、何も話さないで互いに目をそらしていた。妹の表情ったらない。とても嫌そうな顔だった。私は男に対し、強い怒りを感じ、男の方につかつか歩み寄り、男の頬を強くひっぱたいた。
「ねえ、あんたさあ、どこの馬の骨だか知らないけど、私の妹が嫌がってんじゃん。無理やりキスするなんて、私、許せない。どうしてくれようか。私の妹に無理やりキスした気持ち悪いレイプ魔って噂を流して社会的に殺してあげようか」
男は怯えた目で私を見る。
「あの、ご、誤解です。お、俺と美智代さんは付き合っていて。このキスも美智代さんからお願いされたもので……」
男は情けない声で震えながら言った。こういう男というのは弱そうな女の子にだけ強気でいられる。情けない。こんな男に妹の、私だけの唇を奪われたことがどうしようもなく腹がたった。
「私の妹は優しいから、あんたみたいなモテなさそうなクソ男にキスしてほしいって土下座でもさせられたら断れないよ。最低だね。妹の優しさにつけこんで、キスするだなんて」
「葉月先輩、私がキスしてほしいってお願いしたんです。本当です」
妹が泣きそうな顔でそういったものだから私は悲しくなった。どうして妹はこんなクソみたいな男を庇うのだろう。傷つけられたのは妹の方なのに……。
「お前、女に庇われて情けねえと思わないのかよ。さっさと失せろ!」
私が男に怒鳴りつけると男は逃げるように去っていった。
「葉月先輩、本当に違うんです。本当にあの人、河野文昭は私のカレシなんです」
妹は学校では私のことを葉月先輩、と呼ぶ。しかも敬語で。妹は隠したいのだ。私に対する恋心を。私に敬語を使うことで私の恋心を押さえつけたいのだ。だって、近親相姦は神様にしか許されない禁忌だもの。そんな妹のいじらしさに私はキュンとなる。私は妹のためにも『ダークネス・キャプチャー』で願いごとを叶えたい。
「私、河野君のことを想うと電気がつむじから脊髄を通って、くるぶしに落ちていくようにビリビリってくるような、そんな感じがするんです。私、きっと、河野君が好き。葉月先輩、河野君を認めてください」
私は妹が「河野君」と甘ったるい声で言う度に苛々した。妹のその声は私だけのもののはずだ。あんな男のものにしていいはずがない。妹はどうやら河野に恋をしていると勘違いしているらしい。あまりにも私のことが好きすぎるから、私との恋愛は決して実らないという現実に絶望して河野とかいう男で自分の寂しさを紛らわそうとしている。妹は私への恋しさゆえにあの男に恋をしたのだと思いこんでしまったのだ。可愛そうな妹……。私はなんとかして妹を助けてあげたい。そのためには戦わければいけないのだ。
「姫、入るよ」
私は妹が風呂に入っているところに混ざろうとする。浴室への扉には鍵がかかっているが、そんなのは関係ない。なぜなら、浴室の鍵を私は持っているからだ。私は鍵を開けて服を脱ぎ、風呂に入る。妹は私を見ると恥ずかしそうに身体をくねらせる。
「姉ちゃん、入ってこないでよ!」
私は知っている。これは拒絶ではないと。昔は私と妹はいつも一緒に風呂に入っていた。しかし、小五くらいだったろうか、妹が初めて私と一緒に風呂に入るのを嫌がった。それでも無理を言って風呂に入り込むとその理由がわかった。妹の股に毛が生えていたのだ。これは年頃の女子によくある自分の身体が変化していくことへの戸惑いと恥じらいなのだ。
「そうはいかないよ。これは姫のためなんだ。姫が本当にあの男に乱暴されていないか、確かめなくちゃいけない」
私は妹の白い肌をくまなく見る。
「何もないでしょ」
妹は言う。何もない? 妹の身体にはあの男の臭いがびっしりこびりついている。何もないはずなんてない。妹は汚されてしまったんだ。綺麗にしなければいけない。私は妹の身体を舐める。これだけが妹を汚い男から守る手段なんだ。私の愛情で妹をコーティングしてあげるんだ。
「やめてよお姉ちゃん」
妹の身体が私の愛情で満たされる。妹は嬉しくないはずがないんだ。だって、嬉しいのだから。
「姫はあの男のことなんか、全然、好きなんかじゃないんだよ。姫は寂しがりやだから、あの男のことが好きだと思いこむことで自分の寂しさを紛らわそうとしているんだね」
姫は何も言わなかった。言い返せるはずがない。だって、私の言うとおりだもの。私は最後に妹にキスをする。
「あんな男のキスよりも私のキスのほうが幸せでしょ?」
夜は私たちは一緒に寝る。お互いに抱き合ってひしと互いの存在を確かめあって。夜も更けると両親たちの怒声が響き渡る。私と妹が生まれてから続く日課だ。試練は私と妹が唯一無二の存在であることをより強く感じさせてくれる。両親の喧嘩も私たちの愛情を深めさせてくれるスパイスに過ぎない。
「お姉ちゃん。怖いよ。怖いよ」
妹は私の胸に顔を押し付ける。いつもは私への愛情を隠そうとするのに、このときだけは、妹は私の妹だった。
このときが永遠に続けばいい。でも、私はこのときが長くは続かないということは薄っすらと感じていた。永遠に妹と一緒にいられるにはどうしたらいいのだろう。結婚……。でも、私たちの血が繋がっている以上、どうしようが結婚などできはしないのだ。
それは、うだるような暑さで、蝉の声ばかりがした夏の日だった。両親の離婚が決まった。私は全身から血の気が引いていくような感じがした。私と妹が家族ではなくなったら私と妹を結びつけるものは何もなくなってしまう。……何も!
しかし、両親の決定を私がどうこうできるものではない。私が恐れていた妹との別れの予感はこれだった。
『ダークネス・キャプチャー』、私の救いはこれだけだ。私は自分の部屋に入り、ヴァーチャルゴーグルを装着する。OS起動。今日の起動時間はかなり長い。「ソフトウェアの更新」とゴーグルには映し出されている。私は待っているうちにかなり強い期待感に胸が苦しくなってくる。更新が早く終わってほしいという気持ちと更新が終わって、結局、『ダークネス・キャプチャー』がインストールされていない現実に気付かされる絶望感。
そして……。私の眼前には『ダークネス・キャプチャー』の世界が広がっていた。
都市伝説ではなかった……。私はとうとう救われるのだ。
『ダークネス・キャプチャー』の世界は無音でぴりりとした空気が肌で感じられた。おかしい。私が見ているのはゴーグルのレンズに映し出された映像に過ぎないのに『ダークネス・キャプチャー』の世界の空気や香りが私の五感を通じて感じられる。その世界は薄暗くて、剥がれたテクスチャのようなものが漂っている。とても荒廃している。ヴァーチャルゴーグルのOSのバグにでも遭遇したかのようだ。しかし、それをバグではなく、『ダークネス・キャプチャー』であると認識できるのは、私の視界の端っこに「Darkness capture ver.2.0」の表示があったからだ。
私が『ダークネス・キャプチャー』の世界を歩いていると人とすれ違った。
「ねえ、知ってる? 『ダークネス・キャプチャー』の世界で勝ち続けると自分の願いが何でも叶うんだって」
その人は私に話しかけた。
「知ってるよ。都市伝説だと思っていたけど、まさか本当だとはね」
私が返すとその人はニヤリと笑って「負けると自分の願いがなくなっちゃうんだって」と言う。
「私には関係ないね。だって私は負けることがないだろうから」
「じゃあ、始めよう。バトルスタートだ」