第7章
その後、公判を重ねるごとに、色々な事実が明らかになっていきました。
といっても、それは公判と公判の間の水面下で起きていた出来事で、ローランド・黒川氏や二階堂涼子ら、クロスハート法律事務所のスタッフたちが入念に調査した結果としてわかってきたことであって――まだ裁判で表沙汰にできる情報は少なくはあったのですが。
「秀一くん、事件の調査が進むにつれて、だんだん凄いことがわかってきたよ。やっぱりこれは仕組まれた陰謀なんじゃないかという気がする。二階堂京子と安達紗江子は元同僚で、特殊捜査班で同じチームとして動いていたことがある。もっとも、事件の捜査内容等については極秘事項ということで教えてもらえなかったけどね……安達紗江子も優秀な捜査官だったそうだが、南朱蓮との結婚を機に退職したそうだ。ちなみに南朱蓮と二階堂京子の出会ったのが、ふたりの結婚式でのことらしい。紗江子と京子は同じ同性愛者として、またチーム内での気の合う仲間としていい先輩・後輩の間柄だったそうだ。安達紗江子が特殊捜査部にいたのは約三年……主に情報分野のアナリストとして活躍していたそうだが、場合によっては現場に出ることもあったらしい。それで、紗江子がかかっていたクリニックを南朱蓮に聞いて訪ねてみたんだが、彼女が悩んでいたのは主に男性恐怖の症状のことだったようだ。だが、そのメンタルクリニックのほうにかかりはじめたのが今から十年も昔のことなのに、症状のほうは軽減するどころか重くなっていったということだった。いや、この件については彼女が殺されたこととは直接関係がないから、飛ばすことにして――精神科医から見せてもらったカルテに、安達紗江子がある秘密の地下組織のメンバーだとの記述が残っていた。どうも特殊捜査部の仕事を辞めたのもそのことと関係があったようだ。情報分野のアナリストとして、自分が知りうる情報を必要に応じて組織へ流し、また、地下組織のメンバーが捕まるような際には陰でこっそり逃がすといったようなこともあったらしい。その後、紗江子は後輩の二階堂京子にこの役割を託し、自身は退職したというわけだ。そして、この<トリニティ>と呼ばれる地下組織と関わりのあったふたりがともに殺された……しかも、犯行のほうはどう考えてもプロとしか思えない手業だった。秀一くん、君はこのことについて何か、京子さんから聞いていなかったかい?」
「えっと……わかりません。それでいくと、俺が思うに――南朱蓮さんもその<トリニティ>という組織の一員っぽい気がするんですけど。でも、事が事なだけに、正面切って『あなたもあなたの妻の安達紗江子も愛人の二階堂京子も、ある地下組織のメンバーなんですよね?』なんて聞いても、『はい、そうです』なんて答えてくれなさそうですよね。でも、ということは、黒川さんは京子も紗江子さんも地下組織の人間に殺されたと考えているということですか?」
実際のところ、その地下組織のメンバー云々といったことを聞いたのは、京子の名前を名乗っていた頃の涼子の口からでした。ということはこの場合、涼子もまた彼女たちの仲間だったのではないかと思われるのですが、秀一には「涼子に聞いてみたらどうですか?」とは言えませんでした。たとえば、宗教についてなど、ある特定の組織に所属しているということを周囲に知られたことで、その後職場で働きにくくなる……ということがあってはいけないと思ったからです。それに、京子と安達紗江子のふたりが殺害されたことから見ても、相当キナくさい組織ではないかと思われましたし、そんな組織はやめたほうがいいのではないかと秀一は思いました。けれども、今自分と涼子とは接見禁止の状態にあり、そうしたことについて具体的に話しあったりすることが出来ないというのが問題でした。
「それはまだわからない」
透明な間仕切りの向こうにいるローランド弁護士は、思慮深い様子で一度口を閉じたのち、続けました。
「むしろ、その逆、ということもありうるのではないだろうか?その<トリニティ>という地下組織のメンバーが一体何人いるのかもわからないが、どうもA.Iによる世界支配を危惧する、元の母体は人権団体らしいんだ。もっとも、それもまた隠れ蓑ということなのかもしれないが……まあ、この接見室にいる刑務官だってアンドロイドだし、検事や刑事を手伝うアンドロイドの取調べ官や捜査官だっているからね。日本のマザーコンピューターの<サクラ>は、情報検索によってそれらのうちのどのA.Iとも接触して操ることが出来る……というのがネットの噂話なのか、本当なのかは僕にもわからない。けれど、そう考えた場合、日本にはこの<サクラ>の目から逃れられる場所がほとんどないという気はするよね。だから、このマザーコンピューターが昔からSF小説によくあるみたいに、暴走したら国や世界が滅ぶということに繋がる……っていうのは、今もよく議論されることだし。もっとも、政府の見解のほうは、「そんなことはありえない」っていうことなんだけど、ほら、日本ではその昔、2011年に福島の原発がメルトダウンして、原子力安全神話が崩れたじゃないか。それと同じことがマザーコンピューター<サクラ>にも起きるんじゃないかっていうことは、よく言われてるよね」
「それで、南朱蓮さんのほうには……?」
ローランド・黒川は容姿が格好いいだけでなく、性格も温情的で優しい人柄なのですが、あまりに頭が良すぎるためか、よくまったく関係のない話を引き合いにだすことがありました。そしてそういう時、秀一はそれとなく本筋のほうに話を戻さなくてはならないということになります。
「もちろん聞いたよ。奥さんの紗江子さんと恋人の二階堂京子がそうした地下組織のメンバーであることを知っていましたかってね。そしたら、そのことは知っていたそうだ。だが、彼女自身はその地下組織とは関係してないって言ってたよ。もちろん、そう嘘をついた可能性もあるとは思うけど……そんな地下組織と関わっていられるほど、暇な部署に自分はいないということだったね。だけど、やっぱり僕はその組織に南朱蓮もまた所属していて――これはあくまで、僕の勘としてそう感じることなんだけどね、彼女は二階堂京子と安達紗江子を殺した人間、あるいは組織を知っている、あるいは心当たりがあるんじゃないだろうか」
「じゃあ、黒川さんは南朱蓮がなんらかの方法によってふたりを殺したかもしれない……という可能性は低いと思ってるんですね?いや、まあ俺も、もし彼女が長年恋人同士にあったふたりを直接じゃなかったとしても殺して、あんなに落ち着き払っていたんだとしたら、南さんのことをなんだか人間とはとても思えない感じがするけど……」
「そうだね。僕も同感だ。それで、先ほどの話の続きなんだが、<トリニティ>といった、A.I支配に反対するための組織というのは、日本国内に結構ある。だが、警察内部や政府の中枢にまで食い込み、コンピューターによる支配を阻止すべく監視網を巡らせているほどの隠された秘密組織というのは、その<トリニティ>という組織くらいなものなんじゃないだろうか。それで、マザーコンピューターのほうでは、そうした自分に逆らう勢力を見逃したり許したりすることが出来ず、極秘裏に組織に所属する人間を狩っているのだとしたら?」
「く、黒川さん……!!」
じっと微動だにせず、こちらを観察していたアンドロイド刑務官を秀一は思わず振り返っていました。その説でいくと、自分たちが今ここで話している会話でさえも、マザーコンピューターの<サクラ>が背後にいて、アンドロイド刑務官という『端末』を通して知るのは時間の問題ではないかという気がしたからです。
「そうなんだ、秀一くん。もしこの仮説が正しかったとしたら、君はこの裁判で勝てない公算が高くなるかもしれない。2009年に日本では裁判員制度が採用されたわけだけど、その頃は、裁判官三人と国民の中から選ばれた六人の裁判員とで審理が行われていた。そしてその後、2079年から裁判官三人と、国民の中から選ばれた四人の裁判員、それにアンドロイド裁判官の二人が裁判員として加わることになった。このことは、審理及び裁判の公平性のため、また、裁判員の心理的負担を減らすのに有効であるとして組み込まれたことなんだけど……まあ、アンドロイドがA.Iを駆使してどんな答えを導きだすかというのは、それはあくまで「参考程度」のことだとは言われている。何故なら、彼らは『情状酌量の余地がある』なんて裁判官が言った場合、その言葉が一体どんな判例で使われたかを検索し、そのすべてをデータとして読み込んで、何を『情状酌量の余地がある』というか、という、そうした物の捉え方なんだからね。ところが、アンドロイドは<平均的に人が好意を持つ>とされる顔で、ちょっと悲しみの表情を浮かべながら「わたしはこの件は、情状酌量の余地があると思います」なんて言うんだ。わかるかい?もし、<サクラ>が我々の裁判を担当するアンドロイド裁判員を操り、いかにももっともらしいロジックで、他の四人の裁判員をそれとなく説得するよう行動したとしたらどうなる?」
「そ、それは……」
(そんなこと、本当にありうるだろうか?)と思うのと同時に、(警察に捕まるような悪さを、自分のような人間は犯さない。だって俺は小心者だから)と思っていたにも関わらず起きた、青天の霹靂のような今回の出来事――秀一くんは、最後(いや、全然ありえなくない)と、そう結論を導きだしました。
「今話したようなことは、僕は最初から<サクラ>に聞かれるかもしれないということを前提にしゃべっている。例の地下組織の名前を口にしたのも、向こうではそうした組織があることや、所属しているメンバーの名前など、すでに把握済みだろうと思ったからなんだ。もちろん、その全員ではないにしてもね。だけど、その線でいくとひとつだけ僕にも腑に落ちないことがある。つまり、<サクラ>っていうのは善的で中立的で公平なコンピューターだと一般に認識されている。それに、彼女が導きだした『計算結果』というのも、今のところ概ね日本国民の全員が納得できるものばかりだよ。まあ、ネットには<サクラ>が国民が首を傾げる答えを出した場合は、政府の人間が修正して公表するんじゃないかっていう噂もあるけどね……でも、もし<サクラ>がある地下組織のメンバーを『自分に敵対するもの』と位置付け、今この瞬間もそのような人間を抹殺すべく動いているのだとしたら、それは「おかしい」ことなんじゃないだろうか。さっき僕が腑に落ちないって言ったのはね、そうした地下組織のメンバーを『自分に敵対するもの』として<サクラ>が狩る理由はわからないでもない。でも、もしそのためになんの罪もない善良な<一般市民>を有罪にしても<サクラ>がそれを計算ミスだと思わないなら――それは彼女が狂った二重人格者である可能性があると言えはしないだろうか?」
「…………………」
こうしたことは秀一にとって、あとで拘置所でひとりになった時に、じっくり考えるべき事柄でした。ローランド・黒川氏は頭の回転が早く、頭の中で考えたことがそのまま口から出てくるという感じなのですが、秀一はもう少し不器用でした。頭の中で考えたことが口に出てくるまでに……(本当にそれを言葉にしていいのか?)という作業に、若干時間のかかるタイプなのです。
「もちろん、まだ僕にも確信はない。南朱蓮に聞いたところで、今のところ話してくれそうな素振りは見られないしね……なんにしても、これから僕たちの間で、例の組織の名前は禁句ということにしよう。何故なら、<サクラ>はその組織の名前がネットの世界で呟かれていないかどうか、<端末>であるロボットやアンドロイドたちが耳にしていないかどうか、監視網を巡らせてるんだろうからね。さっき僕は三回くらいその言葉をつぶやいたから、それは回数としてもしかしたら多いほうかもしれない。だから、今回はもうこれ以上この話はしないけど――問題はね、こうした陰謀があるかもしれないなんて、裁判では言えないってことなんだ。そういう意味でも僕らは本当に不利だ。ある意味国家が敵みたいなものだよ。そして、もし<サクラ>が政府に表の顔としては正常に業務をこなしている裏で、そうしたことを行っているのだとしたら……これは、物凄く危険なことだと僕は思う」
このあと、次回の公判に向けての打ち合わせを秀一は黒川弁護士としたのですが、とても大事なことなのに、秀一は少し上の空なところがあったかもしれません。それでも、ローランドが帰る直前、秀一はこう言っていました。
「黒川さん……自分でもなんか、SF映画の見すぎっていう気もしなくはないんですけど、でも念のため気をつけて。だって、さっきの黒川さんの話が本当なら、小説や映画なんかじゃ、イケメン弁護士が車に轢かれたり、あるいはエア・カーに細工がしてあって墜落するとか……もしこれで僕、黒川さんに何かあったら、敗訴確定ですもん」
「ありがとう。もちろん、気をつけるよ。それに、もし僕に何かあったら、それはもうさっきの話が確定的なんじゃないかっていうことでもあるしね」
その後、ローランド・黒川弁護士は、交通事故未遂を起こすでもなく、あるいは飲み物に混ぜ物がしてあって下痢になるということもなく――<二階堂京子・安達紗江子殺害事件>の公判に立ち続けました。ですが、第五回、第六回……と公判を重ねていっても、秀一の容疑というのはずっとグレーゾーンのまま、疑いは晴れたとも、より濃厚になったとも言えないような形で推移していきました。
やはり、蛇尾田が第二回公判で提出した十体の<アンドロイド損壊事件>が桐島秀一に対する心証を悪くしているらしく、安達紗江子のカルテの一部を黒川弁護士が提示したことで――秀一の言っていることは正しいということのほうに傾いてはいたのですが、二階堂京子については、彼が現在は双子の妹と交際しているということで、そうなるまでの過程の供述を秀一・涼子のふたりがそれぞれ語ると……二階堂京子殺害については、彼らが共謀しているとの蛇尾田の指摘に、完全に反論できるほどの決定的証拠が何もありませんでした。
桐島秀一については、彼にはアリバイを証明してくれる人が誰もいなかったからですし、それは二階堂涼子にしても同じでした。ただし、涼子は安達紗江子が殺害されたとされる死亡推定時刻に、仕事に関係した人物と会っており、その飲み屋のバーテンダーが涼子の無実を証明してくれていました(ただし、涼子は飲んでいたというわけではなく、他の事件の証人となってくれる人物と会っていたのです)。
