エピローグ
この物語の主人公は、遂にいなくなった。
残るエピローグでは、ではこの主人公が書いた作品が、その後どうなったのかを紹介して終えることとしたい。
彼の死後、作品は徹底的に隠滅された。そして著者も、その作品も筆記することが禁止された。
そして数百年の年月が過ぎ、時代は代わった。
楚の滅亡後、秦が天下統一したが、項羽に滅ぼされる。その項羽は漢軍に殺され、前漢は新に、新は後漢に滅ぼされた。
度重なる王朝入れ替わりの中で、彼の名前も、その作品も忘れ去られてしまったかに見えた。
しかし、彼の作品は密かに生き続けていた。それは楚の民衆の間で400年間あまり口伝えに伝承されていたのである。
「 」の作品は、楚の土俗信仰や庶民生活、社会風習を題材とし、楚の人なら誰でも口を突いて出る民謡や祝詞の調子が取り入れられているため、リズミカルで口当たりがよい。
そのため作品は楚の人々の琴線に触れることとなり、彼等の胸に深く刻み込まれる。当時の楚人は言葉を神秘的な働きをするものと信じていた。
この言葉に宿る霊力を信じる言霊信仰も『離騒』諳誦の普及に貢献する。そして世代を越えてその口伝が受け継がれてゆくなかで、楚人の言霊は中原の人の心を鷲掴みした。
当時の中原は単調質朴な民謡しかない。それに慣れていた中原の文人は、楚の空想的、情熱的で浪漫溢れる口承文芸の魅力の虜になった。
楚の人に聞いてもこの作者は分からない。そのため中原ではこれを楚の歌――楚辞と呼ぶようになる。
そして中原の風流人は競って楚辞を謡唱し始めると、独自の辞の創作を初めるものが現れ、漢の武帝もその熱狂的な愛好者となった。中原の皇帝が蔑んでいた夷戎の文学に一目置き、官庁に楽府を設けて、これら各地の民謡を採集整理させるようになる。中原での楚辞の流行は400年にも及び、後の漢詩の源流ともなった。
後日談:
楚辞の作者が再発見されたのは200年後である。発見者は『史記』を編纂した司馬遷である。
彼は楚王族の歴史を調べる中で不自然に記録が少ない時期を発見した。子蘭によって湮滅しあるいは隠匿された時期である。
司馬遷による入念な調査でも、情報は断片的なものにすぎず正確な記録は殆ど残されていない。屈平という人名が湘水で死んだということのほかは。
司馬遷はこの断片的な史料から、屈平の過酷な生涯に思うところがあったのだろう。
「彼は、泥まみれの殻から脱けだした蝉のようなものであった。彼は塵や埃にまみれた世の中から脱けだし、一片の塵も纏っていない。」と『史記』で評している。
司馬遷から更に200年後、後漢の学者の王逸は、楚の口承文芸が、特定の創作者によって作られた文学作品であったことを発見した。
彼は各地から楚辞の記録を集め、ようやく屈平が獄中で書いた作品の一部を発見、彼がそれを『楚辞章句』という作品集にまとめた。
屈は入水したのは紀元前278年、彼の文名が再評価されるのには、実に398年も経過していた。




