駆け引きにつぐ駆け引き
義渠による陽動作戦が始まった頃、屈平は同盟軍が設営した幕営本部にいた。
幕営本部は函谷関から徒歩3日――指呼の間だ。
楚は同盟軍の盟主となった。そのため鯨王は帷幕を巡らした幕営に静座していたが、軍略には疎い。
そのため兵法に詳しい屈に全権が委任され、彼が陣頭指揮を執っていた。
楚軍はまだ準備中であったが、参加各国の集結は順調に進んでいた。本部周辺では仮説の通事司(通訳センター)や駅伝司(情報センター)が設けられ、数多くの早馬や伝令が慌ただしく往来していた。
本部近くの宿営地には続々と刀槍矛戟が集められた。魏・趙・韓・燕、各国の矛戟はそれぞれ形状が異なる。その差異が各国が経た歴史を語っていた。
咸陽攻略のために中原最大の攻城弩が登場した。十六頭の大牛が牽引する木造構造物は重さ20トン。その巨体を軋らせて出現した勇姿を見て、士兵から響めきが上がった。
兵備はそれだけでない。投槍・弾弓・大斧は勿論のこと、攻城戦で威力を発揮する石礮(ほう・投石機)も最新のものが用意された。
装備調達は順調に進んだ。しかし兵隊の準備はトラブルが多い。中心となる魏・趙・韓の三軍はもともと反目しあった宿敵同士である。
それを統率する総大将は言葉も通じない異国の鯨王であり、どれだけ忠誠を尽くせるのか疑問であった。
しかも兵士間も方言が強く言葉が通じない。文法から異なる。そのため状況説明や報告にも通訳がいちいち楚語に通訳しなければならない。
少年時代に語学の英才教育を受けた屈平は、各地の方言を巧みに使い分けて統率を図ったが、更に問題が発生した。「文字」が読めないのである。
この時代、中国ではまだ全国に共通する「漢字」は存在しない。戦国時代の中原はそれぞれ独自の「国字」を使用していた。そのため、通信連絡に使用する文書も一々「文字」を翻訳せねばならない。
そのため通訳や翻訳が必要であるが、その数が少ない。しかも共通する指揮系統がなく、伝令一つにも手間がかかる。
宿営地出発まであと5日となった。
同盟各国の兵が集結する中、二つの国の兵隊が現れなかった。
一つが齊である。督促使が送られたが、齊は「城門が閉められたまま」という。よし!齊は本性を現した。屈は動じなかった。
彼は逆に予定を3日早めて函谷関への攻撃を発令する。齊の引き延ばし作戦を逆手に取ってやるのだ。
しかし、意外なところで屈平は足をすくわれた。
兵が現れない国のもう一つは、なんと楚であった。
楚が同盟軍の盟主に推挙されたと知ると、屈平不在の楚では不穏と憶測が広がった。
不吉な予感は楚王嫡男の死である。
生まれつき障害のあった鯨王の嫡男が窒息死した。玩具を喉に詰まらせたという話だ。
薨去した嫡男に代わり、太子として次男の子蘭が推挙される。すると子蘭は突如、参戦反対を表明した。
思い当る節があった。これは楚の特殊な国内事情である。
楚の版図は大きい。しかし人口が少なく、未開の民が多い。そのため広大な国土に散らばる名族が国を支えていた。
盟主が楚となれば、秦が楚を攻撃するのが当然の成り行きだ。そうなれば最初に殺されるのは秦との国境付近を拠点する名族である。
そのような危ない橋を渡るよりも、この時点で秦に服し、秦王の幕下に入る方が賢明であると判断したのである。
急遽楚に帰国した鯨王のもとで開かれた議論は紛糾した。鯨王が最も恐れたのは楚の地形を敵に知られることである。
楚の極めて複雑な丘陵地を形成し、天然の迷路となっていた。しかし現地の地形に詳しい名族が秦と手を結ぶと、河川山谷の極秘情報はそのまま秦へ報告される。
楚廷での会議は17時間続けられた。時には名族の一部が秦への寝返りをほのめかす一幕もあったが、結局「楚王は盟主となるが、楚軍は同盟軍に参戦しない」という譲歩案でまとまった。
内部崩壊を避けるためには致し方なかった。
鯨王は楚から本部に帰還し諸国に報告する。居並ぶ将僚はそれぞれに苦悩の表情を浮かべた。
屈は溜息を吐くと、踞牀に腰を下おろそうとした。
その時である。遠くから伝令が司令部に転がり込んだ。
伝令の声は飼鳩使である。「今、義渠から届きました。」
厳封された帛牘を繙くと、たった五文字記されていた。
――我レ誘因成功ス。
屈は膝を打って立ち上がり、胸を張った。「撃滅の神機到来せり」
義渠の陽動作戦によって秦の精鋭の牙軍は、今まさに北に吸い上げられつつある。しかもその数は20万。
つまりこれから2週間は、秦国内には我々に対抗できる戦力はたった10万に過ぎない。
かくして宿営地に集結する同盟20万の軍勢に対して、屈平の号令が発せられた。
天祐ヲ確信シ全軍突撃セヨ
方々で出撃の軍鼓が響く中、同盟軍は秦への攻撃に出発した。