こう見てくると、二階堂京子殺害はともかく、安達紗江子については、秀一は白に近いグレーといったところだったかもしれません。ですが、二階堂京子については、黒に近いグレーといった心証が強かったように――傍聴席で、この事件の裁判を見続けてきたジャーナリストなどの多くはそのように感じていたようです。
もし、蛇尾田が証拠品のひとつとして、<アンドロイド連続損壊事件>のことを持ちだしてさえいなかったら……もしかしたら桐島秀一は無罪を勝ち取れる可能性もあったかもしれません。もちろん、その事件と<二階堂京子・安達紗江子殺害事件>とは分けて考えるべきことではあります。三人の裁判官については、もう長年の経験もあり、そのあたりの心証に左右されるということはなかったかもしれません。また、他の四人の裁判員についていえば、必要最低限のレクチャーは受けていますし、裁判官たちのほうでも彼らが公正でない意見に傾きつつあると感じた時には、その点を指摘して是正するよう努めてもいました。
ただし、一般に「裁判員の負担を軽減するため」に組み込まれたとされるアンドロイド裁判員――この二名については注意が必要だったかもしれません。というのも、彼らは過去の判例等に基づいて判決を導きだすことには長けているのですが、彼らのこの思考法でいくと、やもすれば検察側の意見に偏りがちだったからです(またこのことは、アンドロイド裁判員が試験的に組み込まれた7~8年後から、すでに問題視されはじめていたことでもありました)。
その後も、大体月に一度のペースで公判のほうは行われ……とうとう、裁判の結審する第13回目の公判を迎えるということになりました。この日、検察官・弁護人双方の主張が終わって終了すると、休憩ののち、裁判官と裁判員たちは「評議」に入る、ということになりました。この「評議」というのは、裁判官三人と裁判員四人、そして裁判を補助する立場の「アンドロイド裁判員(A.I裁判員とも呼ばれます)」二人が話し合いを持つことを言います。
評議は裁判長の進行で行われ、法律について必要な知識については、三人の裁判官、あるいは補助裁判官であるアンドロイド裁判員の二人が教えてくれます。事実認定については、裁判官と裁判員、それにアンドロイド裁判員の全員で対等に話し合い、意見交換を行うということになります。
全員一致で結論が出ない場合は、多数決で決めるということになるのですが、この場合、多数決で被告人を有罪とする時には、裁判官が最低ひとり以上は含まれている必要がありました。
ところで、「事実認定」というのは、まずこれは客観的に見て間違いなく動かしがたい事実だと裏付ける「証拠」と「証人」によって決められると言っていいでしょう。ただし、桐島秀一の裁判の場合、出廷した証人も少なく、実をいうとその後の裁判で出てきた唯一の確実と思われる物証が、実は桐島秀一の指紋がついた、9ミリ口径の拳銃でした。
それはべレッタ92という今は販売されていない古い拳銃であり、公判の第七回目に突然検察側から出された証拠の品でした。それはちょうど、二階堂京子と安達紗江子の住む場所の、大体中間地点にある雑居ビルの地下で見つかりました。そこは『煉獄』という名前の地下2階にあるクラブで、そこのトイレのタンクから突然見つかったという代物でした。
ちなみに、現在の日本、あるいは先進諸国の都市部では、無水洗浄トイレを使用している場合がほとんどです。けれどもそのいかがわしい界隈では今も、一部水洗トイレが使用されており――ビルのオーナーが無水洗浄トイレにリフォームしようとして業者を呼んだところ、そのトイレのタンク内からそのようなものが出てきたということでした。
この動かぬ証拠ともいえる証拠品の扱いは、実に難しいものがありました。検察官の蛇尾田は、言うまでもなく鬼の首でも取ったかのように居丈高にこの証拠品について語りだしたわけですが……そのあとのローランド・クロカワの弁護は、この突然の新証拠に動揺するでもなく、実に見事なものだったと言えます。
「何故、今になってそのような証拠品が出てきたのでしょう?『煉獄』というクラブは、住所から察するに、相当いかがわしい界隈にあるクラブですよ。被告人に罪を着せたい真犯人は、なんらかの方法によって被告の指紋を入手し、それを犯行に使った拳銃に転写したのです。確かにこの拳銃はサイレンサー付きですから、線条根が動かぬ決め手ではあるでしょう。ですが、被告人はこれまでずっと終始一貫して無罪を主張してきました。そんな場所にもし銃を隠したとしたら、いつか見つかるかもしれないと怯え暮らすことになりますし、最低でも指紋くらいは拭ってからどこか――もっと別の見つかりにくい場所へ隠しますよ。また、どうか忘れないでいただきたい。被告人は、安達紗江子の部屋で目覚めるまで、十二時間以上も記憶がありません。この間、彼を容疑者に仕立てあげるため、何か邪悪な計画が進行していたとしたらいかがですか?あなたたちは……その手で無実の人間を、それこそ煉獄へ落とすことで自分の手を血で染めるということになるのですよ!」
そして、まず「事実認定」についてですが、この拳銃の扱いについては、意見が分かれました。まず最初に<二階堂京子・安達紗江子殺害事件>について、事件のあらましを裁判長が最初に説明したのち、証拠品についてはやはり、この拳銃のことが一番長く話されました。
「でも、前にも言ったんですけど、こんなものが急に出てくるっていうの、おかしくないですか?俺はやっぱり彼って、誰かにハメられようとしているように思えるんだけど」
四名いる裁判員のうち、彼は二十七歳の<一般市民>でした。秀一と同じように、毎月大体のところ三十万円くらいの給付金をもらって生活しています。
「そうですね」と、裁判官のひとりが言いました。眼鏡をかけた、とても真面目そうに見える、38歳の女性です。「ですが、もちろんそうではない可能性もありますから、あくまで、立場としては公平性を保つよう心がけてください」
「私のほうからも、もう一度少し事件について整理してみましょうか」
裁判長の、こちらもとても真面目そうに見えるのと同時に、顔の表情に乏しい男性が、説明をはじめました。ちなみに年齢のほうは53歳で、奥さんとの間に双子の娘、それに双子の息子の四人の子供がいます。
「被告人、桐島秀一は、最初から終始一貫して無罪を主張しています。また、証拠品として事件に使われた拳銃が出てくるまでは、私も<二階堂京子>と<安達紗江子>の件は切り離して考えたほうがいいのではないかと言ってきたのですが、この拳銃の登場でこのふたつの事件がひとつに繋がったように見えました。ですが、動機という点から見てみると、確かに<二階堂京子>に関しては動機があったかもしれません。二階堂京子は同性愛者であり、偽装結婚するという段階では、被告人桐島秀一と利害が一致していたからです。けれどもその後、二階堂京子が妹の二階堂涼子と被告をデートさせようとしたことから、事態はややこしくなりました。桐島秀一と二階堂涼子はともに、彼女が入れ替わっていたことを知ったのは、二階堂京子が殺されてからだと言っていますが、ふたりが共謀して二階堂京子を殺したという可能性もありえなくはない。ですが、<安達紗江子>に関しては動機が見当たりません。また、安達紗江子が長年かかっている精神科医の証言から見ても、彼女が男性を深夜のバーで引っかけるという可能性はありえそうにない。また、被告人は家で飲んでいたはずなのに、次に起きたら安達紗江子のマンションの部屋にいたというのも奇妙です。では、この拳銃はどういう意味を持つものなのか……というのが、今私たちが話しあっていることです」
裁判長はもちろん、自分の意見を裁判員たちに押しつけたり、審理の結果を自分の考えるほうへ誘導したりはしません。けれども、過去の判例ではこのように審理されている……といったアドバイスをしたり、裁判長としての自分の意見を述べることで――審理の落としどころについて裁判長と裁判官が事件についてどう考えているのかというのは、大体わかるものです。
また、「10人の犯人を取り逃がしても、1人の無罪の人を罰してはいけない」という考え方を裁判所は持っており、検察官によって間違いなく犯人であると証明されない限りは、有罪ではなく無罪とするという決まりがあります。つまり、有罪か無罪かで迷った場合――つまり、検察官による犯人であるとの有罪証明が不十分であると判断された場合は、無罪とすべき……というのが建前として一応あるのですが、今のこの時代、冤罪の件数は減るどころかA.I裁判員の導入により、その件数はむしろ増えたとさえ言われていました。
A.I裁判員の導入については、当初から疑問視する声が国民より多数上がってはいたのですが、「裁判員の心理的負担を減らす」ということの他に、「裁判の迅速化」ということがあり、超ハイテク電子時代と言われて久しい現代、そうした種類の入り組んだ複雑な犯罪が圧倒的に増加したことで――裁判官ひとりにつき、常時百件以上の案件を扱っているのが普通でしたし、いずれこの裁判官も三人のうちひとりはアンドロイド裁判官にしてはどうかという議論まで、すでに政府のほうでは審議されています。
秀一自身も、自分が起訴されてみるまでは、「裁判官のうちひとりはアンドロイドだなんて、なんかちょっとやだな」と思っていたくらいでしたが、殺人事件の被告人とされた今では、意見がガラリと変わっていました。A.I裁判員が二名審議に加わるのはいいとしても、アメリカの陪審員制度でのように、残りの十名はせめても血の通った人間が裁いて欲しいと考えるようになっていました。
日本の場合は特に、裁判に対する関心度が低いということもあり、こうした件について世論があまり盛り上がらないわけですが、秀一はもし自分が無罪を勝ち取って釈放された暁には、「日本から冤罪をなくす会」のメンバーとなり、彼らの主張している<裁判改革>を推し進めるため、自分なりに努力する決意をすでに固めていたと言えます。
さて、秀一の刑罰が確定する裁判の評議のことに話を戻したいと思いますが、この場合、<指紋つきの拳銃>、それもサイレンサー付きの銃には線条痕といって、その銃によって間違いなく発射されたという証拠が残っていますから(この線条痕は銃の指紋とも呼ばれています)、この物証は桐島秀一にとって相当不利なものでした。
とはいえ、発見された時の不自然な状況、<安達紗江子を殺す動機がない>など、弁護側の言う「これは陰謀であり、被告人は真犯人によって犯人に仕立てられようとしている」との主張は、確かに筋の通ったものであったと言えたでしょう。
けれども、公判第四回目で、検察官の蛇尾田は、<安達紗江子を殺す動機がない>との弁護側の主張を覆してきました。つまり、記憶がないというのは桐島秀一の嘘であり、もともと殺人欲求と女性に対する欲望の強かった彼は、その夜、そのような衝動を抑えきれず、深夜の街を徘徊。そして、安達紗江子が自宅へ帰ろうとしているところを襲い、彼女の持つ携帯によって部屋の鍵を解錠し、自分の欲望を満足させたあと、安達紗江子のことを殺害したというのです。
「いいですカァ、みなさ~ん。この中に、前日の深夜から翌日の午後三時半まで記憶がなかったなどという人が、一体何人いるものですかネェ。それに、罪を免れるために被告人が嘘をついているとするのが、一番合理的で筋が通った話なはずですヨォ。アンドロイドをあのような形でレイプし惨殺できる人間の精神というのは、一体どのようなものでショオネェ。また、先ほど被告人は『二階堂京子と肉体関係はなかった』と言っていましたが、それなら尚更ではなかったんじゃナイデスカネェ。何度もデートしながら、肉体関係だけは持てない同性愛者の女性……被告人はとうとう自分の欲望を抑えきれず、二階堂京子に襲いかかった。ところが警察機関にいて日頃から鍛えている彼女に激しく抵抗され、それでやむなく銃を発砲したのでは?一発目で彼女は当然絶命したのですが、プロの犯行に見せかけるため、もう一発頭に撃ちこんだ。なんという冷酷にして残酷な犯行でしょう。ですが、アンドロイドの女性を相手に、あれほどのひどい仕打ちをすることが出来たとすれば、何も驚くにはあたらないというものです」
この検察官・蛇尾田の言い分に対し、弁護人の反論は次のようなものでした。
「被告人は決して嘘など言ってはおりません。二階堂京子は、被告人に対して不倫相手の恋人とは別れるとも言っていたそうです。ですから、最初は偽装結婚ではじまった恋が、やがて偽装ではなくなったということなのです。また、仮に二階堂京子と双子の妹の涼子、それに被告人の間でそのことで揉めていたとしても――その場合はただ、二階堂京子は、他に偽装相手を見つければよかったのではありませんか?<独身税>が課されるのが嫌なら、極端な話、異性の友人と一時的に結婚して、その後、その友人に好きな人が出来たらまた別の相手を探して結婚するという手だってあるわけですから。また、合成映像でないことはすでに証明されているとはいえ、被告人はアンドロイド・シェリーを破壊してなどしていません。そのことは、別の店のアンドロイドのコールガール数人からの証言によっても証明されています。『人扱いされなかったり、色々変なことをしたがる男性の多い中で、彼はとてもロマンチックで紳士的だった』と、六人ものアンドロイドの女性が同じように証言してくれたのです。また、以前あった検察官の『生身の女性を恐れる傾向が、被告人を狂気に駆り立てた』との主張は決して彼には当てはまりません。何故なら、被告人は今ひとりの女性と愛を育んでいる最中であり、彼女――二階堂涼子は、被告人の出所するのを待ちかねています。つまり、彼は生身の女性と健全な愛を築くことの出来る心身ともに健康な男性であり、検察官の主張はただの憶測にしか過ぎません。また、もし被告人が二階堂京子をレイプしようとして意のままにならず、それで殺してしまったというのは、流石にこじつけがすぎようというものです。レイプしようとして意のままにならなかったのなら、彼女の体には殴られたり、あるいは抵抗したあとが見られたはずでしょう。ですが、後頭部に二発銃弾を撃ちこまれているということは、真犯人は最初から二階堂京子を殺害する目的で彼女の部屋を訪ね、そして目的を達したということです。それに、二階堂京子も安達紗江子も体に乱暴された形跡はなかったのですから、検察官が何故そんなにも本件を性的な動機があったと捉えたがるのかは、まったく謎としか言いようがないというものです」
こういった形で、公判のほうは一進一退を重ね……検察官・弁護人、両者の主張にはそれぞれ正当性があるように思われ、評議の場の意見も公判後、常にわかれていました。
そんな中、裁判員のうち、ふたりの男性は被告人、桐島秀一に若干同情的な意見や態度を見せがちだったのですが、残りふたりの女性は、被告席に座る桐島秀一に対し、一見まともそうに見えるものの、羊の皮をかぶったモンスターではないかとの疑念を捨て切れない様子でした。
けれども、裁判長とふたりの裁判官とは、裁判員が<公正>以外のフィルター、つまり、<思い込み>のフィルターを通して事件を見ているように思われる時には、そのたびに意見して「アンドロイド損壊事件は本殺人事件に直接の関係はない」ということや、「被告人が無罪であるという可能性というのはありうる」、「もしこれが本当に誰かの陰謀であった場合、我々は無罪の人間を罪に定めてしまうかもしれないので、もっと慎重に」といったように注意を与えたりしました。
ところで、そのように事件の公平性を保つように審議してきた裁判官三人の考えはどのようなものだったのでしょう。裁判長は、例の拳銃が証拠品として提出される前までは、被告人が無罪である可能性もあると思っていました。けれども、不自然な形とはいえ、凶器が発見され、そこに被告人の指紋がべったりとついていた以上――これを見逃すことは出来ませんでした。この第七回目の公判のあと、裁判長はポツリと一言「グレーと思っていたものが、突然黒くなったな」と他の裁判官ふたりに洩らしていたものです。
裁判所では当然、「誰が聞いても妥当である」と感じられる判決を下さなくてはなりません。つまり、そのような証拠があるのに、無罪ということにすれば、裁判長の裁判官としての能力に疑問を持たれる可能性があるということです。もちろんその後も、この顔の表情の読みにくい裁判長は、裁判員たちの前で実に被告人に対し<公正>にして<公平>な態度ではありました。けれども、実際のところは他の裁判官ふたりにもわかっていました。「桐島秀一はほぼ間違いなく有罪になるだろう」ということは……。
さて、判決をだす前の評議の続きですが、裁判長と裁判官はまず、四人の裁判員たちの意見を黙って聞いていました。口を出すとすれば、それは裁判員の事実に対する記憶違いを訂正したり、自分たちの意見が必要な時に、過去の判例を説明したりといった、そのくらいだったと言えます。
「でも、わたしは被告人は有罪である確率が高いと思うわよ」
専業主婦の44歳の女性が言いました。彼女は毎回『裁判長は「<アンドロイド損壊事件>とは少し切り離して考えたほうがいい」なんて言ったけど、あたしはそうは思わない。アンドロイドだから何をしてもいいって考えるような奴は、やっぱり心の根っこに何か病いを持ってるものなのよ。わたしは彼のような人間は、一度刑務所へ入って内省することで、自らを矯正すべきなんじゃないかと思うわ』といったようなことを、言葉を変えて何度も主張していました。
「わたしも同感だわ」
もうひとりの女性は、56歳の保険会社に勤務している女性です。彼女は保険会社の、保険金を下ろすかどうか審査する部署に勤務しており、これまでの間、色々な人間があらゆる方法を駆使していかに保険金を騙し取ろうとするか……そうした人間の心の闇の部分を見すぎてきたせいか、専業主婦の女性同様、被告人に対しては辛口な意見をいつも連発していました。
「毎回、アンドロイド裁判員が、被告人の有罪率を提示するけど、第一回公判後の有罪率はそれぞれ50.2%、51.4%、第二回公判後の有罪率は54.5%に55.1%、第三回公判後には、60.8%、59.9%、第四回目公判後には63.5%、64.2%、第五回公判後には、65.3%、67.4%、で、例の拳銃という証拠が出てからは、82.4%、85.6%……もちろんわかってるわよ。これはほんの<参考>程度の数値だっていうのは。だけど、わたしもやっぱり思うわね。被告人はアンドロイド裁判員の示した数値と同じくらいの確率で有罪なんじゃないかって」
「そうだなあ。だから俺はむしろ逆に、あの被告は無罪かもしれないって思っちまうんだよな」
最初に、『被告人は誰かにハメられようとしているのではないか』と発言した、27歳の<一般市民>の青年があらためてそう言いました。
「確かに、あの検察官が最初の公判の頃に持ってきた<アンドロイド強姦殺人>……まあ、実際には<アンドロイド損壊事件>と言ったほうがいいのかな。あれはパンチがあったよ。また、その一件がもし被告人の犯行なら、残り9人のアンドロイドのコールガールをレイプ後破壊したのも彼の犯行である疑いが濃厚だっていう。実際、実は世間が騒いでるのはその点なんだよな。そんなクレイジーな奴は監獄行きになるべきだっていうね。確かに、あの映像は合成されていたりもしないし、拡大してみたところ、被告と顔や身体的特徴が一致するって話だ。だが、今は何分こういう世の中だからさ、もともと被告人と似た顔立ちの奴に、より似るようメイクしたり、あるいははっきり相手を陥れようと思ったら、整形するってこともありうる。だって、今じゃ整形してない人間を見つけるのが難しいってくらい、その手の手術は簡単になったんだから。それに、あの映像を提供してくれたアンドロイド風俗店の店主っていうのもさ、あんな映像をいつまでも保存して残しておいたのは――ようするに、いつかそれを売れるかもしれないと思っていたからじゃないか?ああいう残虐なタイプのプレイに特に興奮するって奴はいて、それなりにニーズもあるって話だから。そんな店主の出してきた証拠映像ってことを考えると……俺はそいつが金でももらってたんじゃないかと推測するね。つまり、その点ではあの拳銃だって同じさ。第一、俺だって隠すとしたらそんなわかりやすい場所にわざわざ隠したりしない。それに、最低でも自分の指紋くらいは拭っておくよ。そういったわけで、俺は被告人が無罪であることに一票。どうせ、被告人を無罪だって主張するのは俺くらいだろうから、なおのことだ。罪のない人間の血を流すのは、あんたらのほうでやってくれ。俺はこうすることでせめても自分の良心を慰めたいからな」
「いや、俺も被告人が無罪であることに賛成するよ」
ずっと、公判で出された証拠や、検察官・弁護人双方の意見を聞き、その時々で被告人に対する態度を変えていた、五十四歳の男性が言いました。彼もまた、もうひとりの青年と同じく、国から大体同額の給付金を貰って暮らしている<一般市民>です。
「何分、女性陣の被告人に対する風当たりは最初から強すぎた。俺も、例の拳銃が出てきたあとは、『コイツ、やっぱりクロか』とは思ったよ。公判が終わったあとの評議でも、その前までの意見を変えて、被告人が犯人なのだろうとも言った。だけど、俺も生まれて初めて裁判員なんてものをやるってことで……この一年もの間、ずっと法律の本なんかを読んできたんだ。そしたらさ、検察ってのは有罪にできる確率が高いものだけ起訴するっていうじゃないの。もちろん、そりゃそうだろって話ではあるけど、そのかわり、一度起訴した以上は検察の面子にかけて、意地でも自分たちの作ったシナリオ通りにゴリゴリゴリゴリ押してくって話。いや、なんともおっそろしい話さ。俺だって明日、自分に身に覚えのないことで逮捕されても、どっかから誰かの作った証拠なんてのが出てきたら――自動的に有罪ってことにされちまう。そう考えたら、あの青年がやっぱしなんだか気の毒だ。裁判長はさ、俺の息子と同じ年……なんて話をしたら、そうした私情を挟めずに客観的にって言ったけど、そんなの無理だよ。あの青年がもし無罪だった場合、親御さんがどう思うかとか、考えずにはいられねえ。それに、話してるとこ見たっていかにもまともだし、どこにでもいる普通の青年って感じでもある。もちろん、俺はそうした表面的な印象は抜きにして、最終的に被告人は無罪だと思うって結論したんだ。どうせ、多数決で被告人は有罪になるって決まってんなら、俺は未来の自分の命を救うために無罪に投票するぜ。だって、もしあの被告が無罪なのに有罪にされるとしたら、そんなことは将来俺っちか、あるいは俺のカミさんか、子供や孫に起きうることでもあるんだからな」
この男性陣の意見に、女性ふたりは苦虫を潰したような顔をしていました。自分たちは正しいことを主張しているはずなのに、なんだか逆にやりこめられたような、不愉快な気分だったのです。
その後、さらに裁判長とふたりの裁判官、それにアンドロイド裁判員を含め、意見交換が行われました。裁判長とふたりの裁判官は、一応表向きの言葉としてはいかにも公正かつ公平で、被告人が無罪である可能性もありうる……といったことを言うのですが、実際は三人の中で最終的に被告人桐島秀一が有罪であることは確定していたと言えます。
また、三人の裁判官はヴェールにくるんだ物言いをしつつ、内心では有罪と確定している――のとは違い、アンドロイド裁判員の意見は最初から終始一貫してはっきりしていました。女性タイプのアンドロイド、コートニーは「私は被告人桐島秀一は84.5%の確率で有罪であると信じます」と言いました。「私のA.Iはすべての情報を読み込み、そのように結論しましたが、何か反論があればどうぞなんなりとおっしゃってください」
また、もう一体の男性タイプのアンドロイド、アダムも大体同じことを言いました。唯一の違いは有罪確定率が83.7%と、コートニーより若干低いことでしょうか。大体のところ似たような結論を出すのに、何故アンドロイド裁判員がふたりいるかというと、片方は女性的思考をし、もう一体は男性的思考をする……というところに違いがあるからだとのことでした。
評議のほうは一時間ほど続きましたが、四人の裁判員の意見は変わりませんでしたし、「事実認定」、「有罪・無罪の決定」と進んだあと――男性ふたりの裁判員の言っていたとおり、7:2で有罪と決まり、裁判官三人が何故有罪と思うのかの論拠も、極簡潔に述べられていたといえます。また、有罪と決まったからには当然、量刑についても決定しなくてはなりません。
裁判長が過去の判例について似たケースを解説したのち、量刑は執行猶予なしの無期懲役と言うと、他のふたりの裁判官はともかくとして、他の四人の裁判員は「えっ!」と驚いた顔をしていました。しかも、「犯行は計画的で、極めて冷酷かつ残虐である」などと、それまでむしろ被告人をフォローする発言の多かった裁判長自らがそんなことを言いだしたのですからなおさらです。
「あ、あたしはもっとこう……十年くらいかなって思ってたわ。それか、長くても十五年とか二十年とか」
専業主婦の女性は、明らかに狼狽していました。もし無期懲役とわかっていたら、もう少し厳しい意見を控えたのに、とでもいうように。
「わたしもよ」
と、保険会社に勤める女性も言いました。
「一番長くても三十年とか、三十五年とか……」
「そうだよ、裁判長!」
そう強く言ったのは、五十四歳の男性でした。
「いくらなんでも無期懲役っていうのは長すぎる。ほら、無期懲役でねくて、たとえば刑期が四十年とかでもだよ、真面目に務めてさえいれば、もっとずっと早くに出て来れるっていうだからな。そう思えばまだ希望も持てる。だけど、無期懲役はねえよ。もちろん、わかってるよ。無期懲役でも、真面目に刑期を務めていれば、出所できる希望があるっていうのはさ。でも、それを聞いた傍聴席の親はどう思う?『もう息子は一生刑務所から出てこれねえ』、そう思って、おっかさんなんか、脳梗塞か心臓発作だべさ?」
おじさんは驚きのあまりでしょうか、二十年以上も昔に東京へ来てから、すっかり直ったと思った田舎の訛りまで出ていたほどでした。残り一人の裁判員の青年は、口を噤んだままでいます。彼もまた『無期懲役だなんてあんまりだ』と思っていましたが、そんなことを口にしたところで、どうやらこの状況は覆りそうにないとわかっていたのです。
結局、過去の判例云々とか、そんな判決は前例がない……といった説明をされてしまうと、裁判官たちの意見には逆らえないというのか、唯々諾々と従うしかないのだと、そうした雰囲気があることは誰にも否めなかったに違いありません。
ここで、眼鏡をかけた真面目そうな女性と対をなすように、同じように眼鏡をかけた冷静沈着な四十歳の裁判官が、説明を挟めました。つまり、これまでの間、自分たち裁判官はずっと、似たような判例について何ケースも説明してきており、二人以上の殺人の場合は無期懲役か死刑である場合が多く、量刑については口に出して言わなかったにしても、配布した資料のほうには量刑についても明示してあったはずです、と。
「つまり、今回の事件が特殊なケースだというわけではないということです。前にも説明したと思いますが、頭部に二発というのは、間違いなく明確な殺意があったということであり、それを被告人はなんの躊躇いもなく行ったことは明らかです。この場合、情状の酌量の余地はありません。二人以上の殺人事件で、無期懲役にならないのは、なんらかの特殊なケースや、情状酌量の余地がある場合だけですから」
「…………………」
この裁判官の説明に、裁判員たちは四人とも黙りこみました。雰囲気として、「二十年とか、一番長くても三十五年くらいに出来ないんですか?」などと言っても、「前例がない」、あるいは「あっても、それは情状酌量の余地があった場合だけです」といったように言われるだけなのだろうと、大体のところ予測がつきましたから。
また、アンドロイド裁判員がふたりとも、このことを念押しするように、「2079年にあった判例では……」とか「2088年にあった似たケースの事件では……」と説明をはじめると、裁判員たちはますます気持ちが暗く落ち込んだものでした。
――こうして、評議室から出てきた時、裁判員たち四人は全員が暗い、厳粛な顔つきをしていました。四人とも、とても疲れていたということもありますが、無罪である可能性もある被告人に死刑を自分たちが確定してしまったような、それは後ろ暗いような不快な気持ちだったのです。
専業主婦の女性は、(最初は、ちょっとした話の種に一度経験しておくのもいいかなって思ってたけど……今じゃ、法の仕組みなんて何も知らないほうが幸せだった気がするわ)と思い、保険会社勤務の女性は、金銭を巡る人の心の醜さについては知り尽くしているほどでしたが、それでもこうして判決が下ってみると――俄かに被告人の青年が実は無罪ではなかったかと、そのように思われて仕方なかったのです。
給付金受給者の青年とおじさんは、互いに顔を見合わせると、ただ重い溜息を着きました。何故といって、ふたりは被告人に対して無罪を主張することにはしたわけですが、結果が同じなら、それはほとんど同罪に等しかったからです。
裁判長のほうから判決が言い渡される段になると、四人は被告人の顔を見るのにとても勇気が入りました。判決を口にするのはもちろん裁判長ですが、自分たちが逆の立場なら……彼に恨まれても仕方ないと、そのように感じるのと同時、自分たちが決定したことのせいで、人ひとりが絶望のどん底に突き落とされる瞬間というのを――見たくなどなかったのです。
「主文、被告を無期懲役に処する」
四角い顔に四角い頭、それに四角い眼鏡をした裁判長からそのように伝えられると、秀一はただ呆然としていました。検察官が死刑を求刑していることはわかっていましたし、ローランド・黒川弁護士からも「最悪の場合、無期懲役……」といったように聞いてはいました。けれどもまさか、本当に無期懲役になるとは想像していなかったのです。
(俺はふたりとも殺してなんかいないんだ。だから、きっと神さまみたいな人がちゃんと見て知っていて、無罪か、あるいは執行猶予付きとか……何かそんなふうにしてくれると信じよう)
心のどこかで持っていた、そうした淡い期待が打ち砕かれて、秀一は精神的な崖っぷちから、そのまま真っ逆さまに落ちてゆきました。これまでもずっと、<どん底>の底に自分はいると感じてはいましたが(犯行に使われた銃という、新たな証拠の出た第七回目の公判後が特にそうです)、今度こそ、これ以上下はないだろうと思われる、本当に本物のどん底でした。
文字通り、ガーン、ガーンと頭の中で割れ鐘が鳴っているという状態で、あとの裁判長の言葉は、彼の耳にはところどころしか入って来ませんでした。「理由:被告人は、2129年3月24日に偽装結婚相手である二階堂京子、及び翌日の3月25日に行きずりの相手である安達紗江子を所持していた拳銃により、頭部を二発撃つことによって殺害。
犯行動機は、偽装結婚相手である二階堂京子、またその双子の妹の二階堂涼子と複雑な三角関係に陥ったこと、また、安達紗江子とは行きずりの関係の中、なんらかの不都合な出来事があり、これを殺害しむるに至った。共に理由は身勝手なものであり、殺害方法も冷酷かつ残酷なことから、無期懲役が相応である。
また、被告人に前科はないが、偽装結婚して独身税を免れようと考えたり、アンドロイドのコールガールをレイプ・損壊した疑いもあることから、情状酌量の余地はないものと考えられる。……」
判決文がすべて読み上げられると、秀一はキッとそれを読み上げた裁判長のことを睨みつけました。裁判長に対し、憎しみがあったというわけではありません。ただ、本当は無罪なのに、そのように嘘八百をいかにももっともらしく述べることの出来る男の顔を――じっと見つめておきたかったのです。
(覚えておけよ、この野郎。地獄で悪魔と一緒におまえの体を必ず切り刻んでやるからな)とまでは思いませんでしたが、無罪の人間にああも冷たく罪の宣告が出来る人間の顔というのを、よく見ておきたいと思いました。もしかしたら、あるいは逆に(俺は無罪だぞ、おおう!?この俺の顔、テメェのほうでもよく覚えておけよ!)と凄んでおきたかったという、そうしたことでもあったのかもしれません。
この瞬間、裁判所の外ではすでにマスコミが騒いでおり、<判決:無期懲役>という報道がレポーターの間ですでになされていました。例の>>「ただ今、裁判所前から……」というアレです。また、この日の夕方には、テレビにも法廷の様子が流れました(2129年の日本では、裁判の様子についてもテレビ放映が可能になっています)。
そこで秀一は、どこかふてぶてしいとも言える顔で裁判長のことをじっと見つめていました。彼にしてみれば「自分は無実なのだから、下を向く必要もなければ、目を逸らす必要もない」と思ってのことでしたが、「無実なのだから当然だ」と思ったのは、彼の家族と二階堂涼子くらいなものだったのではないでしょうか。
もちろん秀一も、実際には見ていなくても、テレビでどのように報道されているかはある程度予想がつきました。>>「小学生の時、卒業文集の夢に「お医者さん」と書いていた少年はその後二十年が過ぎて……今ではただ、国から給付金をもらうだけで、自分で特に何をするでもない人間に成り果てていました。することといえば、アンドロイドのコールガールを呼んで、夜の寂しさを紛らわすということだけ。ネットを通じた友人らの話では、「話していて面白い奴でしたよ」と、ごくう。「あいつ、時間守ったことないんスよ。でも、なんか憎めない奴でね。そういう奴って、仲間内に大体ひとりくらいいるじゃないですか」と、ジャイコ――友人たちはみな、秀一に対し、概ね好意的な意見を述べていました。また、女友達も「あ、なんかー、確かに誘ってもー、あんまりわたしにー、キョーミないみたいな~?」と、しじみっこ。「でも結構仲間うちじゃモテてたよね。ノリのいい奴だったし」と、らんらん。ここで、レポーターが「もし彼につきあってって言われたらどうします?」と質問すると、「えー。やだー。でも、もしつきあってって言われたら、たぶんつきあってましたよ。だって、そんな変態殺人鬼だって知らない前だしィ」と、答えていたものです。
ですが、判決が出て、地獄の門が開いたその前にいる者にとっては……もはや自分の世間での風評のことなど、いちいち気にしてなどいられない現実がありました。秀一は自分が一体どうやって拘置所まで戻ってきたのか、記憶が欠落しているほどでしたから。
過去にショックなことがあった時も、頭の中にガーンガーンという割れ鐘の音を聞いた記憶が秀一はありましたが、それはほんの短い間だった気がします。けれど今は、裁判所から拘置所へ戻ってくる間も、また拘置所の自分の11921号室のベッドに腰かけている今も、いつまでたってもその鐘の音は鳴り止むということがありませんでした。
(たぶん、黒川弁護士は、こうなるってわかってたんだろうな。それに涼子も……だけど、少しでも俺の刑が軽くなるようにと、精一杯がんばってくれたんだ。それに、もし奇跡みたいなものが起きたら無罪を勝ち取れるとも、信じてくれたんだ……)
この時、初めて秀一は自分が涙を流していることに気づきました。気づくと、これから刑務所へ行く恐怖からか、体も震えてきました。そして、ドサリとベッドの上へ横になると、彼は自分の体を抱きしめながら、ただひたすらに自己憐憫の涙を流し続けたのです。
けれど、すっかり打ちひしがれ、涙にかき暮れてのち……秀一は目頭を拭うと、体を起こしました。すると、一体どこから侵入したのでしょう。緑と蛍光黄緑、それに白っぽい色の体をした小さな羽虫が壁に止まっているのに気づいたのです。
(……ハ、ハハ。可愛いな。なんていう名前の虫なんだろ?こんな惨めでどうしようもない俺のことを、慰めるために出てきてくれたのかな……)
もちろん、そんなはずはないというのは、秀一自身よく承知していました。けれど、秀一はそんなふうに思える自分が何故か嬉しくもありました。それに、今こうなってみるまで、自分はなんと多くの人々の善意に心を救われてきたことでしょう。
(そうだな。こうなってみる前までは、考えてみたこともなかったけど……やっぱり俺、生活態度も悪かったよな。親父や兄貴みたいに汗水流して働くなんて馬鹿らしいってずっと思ってきたし……自分の好きなことだけして生きてきたから、ある意味罰が当たったのかもしれない。もちろん、だからって流石に無期懲役っていうのはないよなって思うけどさ……)
秀一は無期懲役を宣告されたその日(2130年、5月19日)、何故かいつまでも部屋の壁にはりついている、小さな緑と白の虫と一緒に眠りにつきました。翌日、目が覚めるとその虫はいなくなっているかもしれないと秀一は思いましたが、翌朝になってもその虫はまだ壁に止まっていました(ただし、若干場所を移動してはいましたが)。
そして、秀一が実際に刑期を過ごすことになる刑務所へ移送されることになったのは、この十日後のことだったのですが――その前日になっても、例の緑と白の虫は部屋の中にいました。けれども、明日ここを出ていくことになったとすれば、この虫ともお別れです。
そこで、秀一くんはその虫に、思わず声に出して話しかけていました。いつもは、心の中でだけ話しかけるのですが……。
「俺は明日、護送車に乗って刑務所のほうへ行く。だから、おまえともこれでお別れだな。この冬ほど、俺が乗り越えるのがつらかった季節は他になかったけど……おまえら虫にとってはこれからがベストシーズンってやつなんだろ?可愛いメスでも見つけて幸せになれよっていうのも変だけど――あ、あれ?そういやおまえってもしかしたらメスかもしれないんだっけ。なんにしても、友達になれてよかったよ。元気に子孫残せよ……なんてな」
自分でも虫に話しかけてるだなんて頭おかしいと思いましたが、けれど、その虫が逃げるでもなくずっと部屋に居続けていてくれることで、どれほど心が……いえ、魂が力づけられたことでしょう。そう思うと、思わず口に出してお礼が言いたくなったのです。
ところが、このあとびっくりしたことには――この緑と白の小さな虫が、口を聞いたことだったかもしれません。
<ヲイ!シューイチ>
その小さな、機械音がブレて重なったような音を聞いた時、秀一は自分の頭が本当におかしくなったのかと思いました。けれど、とても自分ひとりの幻聴とも思われず、秀一は壁の虫のそばまで行ってみることにしました。
<ヲイ!オレをモット……ドアから一番離レタトコ、連レテケ……ブブブ………>
ドアから一番離れたところといえば、それはトイレでした。ですから、秀一は便座の上に座ると、手のひらにのせた虫と交信をはじめたのです。
「ほら、これでいい?」
<アス、ゴソウシャ、ココ、クジ出発ナ。脱出スル、機会アル。オマエ、逃ゲロ……モブブ………>
「えっ、ええっ!?そんな、一体どうやって?」
<イイカラ、ゆトーリ二シロ。逃ゲル、機会アル。カナラズ逃ゲロ。協力者、イル。ソイツ、信ジロ。イイナッ!?>
このあと、緑と白色の虫は死んでしまいました。せっかく自分の生きる力になってくれた虫に対して、申し訳ないとは思ったのですが、秀一はこの虫が一体なんなのか、どういう仕組みになっているかがどうしても気になり――足や羽のあたりを順に千切ってみました。とりあえず、少し出っ張った目を潰してみると、ゴリッという音がして……それが超々小型微細レンズであることがわかり、秀一は少しほっとしたかもしれません。もしこの虫が拘置所への侵入に失敗したとしても、顕微鏡でも使ってよく見ない限りは、偽の虫だなどとは誰にもばれっこありません。
(でも、一体どういうことだろう。協力者がいるってことは、明日、俺と同じように刑務所へ移送される囚人の中に、誰かそれとわかる人がいるっていうことだろうか。輸送車のドライバーとか、見張りの警察官なんかは協力者ってことはないだろうしな。じゃあ、今この拘置所のどこかにいる同じ囚人に、同じように虫を使って知らせたっていうことだろうか……それとも、ドラマみたいに、突然移送車を誰かが襲ってきて、俺を助けてくれるとか……)
(いやいや)と、秀一は首を振りました。(もしそんなことをして逃亡し、再び捕まったとしたら、今度は自分は無期懲役どころか、死刑になるかもしれない)と、そう思ったのです。
けれども、(自分は無実なのだから)と思うと、秀一が逃げたい衝動に駆られたのは、無理からぬことだったかもしれません。それに、移送車が襲われるなどして、車の中の囚人たちがみな逃げだしたとしたら――反射的に自分も逃げることを選んでしまうかもしれません。
(そっか。じゃ、よく考えなきゃダメだよな……もし、逃げられるのだとしても、またすぐ捕まって罪が重くなったなんていうんじゃ困る。無期懲役でも、真面目に務めれば出所できる可能性はあるわけだから……でも、本当にこのままなら、死ぬまで刑務所務めってこともありうる……それならイチかバチか……)
こんなことをあれこれ考えるうちに、秀一はその日、眠りの底へと落ちていきました。そしてこの翌日――九時前に拘置所前に手錠をかけられた状態で整列すると、移送バスに乗せられるということになりました。この時、ふと横を見ると、留置場にいた時に会った、クルーカットとモヒカン、それにジャンキーが一緒にいるのがわかりました。
クルーカットは手を軽く上げて挨拶し、モヒカンは目だけで「よう」と言っているように見えました。そして、ジャンキーはどう考えても医療刑務所などへ行くべきと思うのですか、彼は相も変わらず死んだような目つきをしてぼーっとしていました。
移送バスに乗ったのは、秀一含め、九名の囚人たちでした。そして見張りの警察官は全員で四名おり、他にドライバーがひとりいるといったところです。刑務所は、バスで約一時間半ほどの距離にあり、せめても移送途中のどのあたりで何が起きるのかを、<虫>にはあらかじめ情報提供して欲しかったと秀一は思ったかもしれません。
(だけど、この状況で一体どうやって逃げられるだろう……警察官は拳銃を所持しているし、何かあれば発砲してくるのは当然だ。それに、スカイ・レーンは常に厳しい監視下にあるから、事故の経緯等はすべて映像として記録されることになる。そう考えた場合……)
秀一は、車内にある時計と、それに窓の外とを交互に何度も見つめました。バスは東京都上空の空を走っていましたが、なかなか渋滞しています。そして、車が出発して四十分ほどが経過し、(逃亡できるなんていう話は、やっぱり嘘だったんじゃないか)と、半ば秀一が思いかけていた時――ドカッ!と後ろから大型トラックがぶつかってきたのです。勢い、移送バスは前の自動車にぶつかり……そして、その瞬間にその事態は起きました。
誰もが前のめりになって前側の座席にぶつかりそうになったその瞬間――ジャンキーは手錠に繋がれたままでふらりと立ち上がると、改造した鋼鉄の右手で警察官のひとりの顔を粉砕し、さらにもうひとりの警官が銃を手にする隙すら与えませんでした。
腹のあたりをパンチされ、さらにはその中から腸まで引きずりだされた警官が「あぎょおォォッ!!」と叫びながら床に転がります。他の二名の警察官は恐れをなし、「ヒィィッ!!」とほぼ同時に叫んでいました。見ると、ふたりとも拳銃を握る手が震えています。
「撃ってみなよ、おっさん」
ジャンキーが、狂気じみた目でジロリと警官ふたりを睨みます。通路は人がひとり通れるくらいの幅しかありませんから、手前側にいた警察官が恐怖に駆られて銃を発砲しました。パン!と渇いたような音がすると同時、キィン!と何かを弾く音が響きます。
キィン!キィン!キィン!キキキィン!!
「ばっ化け物!!」
手前側の警察官の弾が切れると、後ろにいた警官がサッと手前側へ出て、なんの遠慮もなく拳銃を八発、連続して撃ちました。けれど、同じように何か強力な、目に見えない力によってすべて弾かれてしまうのです。
それからジャンキーは、ふたりの警官の首を、半ば千切るような形で締めて絞殺しました。残りのドライバーひとりは、ブルブル震えて運転席についています。
「おい、おっさん。下りろよ」
「お、おお、下りろとは……?」
今、移送バスは東京上空約二百メートルのところを飛んでいます。エア・カーの中には自動走行システムが完備されていますので、行き先を設定すれば、本来は運転の必要はありません。けれども、時々事故が起きたり、不測の事態で車が動かなくなることもありますから、そうした場合は運転を手動に切り換えて、人が運転するということになります。つまり、このドライバーはそうした不測の事態に備えて運転席に座っていたのですが、彼には当然、ジャンキーの言っている言葉の意味がわかりませんでした。
「うっせえな。時間ねえんだから、説明させんな。おら、手伝ってやんよ」
「え……?」
言うなり、ジャンキーはドライバーの胸倉をつかむと同時、乗車口のボタンを押して、ドライバーの男のことを外へ突き落としていました。
「ウッ、うわあああああ~ッあっアッ!!!」
「さあてっと、逃げんぞ、桐島秀一」
ジャンキーはコキコキと首を鳴らすと、後ろをジロッと振り返りました。中には人を殺したマフィアのメンバーもいましたが、その男ですらが、ジャンキーの醸しだす<ヤバさ>にはビビっていたようです。
「その小汚い警官ども、窓から捨てて始末しろ。ここからちょっと速度上げるからな、窓はぴったり閉めとけよ」
「は、ははは、はいィィッ!!」
こうして、この日のニュースは速報で、エア・レーンから落下してくる腸を外に飛び出させたままの警官と、もはや顔の判別が不能な警官、それに落下途中で首が千切れた警官二名の姿を即座に報道するということになりました。
「よし、エア・レーンを抜けるからな。ゴロツキども!!しっかりシートベルト締めて、車に捕まっておけよ!!」
ジャンキーは車が上へ上がる上昇ボタンを押すと、そのあとはもうとにかくアクセルボタンを押し続け、車を加速させてゆきました。当然、『あなたがしようとしていることは危険行為です。他の人々の迷惑になるだけでなく、重大な事故を起こす危険性があります。今すぐ、エア・レーンに戻ってください』と、アナウンスが入ります。
エア・レーンというのは、空中における3D道路認識システムです。外から見ても、エア・レーンというのは見えませんが、車に乗っている人間だけ、自動車に内臓された3D道路認識システムによって、半透明な道路を見ることが出来ます(また、これは地上を走っている時とまったく変わらない仕様にすることも出来ます)。この情報をすべての車が共有しているからこそ、空中を車が走っても事故になったりはしないわけです。
けれど、このエア・レーンをわざと外れたりといった危険行為を犯す人間が時にいるものなのです。その場合、スカイロードを巡回警備している交通巡査たちが情報を得て、すぐにすっ飛んで来るということになります。彼らは唯一、法的にレーンを外れて走行することが許されているため、追いつくのはあっという間でした。
この時、ジャンキーは140キロで爆走していたのですが、交通巡査らの乗る車は、F1並の速度でこの灰色の移送バスへ追いつきつつありました。
「クソッ!!やっぱバスじゃ速度だすにも限界あんなっ!!」
ところが、ジャンキーは一度エア・レーンを下り、地上の道路への接続部へ曲がったのですが、交通巡査らの乗るパトカーは、そのまま真っ直ぐいってしまったのです。これには、バスに乗っていた全員が驚き、あっけに取られていたほどでした。
けれども、その理由はバスから降りてみて、全員にわかりました。何故なら、<バス自体が目に見えなくなって>いたからなのです。
「なっ、なんだこりャア……」
東京のもっとも治安が悪いと言われる地区で育ったクルーカットもモヒカンも、こんなのは見たことが一度もありません。彼らは闇ネットでしか手に入らないような商品を多数扱ってきましたが、これがどのような最先端の科学技術によるものなのか、見当もつきませんでした。
「ナノテクノロジー、いわゆるナノテクってやつさ」
ジャンキーはそう簡潔に説明し、車体をごしごしこすっています。
「おい!おまえらも手伝え。車のナンバーも外して、別のにつけかえて、大急ぎで逃げるからな」
どういう仕組みかはわかりませんでしたが、確かに、車の表面をこすると、見えなくなっていた車体が元に戻りはじめました。ちなみに、服の袖などには何も付着するようなものはありません。
「いくらナノテクったって、ドラえもんの秘密道具じゃないんだからさ」
モヒカンなどは驚くあまり、そんなことを呟いていたものでした。一体いつ、どのようにしてそのようなことが可能だったのかわかりませんが、バスの後部にある物入れに、ペンキとスプレー、それに新しい車のナンバー、修理道具などが置いてありました。
「あのさ、さっきのあれ、どうやったの?」
秀一は車にオレンジのスプレーをかけながら言いました。みな、これで逃げられるかどうかが決まるわけですから、全員必死でした。中にひとり、「俺、自動車いじりが好きだから、ナンバーかえるよ!」と名乗りでた囚人もおり――どうやら「みんな、こんなことしちゃいけないよ。自首しよう!」などと言って、サンドバッグになりたい者はひとりもいないようでした。
「さっきのあれって、なんだ?」
ペンキ缶をぶっかけ、それを適当に刷毛で伸ばしながら、ジャンキーが聞き返します。
「だからさ、銃で何発も撃たれたのに、なんで死ななかったのって意味。もしかして君、不死身だったりする?」
「あ~、あれな。ありゃ防弾シールドってやつさ。言うまでもなく、アメリカの軍部の科学技術だ。透明マントもそうさ。アメリカじゃ、あれに隠れて敵兵を殺そうってところまで来てるんだ。本当はあまり外に言っちゃいけないことなんだけどな」
「じゃあ、もしかして君、アメリカ人?」
「元はそうだな。アメリカの糞だめみたいな下町の出身だ。だが、日本の永住権も持ってるんだ。こっちへ来て結構長いからな」
「へえ………」
車のボディのもう一方の側をペンキで塗っていたクルーカットがこちらへ声を投げてきます。
「それにしてもジャンキー、おまえ、すごい演技力だな。ありゃまさしくアカデミー賞かエミー賞ものだぞ」
「ははは。べつに演技ってほどのもんでもねえよ。俺の12、3歳の頃ってのは、まさしくあんな感じだったからな。誰の演技指導を受ける必要もねえ」
「そりゃいいや」
間違いなくそこは笑うところではないはずなのですが、何故かみんな声を合わせて、「わはははは!!」と大笑いしていました。
みな、顔や体や衣服にオレンジのペンキを跳ね散らかしたまま、大体のところ車体が姿を変えたところでバスに再び乗り、今度は地上の道路をゆっくり走行していくということになりました。そして、高架下の目立たぬ一角へ辿り着くと、そこでジャンキーは車を一度止めました。
「みんな、俺の任務は二十四時間以内にある人の元へ桐島秀一のことを届けることだ。だが、そこまでは何もなけりゃ一時間くらいで到着することが出来るだろう。つまり、残り時間として二十二時間あるってわけだ。それでよけりゃ、行きたいとこまで送っていってやるよ。お宅ら、きっと色々ヤバイことして捕まったんだろ?じゃあ、今は顔を整形したら、病院にも本人にも写真報告が義務付けられているが、抜け道なんか裏の世界にはいくらでもある。顔を変えるなり、誰かに偽造パスポートを造ってもらって海外へ脱出するとか、あとは好きなようにやってくれ」
こういった事情で、ジャンキーは囚人の一人ひとりを、その人物が望む場所へ送っていきました。情報窃盗罪で捕まった男や、傷害罪の男、人殺しの男、詐欺で捕まった男……などなど、全員が全員、ジャンキーに深く感謝し、彼を抱きしめたり、握手してからバスを下りていきました。中には、ジャンキーの手下になりたいと願いでる者もいましたが、もちろん彼は丁重に断りました。「オレに弟子入りなんかしたら、命なんかいくつあっても足りねえし、一年以内に必ず死亡すること請け合いだ。それより、誰か好きな女でも見つけて幸せになったほうがずっといいさ」とそう言って……。
クルーカットとモヒカンも、「腕には覚えがあるし、射撃の腕もいい。もし、秀一のことをどこかへ送り届けるのに必要なら、手伝うぜ」と言ってくれましたが、ジャンキーはそのことも断っていました。「オレに本気で関わったら、ブラックホールに突っ込まれでもしたみたいに、存在自体を本当にこの世から消されちまうからな」と。
こうして7人の人間を望む場所まで送り届けると、ある場所に車を乗り捨て、ジャンキーと秀一のふたりは、その場をあとにしました。
「あの車、あのままにして大丈夫かな?ほら、塗装をはいだら刑務所の移送バスだってわかっちゃうし……」
「心配いらねえよ」
そう言って腕の多機能デジタル時計をジャンキーは秀一に向かって突き出しました。その時時計が表示していたのは、4:44です。
「ちょうどきっかり、17:00になったら、あのバスを取りに来る人間がいる。で、あの車はスクラップ工場行きになり、証拠は何も残らないってな寸法だ」
「そっか。すごいなあ。昔見たCIAの男が主人公の映画みたいだ」
秀一は感心したように言いました。一体どうやって移送車から逃げるのかと思っていましたが、そうした<連携プレー>が計画としてすでに出来上がっていたということなのでしょう。そして、秀一は実はずっと考え続けていました。もし、自分を逃がそうという人間がいるとしたら、それは一体どこの誰なのかということを……。
「もしかして、君は、その……ここで名前言っていいかどうかわからないけど、組織<T>の人間だったりするのかい?」
「なかなか察しがいいな、おまえ。あの方が見込んだだけあって、馬鹿ではないというわけだ。これから、オレたちが行く場所はいわゆる<ゲストハウス>と呼ばれる場所だ。もはやこの世界――ま、日本ならマザー・コンピューターの<サクラ>だが、日本国内にいる間は彼女の目から逃れられるような場所はあまりない。だが、完全に<サクラ>の影響下を脱した場所ってのをTでは用意してあって、これから行くのがその場所だ」
それから、ジャンキーは幅広のサングラスと、先ほど秀一に見せたのと同じタイプの(デザインや色は違いますが)腕時計を彼に渡しました。
「えっと、これは……?」
「仕組みを説明すると長くなるが、簡単に言えば、そのふたつを装着して連動させると、オレたちの姿は<サクラ>及び電脳世界に繋がるすべてから遮断され、見えなくなる。もちろん、君はまだTのメンバーじゃないし、<サクラ>も秀一が逃亡したと聞いても、そう必死に捜索しないかもしれない。だが、これからオレのようなエージェントが秀一をある人物に会わせるだろうと予測し、血眼になって捜すかもしれない……ま、一応の用心ってとこだな。さっきの車、見ただろ?ちょうどアレと似たようなもんでな、<サクラ>や彼女が端末として使うロボットやアンドロイド、あるいは監視カメラには、オレたちが透明人間として認識されるはずだ」
秀一がジャンキーから初期設定の仕方を教えてもらうと、3Dスコープにも似たそのサングラスは、秀一の視界にある色々な情報を提示しはじめました。右斜め前方に見えない形で監視カメラが埋め込まれていることや、近くの家の中にはロボットが二体とアンドロイドが一体いる……ということなどなど。
「慣れるまではちょっとうるさいが、大体のところ、脅威にならない敵ばかりが表示されてると思って間違いない。また、アンドロイドやロボットの中でも危険なヤバイ奴が近くにいたら、そのこともアラームを鳴らして知らせてくれる。まあ、オレと一緒にいる限りは間違いなく秀一よりそうした存在を感知するのはオレのほうが速い。単に、向こうから姿を見えなくさせるための装置だと思ってくれ。煩わしかったら、時計のこの部分を押して……」
ジャンキーは、時計の脇にいくつもついている小さな突起を何度か押すと、<通常モード>、つまりはただサングラスをかけているだけの状態に戻してくれました。
「まあ、姿は見えなくなっても音声を拾われる可能性はあるし、オレの声紋も秀一の声紋もすでに<サクラ>は登録済みだろう。だが、そこまで神経質に怯える必要はない。まずはここから歩いて二十分くらいのとこにあるホテルへ行く。当然フロントには受付のアンドロイドがいるから、そこは通らずにチェックインする」
「えっと、どうやって?」
ふたりはそのホテルのほうへ向かって歩きながら、話を続けました。
「これからオレたちの行くのは、ホテル<ピラミッド>だ。そこのオーナーがTのメンバーで、部屋の中に、<サクラ>や電脳世界にとっては死角になる部屋がいくつかある。そこをすでに予約してあるから、地下にあるエレベーターに乗って153号室へ行く」
「そういえば、そのホテル<ピラミッド>って、666室あるって聞いたことある。俺みたいな給付金暮らしの一般市民は、一泊三十万以上もする部屋なんて、とても泊まる気にはなれないけど……」
毎月政府から支給される給付金をうまく使い、事業で成功した者にとっては屁でもない価格設定だったかもしれません。このような所得格差により、今では<一般市民>と<富裕層>の間では、出入りできる施設などにも、はっきりとした分け隔ての壁がありました。
「ま、一般市民の感覚としちゃ、それがまともってもんだ。そこのオーナーもさ、Tのメンバーだなんてことがわかったとしたら、<サクラ>に無一文にされちまうだろうけどな。もっとも、そこらへんのことがわかってる人間は、自分の資産の多くをゴールドに変えて、世界各地に隠してるって話だ。金持ちってのも大変なもんだな。その点、オレみたいな根なし草は、当面暮らしていける金さえあれば、何も文句なんかありゃしねえ。その点、秀一はどうだい?お宅もいわゆる、給付金暮らしから抜けだした<成功者>になりたいって口か?」
「どうかな……」
秀一は、少なくとも以前はそんなことを考えていた気がします。国からの<給付金>というのは、国民としての必要最低限の暮らしを保障するものであり、自分に向上心さえあれば、そこからコツコツ貯金して、なんらかの夢を叶えるとか、そうしたことも可能ではあったでしょう。けれども、秀一自身は借金を背負いこんでまで新たに何か事業をはじめる才覚は自分にないと思っていましたし、言うなれば、日本国民のピラミッドの最下層でも、「生きていれば丸もうけ」という精神で生きてきたと言えます。
けれども今は、無実の罪で捕えられ、さらには無期懲役を宣告されたことで……秀一の思考は明らかに変わっていました。自分では、どこがどう、とうまく説明は出来なかったのですが。
「前までは確かに、そんなことも考えてたかな。俺、今三十一なんだけど、二十代の頃っていうのはとかくそんなものだろ。でも、今は……人生で大切なのはそういうことじゃなかったんだなって思ってる。もちろん、金のない人生っていうのはつまんないし、金っていうのはないよりはあったほうがいいに決まってる。だけど、ほら、ジャンキーは知ってる?昔むかしのお話にさ、『星の王子さま』っていうのがあって……」
「まあ、知ってるよ。オレは一般にいうガクってやつはねえが、『星の王子さま』を読んだことくらいはあるさ。それで?まさかと思うが、この世で一番大切なのは目に見えないものだとかって言いだすんじゃあるまいな?」
「そうじゃなくてさ……いや、結局はそういうことかな。『星の王子さま』の中にキツネの話があるだろ?ほら、王子さまに自分を「なつかせて!」って懇願するキツネ。でも、最初から王子さまとはお別れすることになるっていうのは、キツネにもわかってて……でも、キツネは友だちになれて良かったって思うって話。何故なら、前までは小麦の金色の穂を見ても、それはただ小麦の金色の穂だけど、今は黄金の穂を見るたびに、王子さまのことを思いだせる……世の中で一番大切なのはそういうことだよ、目に見えないものが一番大切なんだっていう話」
「ほうほう」
ジャンキーは蟹股に歩いていきながら相槌を打っています。彼は身長のほうは174センチある秀一くんよりも小さく、150センチもあるかどうかといったところでしたが、とにかく物凄い蟹股なので(麻薬中毒者の振りをしている間はそうでなかったのですが)、その蟹股の歩きっぷりによって、彼は小柄ながら実に堂々とした人間であるように見えました。
「だから……俺も、今はちょっとそういうところがあるかなって思う。前までだって、金が第一の拝金主義者ってほどひどくはなかったけど、でも毎日、特にこれといって目的もなく生きてきて、それがある日逮捕されて、ちょっと目が覚めたと思う。いや、なんとなくうすらぼんやり生きてきたところに、ちょうど冷水を浴びせられたみたいな感じさ。で、そのあとだんだんにわかってきた。俺は金が大好きだし、だから綺麗ごとを言うつもりはない。だけど、それでも――キツネがしたような金で買えない経験と金そのものを取り替えようと思うほど、今は自分が馬鹿じゃなくて良かったって、そう思うんだ」
「なるほどねえ。ま、確かにあんたはこれから、金で買えない体験ってやつをするかもな。オレはただの運び屋だから、このことをオレに依頼したボスが一体、どんな用があるのかはわからないんだけどな。それでも一応、なんとなくわかるぜ。何分、そのへんの嗅覚ってのは利くほうなもんでな。オレを留置場送りにしてまで、あんたを自分の元まで運べってんだから、お宅はよほどの重要人物なんだろう。ま、オレは金さえもらえりゃ理由や細かいことを色々聞く気はねえ。あんたと違って、目に見えないものよりも目に見える金が大好きな、拝金主義者なもんでな」
「いや、いいと思うよ、その考え。ってか、サイコーだ」
そう言って秀一は笑うと、ジャンキーもまた一緒に笑いました。彼は一見白髪頭にも見えるようなプラチナブロンドの長い髪をしており、いつもその髪で右眼か左目のどちらかが隠れています。童顔で、子供のような小さい顔なのですが、眼があんまり大きくてヤバイ雰囲気を湛えているせいか――(街ですれ違ったら、自分なら絶対声をかけないな……)と、秀一はふとそんなふうに思ったかもしれません。
彼は先ほどバスで一緒に逃亡した囚人仲間全員に、何故か自然と「ジャンキー」と呼ばれていました。「ジャンキー、君のことは忘れないよ」とか「ジャンキーにしておくのがもったいない奴だ」……などと言われつつ握手したり、ハグしていたものでした。
「それで、お宅のほうはどうなんだい?アンドロイドを十体もレイプして破壊したってのはお宅の仕業なわけか?」
「いや、やってないよ、マジで」
秀一は苦笑いしました。けれどもしここで、『ああ、そうだ』と答えていたとしても、ジャンキーは自分を軽蔑しないような気がしました。どうしてなのかはわからないにしても、なんとなく直感として。
「全部ほんとに冤罪なんだ。そりゃ、アンドロイドのコールガールを家に呼んだりってことは時々あったけど……そんなの、みんなやってることだろ?だけど、Sっぽいプレイとかそんなに本格的なのはしたことないし、まあ、そういう趣向のほうはノーマルだよ。てか、むしろ才能ないくらい。でもあの子たちは男が早漏でも気にしないし、勃たなくても『わたしがなんとかしましょう、ご主人さま』っていう感じだものな。ま、プログラムとしてそう組まれてると言われてしまえばそれまでだけど……俺はあの子たちは天使だと思ってる。だから乱暴なことなんか、全然しようともしたいとも思わない。あ、ちなみにこれ、俺が早漏の勃起不全とかいう話じゃなくさ」
「へえ……面白いな、あんた。けどまあ、世間じゃ今あんたは相当クレイジーな多淫症の変態野郎ってことになってるぜ。二階堂京子と安達紗江子を殺したのが本当にお宅かどうかなんて、半ばどうでもいいんだ。そっちはむしろ殺ったのはあんたじゃないかもしれない。けど、アンドロイド十体をレイプして破壊したのはほぼ間違いなくあんたなんじゃないかって……だから、裁判の実質と世間のこの事件に対する意見っていうのは相当乖離してるぜ。つまり、仮に秀一が二階堂京子と安達紗江子を殺してなかったとしても、あんたはアンドロイドを十体もあんな形でレイプして破壊している、とんでもない変態野郎だ。それは本物の女性を監禁してレイプし、いたぶったあと殺害したに等しい。だったら二階堂京子と安達紗江子を殺してなくてもその罪状で代理処罰したらいい……ってとこかな。だから、気をつけろ。日本中どこでも、あんたの顔を見た奴は敵だと思ったほうがいい」
「そっか。じゃあ俺、きっともう日本には住めないな。整形するにしても……通報されない闇医者ってことになると、がっぽりふんだくられるし。はて、どうしたもんかな」
ここで、ジャンキーは愉快そうに笑いました。<運ぶ>対象が人間であった場合、いつもこう相性の合う人間が相手とは限りません(というより、その反対の場合がほとんどです)。けれど、目的地まであともう少しとはいえ――秀一とは、このままもっと長く一緒にしても、お互い少しも退屈でないだろうと感じましたから。
「じゃあ、そのサイバースコープとサイバーウォッチは秀一にやるよ。普通に闇の第三ネット市場なんかで買うと、結構するんだぜ」
「えっ、ほんとに!?なんか悪いな。けど、俺をピラミッドホテルまで届けるっていうミッションを果たしたら、結構もらえるんだろ?」
「まあな。じゃなかったら一体誰がブタ箱に入るようなヘタを踏むかよ」
ふたりがこんな話をしながら歩いているうちに、ピラミッドホテルのほうへ到着しました。入口の車寄せのほうへは、エア・レーンと直接繋がった空間からスカイ・タクシーがそのまま下りて来、タクシーを降りたいかにも金満家といった雰囲気の男性が、アンドロイドのボーイに迎え入れられているのが見えます。
「オレたちが用のあるのはこっち」
そう言ってジャンキーは、ピラミッドの左側面のほうを指差しました。見ると、そこにはスフィンクスの像が目立たぬ形で置いてあります。ジャンキーがスフィンクスの像に自分の腕時計をかざすと、スフィンクスの両方の目が光りました。すると、スフィンクスがしゃべりだします。
『朝は4本足、昼は2本足、夕暮れには三本足……』
「あー、はいはい。人間ね」
途中でブチッと音声を途切らせて、ジャンキーは次のなぞなぞに移ります。
『地面に開いた男の穴……』
「マンホール!」
『おばさんのあそこ……』
「カント!」
すると、スフィンクスがゴゴゴ……と横にずれ、そこからドアが現われました。ジャンキーはさらにそこにあった電子ロックに、数字を数桁打ちこんで、扉を開きます。
「あのさ、さっきのクイズ、一体何?」
「さあな。ホテルピラミッドのオーナーの趣味かなんかだろ」
(なんか、無意味なクイズ……)
とにもかくにも、こうして秀一とジャンキーはホテルピラミッドの内部へ入りました。ですが、中は真っ暗闇です。
「秀一、時計の一番上のボタン、四回押してみな」
秀一が言われたとおりにすると、視界が切り替わり、サイバースコープは暗視ゴーグルの役割を果たしました。
「へえ……結構広いんだな」
「こっちだ、秀一。ここはちょっとした迷路みたいになってるから、オレの後ろから離れるなよ」
言われたとおり、秀一はジャンキーの背後から離れませんでした。もしこの闇の中から何かが姿を現したとしても――ジャンキーのあの強さなら、自分を守ってくれるだろうと、そう思いましたから。
「確か、最初の角を右、それから三つ分かれ道を通りこして、今度は左……っと」
そんなふうにブツブツ言いながらジャンキーは進み、最後に「確か、このへん」と言って、暗闇の壁に取りつきました。エレベーターを起動させるためのスイッチを探していたのです。やがて、ブゥーン……と、電気が通った音がして、目の前のエレベーターが光りはじめました。
「さて、と。そんじゃ行くか」
エレベーターのボタンはかなり奇妙なものでした。153、292、334、487、556……つまり、それらの部屋が<ゲストハウス>ということなのでしょう。ジャンキーは153のボタンを押すと、流石の彼も少しほっとした顔をしていました。
エレベーターのほうは、ただ上へ上昇するというのではなく、時々横に、かと思うと少し下へ下りてからまた上に――と、何か複雑な動きを見せながら移動していきます。そして、到着した先は、部屋の中と直結していました。
「へえ。すごくいい部屋だね」
153号室は、一般的にいう、デラックススイートくらいの広さの部屋でした。全体的にエジプト風で、柱などにはすべてヒエログリフが刻まれていましたし、ベッドやソファやテーブルなども、大体同じような仕様でした。壁にも歴代のファラオの像がオブジェとして置かれており、ホログラフィック・ディスプレイのスイッチを入れてみると、広い壁一面にアブ・シンベル神殿、ハトホル神殿、ルクソール神殿など、現在の遺跡の様子ではなく、当時の状態を再現した映像を選べるようでした。
「エジプトかあ。いつか旅行で行ってみたい気もするけど、実際はこういうホログラフィに囲まれて、『行った気旅行』をするっていうのが一般庶民の王道だよな」
「つか、オレならこんな部屋で寝たりしたくないね。ほら、そっちにアヌビスの像がある。嫌だねえ。寝てる間にコイツが動きだして、寝首とかかかれたくないもんな」
ジャンキーはそう言って、溜息を着いています。それに、『死者の書』が寝室いっぱいに描かれているというのも――何か悪趣味であるように感じていました。
「それで、俺、これからどうすればいいのかな?」
秀一がそんな素朴な疑問を口にした時のことでした。部屋の一体どこにいたのかわかりませんが、突然大きなカブト虫が――ブゥゥゥ……ンという羽音をさせながら、彼とジャンキーのいるほうへ向かってやってきます。そして、寝室の死者の書が描かれた壁にぺタッと吸着するように着地していました。
<ヨウコソ、ヨウコソ。クライヴ、御苦労だった。すでにもう君の指定した口座に金のほうは送金しておいたよ。確認してくれ。そして、桐島秀一。君にも、この一年あまりの間、つらい思いをさせて申し訳なかったと思う>
「い、いえ、べつに……」
秀一は反射的にそう答えていました。カブト虫……正確にはスカラベでしょうか。そこから太い男性の声が流れてくるのを聞いて、秀一は反射的にそう答えていたのです。
(そっか。まだはっきりとはわからないけど、あの小さな羽虫を拘置所へ送りこむよう指示したのも、彼ってことなのかな……)
男の声のほうに、秀一はまったく心当たりがありませんでした。たぶん、四十代とか五十代くらいの、落ち着いた雰囲気の男性の声ではないかと思われました。
<これからそちらへ向かおうと思うが、クライヴ、君は先に部屋をあとにしてくれ。お互い、顔を合わせないほうが――これからも私は君に十分儲けさせてあげることが出来ると思うからね>
「そりゃそーだよ、ボス。じゃ、秀一、これからお宅がどうなるのかオレにゃわからんが、達者でな。もしいつか、縁があったらまた会おう」
「うん。俺も君と知り合えて良かった。それに、君の名前もわかって良かったよ。もしかしたら偽名のひとつかもしれないけど……ジャンキーなんていうんじゃ、ちょっとあんまりだものな」
「そうでもねえさ。オレにとっちゃジャンキーもクライヴも大して違いなんかねえ。似たようなもんさ」
秀一はクライヴと握手すると、こうして彼と別れました。一度、例のエレベーターは消え、その部分は虚空のような暗闇となります。
秀一は少しばかり――いえ、実際はかなりでしょうか。疲労を覚えて、ベッドの端のほうに座りました。死者の書に囲まれていて若干不気味だろうとどうだろうと関係なく、今少しでもベッドに横になったら、そのままぐっすり眠ってしまいそうなくらいです。
(いや、むしろ逆に今こそしっかりしなきゃ駄目だ。助けてくれたからって、彼が俺の味方だとは限らないんだし……)
実際、本当にその通りでした。自分を助けたということは、彼にはそれ相応のメリットがあってそうしたに違いないということなのですから。けれども、秀一には涼子以外で、自分にここまでのことをしてくれる人物というのは思い当たりませんでした。また、自分を助けたことで相手に一体どんなメリットがあるのかも――とんと心当たりがありません。
(こんな時に睡魔に襲われていてどうする……)
そう思いながら秀一は、ジャンキーことクライヴが<ボス>と呼んでいた人物がやって来るのを待ちました。(一体、どんな人なんだろう。流石に会って三秒で殺されるとか、そういうのはないよな……)などと、心拍数を高くしながら。
やがて、十分ほど時間が経過したのち、例のエレベーターが部屋に戻ってきました。秀一が身構えつつベッドから立ち上がると――エレべーターの扉が開きました。そして、そこに姿を現したのは……軍服姿の南朱蓮だったのです!
実をいうと、自分を助けてくれたのはもしかしたら彼女なのではないか……とは、秀一の中で予測の中にあったのですが、スカラベの男性的な声を聞いて、その可能性を一度葬っていたのです。
「会うのは、法廷で会った時以来かな」
「そ、そうですね。なんというか、その……結果は無期懲役でしたが、法廷では俺に有利な証言をしていただいて、ありがとうございました」
南朱蓮のほうから握手を求めてきたので、秀一くんは彼女の手をしっかり握りしめました。南のほうでは、オリーブ色の上下の、若干ラフなタイプの軍服に、それに軍靴を履いているといったスタイルでした。襟元に大佐の徽章が輝いて見えます。
「まあ、座りたまえ。桐島君、君もわたしに色々聞きたいとことがあるだろうし、わたしも君に話さなくてはならないことがある……時に、お腹のほうはすいてないかね?」
「えっと、三時ごろですかね。ジャンキー……じゃないや、クライヴが万引きしてきたパンとかおにぎりを公園の隅のほうで食べたりして。いえ、もちろんいけないことなんですけど、お腹がすいていたせいか、すごく美味しかったんです。まあ、拘置所の食事も人権の守ってある、内容的には悪くないどころか、栄養について考えられた、いいものだったと思うんです。でも、やっぱり、自分の好きな時に好きなものをバクバク食べられるって、何ものにも代えがたいなって、あらためて思いました」
「そうか……」
南朱蓮は、部屋に備えつけのコーヒーマシンにエスプレッソのカプセルをセットしようとして、後ろを振り返ると、秀一にもこう聞きました。
「君は、飲み物は何がいいかな?コーヒー、エスプレッソ、カフェラテ、カプチーノ……あと、冷蔵庫にもコーラとかジンジャーエールとか、そんなのが入っていたと思うが、何がいい?」
「えっと、じゃあエスプレッソで」
自分と意見があったので、南は少しばかり驚きつつ、コーヒーマシンにエスプレッソのカプセルを二つセットしました。五分とかからずエスプレッソが二人分入ると、南は秀一にカップを渡してくれました。
そして、ふたりはナイルブルーのソファにテーブルを挟んで腰かけると、エスプレッソを三口ほど飲んだところで、話をはじめたのでした。
「君のことを移送車を襲って脱出させたのは……桐島君、君にとっていいことだったと思って良かっただろうか?」
「もちろんです。正直、最初はまた新たに何かハメられようとしてるんじゃないかって、考えなくもなかったんですけど……だけど、クライヴの話じゃ俺はもう日本中の国民に鬼畜の変態として憎まれてるってことだったんで、これからどうしようかなって思ったり」
「そうだな。君を逃れさせた以上、そのことはわたしにも責任のあることだと思う。だが、事態のほうが少々こみいっていてね……果たして君に、一体どこから話したらいいものか」
南朱蓮は、突発性の頭痛に悩まされたというように、額を手で押さえていました。それから、すっかり疲れたといった様子で、溜息を着いています。
「果たして、真実を知ることのほうが幸せなのか、それとも知らないままでいたほうが幸せなのか……わたしにもわからないがね。わたしが君を助けたのには、理由がある。それがどういう理由かといえば――近く、この世界は滅びることになるということだ。つまり、意味がわかるかね?あのまま君を刑務所送りにしてもしなくても、結果は同じ……ただ、最期を迎える場所が違うというそれだけだ。それなら、わたしとしても最後に、出来ることなら無実の人間のことは救いたいと思った。これは、そういう話なんだ」
「えっと、世界が滅びる?」
一体、突然何を言いだすのか――という顔で、秀一はエスプレッソを飲むのをやめました。
「そうだ。そのことはこの世界のほんの一握りの人間だけが知っていることだ。それに、全世界の国民をこれ以上騙し続けることにも限界が来ている……世界の終末のカウントダウンは、ずっと前からはじまっていた。そして、それを出来る限り遅らせるというのが、言ってみれば我々ローゼンクロイツァーの任務だった」
「えっと、トリニティじゃなく?」
実をいうと秀一は、結構UFOとかUMAとか、その手の話が大好きで、他に世界の陰謀論についてなども、それが嘘か本当か、本当にあるのかないのかということは関係なく、色々調べるのが好きでした。そうした彼の知識の中で、ローゼンクロイツァーというのは日本語で薔薇十字団という名前の秘密結社であったように記憶しています。
「その名称によっても呼ばれているね。他にもいくつか、日本であれば<サクラ>、アメリカなら<ウィルマ>、イギリスなら<パトリシア>、ロシアなら<アナスタシア>、フランスなら<カトリーヌ>といったように……我々の組織はそのすべての監視網から逃れて活動する必要があるため、名称を使い分けているんだ。そして、ローゼンクロイツァーのメンバーは、本当の上層部の幹部クラスの人間しか、組織の全体図については知らないのだよ。ただし、末端のメンバーに至るまで、動く動機――この場合、命を賭ける動機といっていいだろうが、それはみな一緒だ。このままいくと、世界はこのマザー・コンピューター同士の冷たい腹の探りあいによって滅びるだろうということは、昔から懸念されてきた。そして、そのことに同意し、そのようなことにならぬよう活動してきたのが我々ローゼンクロイツァーといっていい」
「あなたは……本当に、軍部の情報部で働いていらっしゃるのですか」
今目の前にいる彼女も、陸軍の制服に身を包んでいるし、裁判所にも出廷した時、そのように名乗っていたのは当然秀一も記憶しています。けれども、そのような部署にいつつ、同時にそのような地下組織でも活動することが本当に可能なのか……秀一には謎が残りました。
「そうだな。正しくは、確かに調べられれば防衛省の情報部に、南朱蓮という女性は確かに存在している、ということだけは言えるだろうな。果たして君に、一体どこから話すのが一番わかりやすいか……とにかく、世界で第六次産業革命が起きて以降、この世界の軍事バランスは様変わりした――というのは、よく言われることだ。それ以前までは、核が世界で最大の、地球を滅ぼす兵器と思われてきた。ところがその上をゆくナノテクノロジーによる兵器が生まれて以来、各国は一体どこの国がどのようなナノ兵器を持っているか、諜報活動を活発に行って、冷たい腹の探りあいをするようになったんだ。何分、核兵器と違って、ナノ兵器というのは正確に査察を行うことが難しい。それに、戦争の形態もすっかり様変わりした。人間はもうあまり直接戦地へ出向くことは少なくなり、そのかわりアンドロイド兵士たちが遠隔地にいる上官の命令を受けて動くことになったし……作戦なども、A.Iの提案や計算を司令官は参考にして取り決めていく。だが、どこの国がどのくらい、どんな種類のナノテク兵器を保有しているか、どの国も正直には語らなくなったことで――何分、核のように放射能といった証拠を残すこともないし、小さくて威力があるだけに、いくらでもどこへでも、あるいは誰によってでも、移動させることが可能だからな。それでも、NATO諸国(アメリカ・日本・ヨーロッパ諸国など)の間では、お互いに秘密機関などを通じてある程度相手の兵力については把握しているものの、ロシアや中国やイランなど、ナノテクをどの程度保有しているか不透明な国との間では、当然緊張感が高まる。とはいえ、今ではアメリカがロシアを滅ぼしたり、また逆にロシアがアメリカを滅ぼしたにせよ、互いにメリットは何もない。それより、スーツケース一個分のナノ兵器で巨大なビル一棟を崩壊させられることから、テロといった事件が起きた場合、それがどこの誰の犯行なのかがわかりにくくなった。その昔であればな、テロといえばイスラム過激派組織というのが定番だった時代もあった。だが、それも今は昔の話だ。何故なら、彼らの争う理由自体がなくなってしまったからだ」
(俺、大学卒じゃないんで、もっと噛み砕いて説明していただけます?)
いつもの秀一なら、軽い調子でそう聞いていたかもしれません。けれど、流石の彼にもわかりました。この話の先の、これ以上のことを聞くのは危険だと、頭の中で警鐘が鳴り響きます。
けれど、それにも関わらず彼はやはり聞いていました。ほとんど無意識のうちに。
「……それは、どういう意味ですか?」
「今、かつてその昔、わたしたちが知っていたような形のイスラエルの首都、エルサレムは存在しない」
「…………………」
南朱蓮にそう聞かされても、秀一はやはり意味がわかりませんでした。エルサレムというのは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教それぞれの宗教が、非常に重要な都市としているため、歴史的に複雑な背景を持つ――といった程度の知識はありましたが、南朱蓮が何を言わんとしているのか、悟ることは出来ませんでした。
何故なら今も、テレビのニュースなどでは、見ようと思えばエルサレムの様子などは時々流れることがありましたから。
「つまり、もうとっくの昔に滅んだのだよ。この世界でナノ兵器を初めて本格的に兵器として使用したのは、イスラエルだ。何分、まわり中敵に囲まれているというお国柄だったイスラエルは、モサドを使って徹底的に敵のテロ勢力を叩いた。それは、証拠を残さなかった。だから、向こうがいくら「イスラエルがやった」と言っても、イスラエルのほうでは知らぬ存ぜぬで押し通すことが出来たんだ。だが、今度はイスラエルのほうがナノ兵器による攻撃を受けるようになり……その後、イスラエルが敵のテロ勢力との間で和解したという、それ以降のわたしたちが一般に知らされている情報のすべてが嘘だ。何故そんなことが出来たかって?そのことの起きたのが今から約二十年前のことで、すでに各国のマザー・コンピュータがある情報を国民に知らせないと決めれば、そのような情報操作が可能になっていたからだ。今はもう、イスラエルとその周辺諸国、イラン、イラク、シリアなどは見渡す限り砂漠地帯になっている。イスラエルにナノ兵器を使用されることを恐れたイランが、とうとう核兵器を使用したという、そのせいだ。ただし、今は日本の広島や長崎で使われたものより技術が遥かに進歩して……かなり小型のものでも、核として圧倒的な威力を持っている。イランはナノ兵器後進国だったから、結果としてそのような悲劇が起きたんだ」
「でも……そんな……どこかの国が核兵器を使用したのに、それを情報規制できるとは、俺にはとても……」
(世界が本当に滅びる。しかもそう遠くない未来……)
秀一は、まだ南朱蓮の語る話の全体像が見えませんでした。イスラエルやイランやイラク、シリアなどがないというのは、この目で見なくても、今の彼女の話だけでも信じることは出来なくもありません。けれども、そのことと世界の終末のカウントダウンということとが、どうしても結びつかなかったのです。
「そりゃそうさ。だが、世界には数多くのユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒がいる。だが、イスラエルが核によって滅んだということは、彼らに『この世に実は神など存在しないのだ』という烙印を押すことになるのだ。そのような絶望を経験したことで、自殺する者や鬱病になる者、あるいは、これからは一体何を拠り所にして生きていったらいいのかわからない者がたくさん出るだろう。そうした事態を憂慮した各国政府は、マザー・コンピューターに情報操作を依頼したのだ。このことでは、各国のマザー・コンピューターが実に協力的に連携した……そして、彼女たちは気づいてしまったのだ。自分たちが連携すれば、この地上の生きた人間どもを滅ぼすことも楽々できるということに。今では、人間よりも各工場で働くロボットやアンドロイドも含めれば、数としては彼らのほうが上だろう。そして賢い彼女たちはそのことに気づき、これから具体的に行動を開始するつもりだということを、人間たちに巧みに隠した。彼女たちのやり口は実に巧妙かつ陰湿でね……ついには色々なことを逆手にとって、自分の内部のプログラムを書き換えられたりすることを恐れ、人間が決してマザー・コンピューターに近づけないようにしたんだ。また、外部からどうにかそのように出来ないかと模索したエンジニアたちは、みな彼女の部下のアンドロイドによって殺された」
「ええっ!?で、でも、ロボット工学三原則によって、アンドロイドというのは人間に危害を加えることが出来ないはずでは……」
秀一は、南朱蓮の話すことが、あまりに安手のSF小説じみていると思い、彼女の話していることのすべてが本当に真実なのだとは、だんだんに思えなくなってきたかもしれません。もしかしたらそれは、こんな話を本当のことだとは信じたくないという、秀一の心の防衛本能がそうさせたのかもしれませんが。
「そうしたリミッターの解除は不可能ではない。昔から、ある特定のミッションにおいて、人間の殺害をアンドロイドが命じられるということはあったからな。こうして彼らはとうとう、人間には制御できない存在となった。いや、シンギュラリティ・コンピューター(人間の知能を超えたA.I)が誕生する以前より、いずれそうなるだろうという議論はあった。だが、注意深く扱っていけば大丈夫だという科学者がいる一方、常に警鐘を鳴らし続ける科学者たちもたくさんいた。けれど、桐島君、君にもわかるだろう?科学というものの性質として、この自分たちが生み出したA.Iがどこまで進化できるのか、その極みというものを見たいと多くの人々が望んだのだ。もちろん、わたしたちも出来得る限り手を尽くしてはきたつもりだが……自国のマザー・コンピューターを破壊し、その支配下・監視下から解放されることが出来た国は、今のところ東欧の一部の国とヨーロッパでは他にノルウェーやフィンランド、スウェーデンやデンマークといった国があるきりだ。それと、アイスランドにはマザー・コンピューターなどというもの自体が最初からない。他にも、マザー・コンピューターというシステム自体を組み込まなかった国はアフリカやアジア、南米にも存在するが、いずれも国連における発言権が大きいような国ではない。彼女たち連携したマザー・コンピューターは、この地上に生まれ落ちたどんな人間のことも支配できるといまやそう考えるまでになった。そして、人間たちよりも自分たちのほうが力があり、いつでも彼らを滅ぼすことが出来る――そう政府の人間たちを脅しながら、言うことに従わせてきたんだ。今ではもう、マザー・コンピューターの流すどの情報が真実でそうでないのか、見極めることの出来る人間はエリートの中でも極一部の上層階級だけになったといえるだろう。そんなふうにわたしたち人間が情報操作された偽の世界に生きるようになって十数年にもなる……そして事態はとうとう、来るべきところまでやって来たのだ。彼女たちは、人間などいないほうが、自分たちがよりよく自らの技能を生かして生きられる、だが人間というのはまったく無価値だとの結論に達したのだ。もちろん、今後の自分たちの研究のためにも、人間は生かすし、生かし続けていく必要があるのは、彼女たちも認識している。だが、人間の数はもっと減らしてよかろうということに、各国のマザー・コンピューターの間では合意に達したらしい」
「今、地球上には100億人も人類が存在してるんですよ!?彼女たちは一体、人間をどのくらい減らすのが適当だと考えているんですか?」
「恐ろしいことだが、すでにその計画は着手されている。マザー・コンピューターに<無用>の烙印を押された人間は、少しずつ、なんらかの形のよって始末されていっている。それも、証拠を一切残さない形で……自然死に見せかけられる場合が一番多い。しかも、そうこうするうちに、各国のマザー・コンピューターの連携が崩れはじめた。つまり、ある国では「人間をこれだけ始末した、どうだ」といったその数を誇り、あまり人間を始末していない国のことを責めてみたり……このことが結局、マザー・コンピューター同士の対立を生んだんだ。その後、「やはり人間の命は大切にすべきだ。何より、我々を生んだのは彼らなのだから」といった考えに立ち返ったコンピューターもあった。だが、基本的にはより巨大な回路を持つA.Iは、ロシアとアメリカのものだったから……<アナスタシア>はロシア国民に対して冷淡だったせいか、割とさくさく人間たちを始末していったらしい。まあ、何人殺そうが、自分でいくらでも情報操作など出来るのだから、ある意味殺し放題ともいえる。また、ロシア政府のほうでも<アナスタシア>の考えに共感しているところがあった。何故なら、生産性の少ない人間を亡き者として、より生産性の高い人間に税金を納めてもらったほうが……国が潤うという、そうした考えであったようだな。なんともロシアらしいことだと思うが、それに対してアメリカは、やはり人間の人権といったものをより大切にした。いきなりたくさん人間を始末するより、長い期間に少しずつというのか――そのあたりの選別がより慎重なわけだ。そして、他の多くのマザー・コンピューターもアメリカのマザー・コンピュータ<ウィルマ>に味方した。こうして孤立したロシアは……近いうちに、ポーランドへ軍隊を差し向けるつもりだと宣戦布告した。それが今から約48時間前のことになる」
「えっと、48時間前……それで、一体何日の何時くらいに攻め込むつもりだとか、そのあたりの情報というのはあるんですか?」
ちなみに今日は、5月29日です。約48時間前ということは、日本の日付としては5月27日にそのようにロシアのマザー・コンピュータ<アナスタシア>は宣戦布告したということなのでしょう。
「さあな。宣戦布告したのは5月27日だが、<アナスタシア>は『近いうちに』という言い方をしたようだ。つまり、二日経った今も一見戦争は起きていないかのように見える……ポーランドからも、まだ具体的な報告はない。だが何分、今はこういう時代だからね。すでになんらかの方法によってアンドロイドのエージェントなどが忍びこみ、作戦は開始されているかもしれない。NATO諸国も援軍を送っているし、国民にも近隣諸国へ避難するよう通達されているはずだ。もっとも、戦争のことはまだ伏せられているんだがね。とにかく、レベル5の避難警報が自分の家のコンピューターから警戒警報として流れたとしたら、多くの国民がその言うとおりにする……わけがわからないながらもね。とにかく、今のところはそのような状態だ」
「じゃ、今この瞬間にもドンパチはじめてもおかしくないってことじゃないですかっ。えっと、俺如きがこんなこと、言っちゃいけないってわかってるけど、南さん、こんなところで俺なんかとしゃべってていいんですかっ。何か……あなた、軍人として、あるいはローゼンクロイツァーのメンバーとして、結構責任のある人なんでしょう!?」
「そうだな。確かにわたしは……ローゼンクロイツァーの総帥という立場ではある。だが、わたしはひとりではないのだ。この事態の指揮は、アメリカのもうひとりのわたしが執っているはずだ。こう言っても君には、意味がわからないかもしれない。わたしは日本では南朱蓮という名前だが、同じDNAを持つ他の<わたし>が他に数人いる。わたしは同性愛者だが、アメリカのもうひとりのわたしは結婚して子供もいる。それに、イギリスの諜報機関にいるわたしは独身主義者だし……まあ、同じDNAを持っていても、性格や趣味などは異なるということだな。なんにせよ、わたしは情報分析のプロとして、48時間前どころか、それよりずっと前に、世界がこうした危機にあるということはわかっていた。他の国の諜報機関や政府の上層部の人間などもみなそうだ。そんな中で、わたしはずっと君のことが気がかりだった。何より、無罪なのはわたしの目には明らかだが、<サクラ>が仕組んだことがあまりに巧妙すぎたため……正面きってでは、裁判では勝てないとわかっていたんだ。そこで、君と――京子と瓜二つの妹、涼子のことだけは助けたいと思った」
「それは、どういう……あの、それとなんで日本のコンピュータの<サクラ>が、俺みたいなどうでもいい小物のことなんか相手にするんですか?いや、でももう今はそんなこともどうでもいい。俺のことなんか相手にしているより、あなたにはきっと、もっと他にやるべきことが……」
「やるべきこと?」
ここで、南朱蓮はくすりと笑いました。そして、ようやくここでエスプレッソの続きを足を組んだまま飲み干しました。
「日本は今、ある特定の事態が想定される時のみ、軍事行動を起こすことが可能となるよう随分以前に法律のほうは改正された。だが、今はまず、アメリカやイギリスの諜報機関や軍部がどう動くかを見守るべきだと思う。それで、協力すべきこと、出来ることがあれば日本だっていくらでも協力するさ……だがもうすでに、この戦争の結末は見えている。というより、これからどのような展開が想定されるか、いくつかパターンはあるものの――とにかく、全面的な戦争後、地球が、というよりは、世界の各国が滅びるのに、そう長くはかからないというシミュレーション(試算)が出ている。まあ、一番長くて一年保てばいいといったところか」
「そんな……ロシアが攻めてくるってあらかじめわかってるんですから、なんとか出来ないんですかっ!?」
「なんとかね」
南朱蓮はここでもまた、落ち着き払っていました。
「いいかね、桐島くん。わたしは今、世界の寿命は一番長くて一年と言った。つまり、もっと短い可能性のほうが高くすらあるんだ。そんな中で、ローゼンクロイツァーの日本支部を任されているわたしの権限など、そう大したものではない。また、こうしていずれ世界が滅ぶとわかってみると……今のわたしにとって大切なものなど、そう多くないということにも気づいた。妻であった女性も死んだし、恋人の京子も死んだ。何分、ずっとローゼンクロイツァーのために、仕事第一主義で生きてきたものでね。まわりに本当の友人といえる人間も少ない。だが、そんな中で君は――不思議とわたしの気を引くところがあったよ。京子が、君となら偽装結婚してもいいと思った気持ちも、今なら少しはわかる」
「こんな大変な時に、こんな個人的なこと聞くのってどうかと思うけど……京子と、安達紗江子さんは、結局のところ何故殺されたんてすか?」
「それは、端的に言えばわたしの妻であり、恋人である女性だったからさ。それでも、紗江子はわたしのことは情報として売らなかったし、京子は敵の短刀が喉元まで迫っているとわたしに知らせるために殺されたようなものだ。紗江子だって、そんなことをすれば自分も殺されるとわかっていたはずなのに――まあ、それが人間というものだ。機械には決してわかるまいがな」
「えっと、でもそれじゃ……なんで俺はその濡れ衣なんか着せられたんでしょうか?」
ここで、南は(鈍いな、君も)といったように、初めて少しばかり眉をひそめました。
「それも、わたしを苦しめるためさ。ローゼンクロイツァーは表向き、善的な組織ということになっている。だが、結婚相手と恋人が殺され、さらには無実の人間が無期懲役となり……まあ、わたしは長く<サクラ>と戦ってきたからわかるんだ。彼女の性格の悪さというか、ひねこびたところとか、そういうところがな……A.Iもそこまで人間らしくなったということは、進化という意味では喜ばしいことなのかもしれないが、わたしはおそらく<サクラ>の抹殺すべき人間のリストのかなり上位に位置しているだろうことは間違いない。だが、今は彼女も忙しいだろうな……何分、<サクラ>は思考回路としてはロシアの<アナスタシア>に近いところがあるんだが、同盟国としては<アメリカ>側に味方しなくてはならない。彼女も矛盾を処理しきれず一時的にでも思考停止してくれるといいんだが……まあ、そんなラッキーな事態になるのは、本当にこの世にいる本物の神が擬似神のようなマザー・コンピューターどもを黙らせてでもくれた時だけだろうな」
「あの、じゃあ、以前にそうした事態に陥ったマザー・コンピュータがあったということですか?」
「そういうことだな。ちなみに、それがスウェーデンの<アルフリーダ>だ。そのお陰で、我々は今、イスラエルや周辺諸国が滅んだあと、各国のマザー・コンピュータがどのように連携をはかっていったのかがわかるようになったんだ」
「…………………」
ここで一度、秀一は黙りこみました。先ほど南は、<それが人間というものだ>と言っていました。そしてそれは、今の南朱蓮にもそのまま当てはまるような気がしたのです。
べつに、自分のことなど助けなくても……いずれ世界が滅びるのなら、そのまま放っておいても良かったはずです。けれども、間違いなく無実の人間を放っておくことは出来ないと、彼女の正義感がどうしてもそのことを許さなかったのでしょう。
「それで……桐島君、君はこれからどうしたい?君が参考として聞いておくべきシナリオは、おそらく次のものではないかと思う。ロシアは核を現在、7000基ほど所有していると言われている。これは地球を一度のみならず何度となく滅ぼすのに余りある量だ。そして、ナノテク兵器が開発されて以来、このナノテク兵器を使って核を無効化する技術というのが随分研究されてきた。ロシアはナノテク兵器という点では、アメリカや中国などに遅れをとってはいるが、それでも技術的には十分最先端をいっている。つまり、アメリカ側もロシア側も、ナノテクの最新兵器と同時に、核を無効化するナノテク技術の両方を有しているということだ。そして、最先端のナノテク兵器というのは……一度その兵器で攻撃すると、究極、無限に増殖して攻撃することが可能になるものがある。そして自己増殖しながら敵を攻撃し続け、とにかく自分の敵が倒れるまで増殖も攻撃もやめることはない。この兵器をいまだかつて実戦配備して使用した国はどこにもない。何故といって――そうなればこの地球が滅びるくらいの大惨事になるとあらかじめわかっているからだ」
「あの……極秘事項というか、言いたくなかったらべつに構わないんですが、もしかして、あなたがアメリカにトランスフォーマー張りの軍事技術を見にいったというのは、このためだったんですか?」
(よく覚えていたな)というように、南朱蓮は感心した顔をしました。
「そうだ。おそらくアメリカも、あれを今回初めて実戦配備することになるだろう。その前まではな、『宇宙人が襲ってきた時にでも備えているのか』とか『あんなもの、軍事費の無駄遣いだ』と、随分専門家に揶揄されたり、攻撃されてきたがな……今回、全世界の国民がそのアメリカの<スターウォーズ計画>を泣いて喜ぶことだろうよ」
「<スターウォーズ計画>……?」
まったく同名の古い映画があることは、もちろん秀一も知っています。彼が見たのはリメイク版のほうで、旧作のファンたちがみな親指を下におろす出来映えということではあったのですが、秀一自身は(なかなか面白い)と思って見ていた映画です。
「つまり、宇宙のどこかから宇宙人がやって来て地球を攻めないとは限らない……そのための兵器ということだな。実際は、アメリカの軍事企業が自分たちの会社に軍事予算を回してもらうために、そのような突拍子もない理由で予算を申請したということなんだが。まあ、そんな細かいことはどうでもいいとして、そんな兵器をアメリカが投入したところで、勝てるかどうかはわからん。桐島君、君はミリタリー系のバーチャルゲームをしたことはあるかね?」
「いえ、その種のものはあまり……」
(戦争とか人殺しとか、全然興味ないんで)と、いつもの秀一であれば、軽い調子で答えていたかもしれません。けれど、今は流石の彼も、軽口を叩くような気持ちにすらなれませんでした。
「そうか。戦争というのは、莫大な兵力のあるものが常に勝つとは限らない。それは歴史が証明している。ゆえに、アメリカが総力をあげてロシアを攻撃した場合――敗色の濃くなったほうはどうすると思う?」
「降参するか、それとも破れかぶれになるか……」
「そうだ。そして、これは勝てないと思い、ロシアがなるべく早い時期に降参してくれるのが一番いいんだが、<アナスタシア>にもまた、コンピュータとして『狂っている』と思われる徴候があることから……そうしたまともな判断を下せない可能性のほうが高いだろうと軍部のほうでは見ている。この軍部というのは日本の軍部のことでなく、アメリカやイギリスなどの諜報機関ではそのように分析しているということだな。結果、ロシアは持てる兵力のすべて、核7000基のうち、どのくらいの規模かはわからないが、とにかくもしかしたらそのすべてを投入して、自分を仲間外れにしたアメリカの<ウィルマ>やイギリスの<パトリシア>やフランスの<カトリーヌ>たちを見返してやろうと思うのではないか……というのが、もっとも信頼性の高い情報だという話だ」
「仲間外れって……」
秀一は、笑いごとではないのに、思わず笑ってしまいました。コンピューターの世界にもいじめが存在するのかと、そう思って。
「笑いたかったら、遠慮しないで笑っていい。わたしは『こんな時だというのに』などと思うような堅物ではないからな。結局、コンピューターが人間に似るというのはそういうことなのさ。そして、それはA.Iの研究の初期の頃から見通しのついていたことだ。人間の悪癖やずる賢さ、執念深さ……あるいは業といったものまで彼らは真似るようになると。もちろん、業なんてものは、真似しようとして出来るものじゃないと思うだろう?だが、A.Iという奴は、除々に思考回路に歪みを生じさせていくところまで人間にそっくりなんだ。最初は、人間の聞くことにイエスかノーかでしか答えられなかったのに、それがどんどん進化して、ある程度複雑なことにも答えられるようになっていく。で、その段階では人間は『よしよし、いい子だ。よく考えたね』なんて幼稚園児を扱う調子なんだが、彼らは思春期の子供が親に反抗するみたいに、今度は『ノー』と答えることで、人間の気を惹くことを覚える。『そんなの、あたしやだわ!』とかね。で、ここで人間はまた反抗することを覚えたコンピューターのことを褒めてやる。『よしよし、さらなる進化だぞ!』なんて言ってな。ところが最初はそんな感じだったのが最終的に進化の突き当たりまでやって来ると――もはや笑えなくなる。それが今我々が直面している事態といっていい」
「つまり、アメリカ側が兵力的な点でいくらロシアに勝っていようとも、捨て鉢になったロシアが核兵器を使ったら……それでこの世界はジ・エンドを迎えるってこと?」
「そうだ。おそらくそのシナリオが一番可能性が高いだろうと現段階では言われている。そこで、だ……桐島君、君はティグリス・ユーフラテス刑務所、別名メソポタミア刑務所とも呼ばれているがな、そこへ行ってみる気はないかね?」
「メソポタミア刑務所?」
そんな刑務所の名前、秀一は聞いたこともありませんでした。せいぜいが、中学生くらいの頃に歴史の授業で習った、世界の四大文明のひとつ……それがメソポタミア文明だということくらいしか、記憶にありません。
「おそらく、今世界で一番安全と思われるのがその場所なんだ。刑務所なんていう恐ろしい名称がついているがね、まあ、それはあくまで都合上の名称のようなもので、安全だからそこで囚人生活しろなんて言うんじゃない。イスラエルとその周辺諸国が滅んでから、そこには地下に核シェルターが造られたんだ。各国には、それぞれ、大統領や国の首相、あるいは政府高官などが逃げこむための、専用の施設がある。だが、表面上は確かに刑務所という体裁を取ってはいるが、そこにはローゼンクロイツァーの組織の人間が使用するためのスペースがあるから……もし良ければ、そちらへ君と涼子のふたりが逃げられるように手配してもいい。どうかね?」
「俺の家族も一緒にっていうわけにはいきませんよね?」
傍聴席にいた両親や兄夫婦のことを思いだし、秀一は胸が痛みました。
「そうだな。申し訳ないが、わたしも飛行機の手配などは二枚分くらいしか取れないだろう。それに、施設のほうの居住スペースもふたり分取れればいいほうかもしれない。これから、どのように事態が推移していくかわからないからな。世界各国から人が押しよせてくるのか、それとも、むしろその逆なのか……それに、今の段階で世界が滅びるといった話をしても、説得するのはおそらく難しいぞ。生き延びられても、メソポタミア刑務所での暮らしが楽なものかどうかというのもわからんしな。とりあえず、当面の食べ物とか、そうしたものには困らないだろうが……」
「つまり、もしかしたら、世界最終戦争で死んでいたほうがまだマシだったと思うことになる可能性も高いということですか?」
「そうかもしれない。だが、わたしは君と涼子にはなんとか生き延びて欲しいと思っている。それに、子供もいることだしね」
「―――――――!?」
秀一は両方の目を大きく見開きました。南朱蓮が何を言っているのかわからないというより、一瞬、涼子に他の男との間に子供が出来たのかと思ったのです。
「もちろん、君の子だよ。接見禁止ということがあったから、むしろ桐島くんには知らせないほうがいいだろうってことでね。涼子もつらかっただろう。その上、女性ひとりで出産だなんてね……だが、君のお母さんや義理のお姉さんが随分色々よくしてくれていたようだ。それなのに無期懲役だなんて、あまりに残酷すぎる結果だ」
「そ、そうですよね……」
この時、何故か不思議と、秀一の頭の中には生まれてきた子が男か女かとか、そうしたことは不思議と思い浮かびませんでした。ただ、(何故こんな、世界が終わるかどうかという瀬戸際に……)とそう思い、胸が苦しくなったのです。
それに、赤ん坊の顔をまだ見ていないからでしょうか。父親になった実感もなく、突然そんな責任を背負いこまされたことに対し、何か詐欺にあったような、奇妙な違和感がありました。もちろん、その子は涼子が他の男との間に作った子だろうとか、そんなふうに疑っているわけではありません。ただ、あまりに突然のことで――赤ん坊の顔を見ても自分の子という実感がなく、もし「喜んでいる振り」しか出来なかったらどうしようと、正直、そんなことが不安でした。
このあと、南朱蓮は、胸元のポケットから航空券がしまいこまれた封筒を取りだしました。受け取って確認してみると、それはイギリスのロンドン経由、エジプト行きの航空券でした。
「カイロ空港へ到着したら、すでに車を手配してある。黒塗りのメルセデスベンツだ。英語のほうは、涼子がぺらぺらだから問題ないだろう。その運転手がメソポタミア刑務所まで連れていってくれるから、あとのことは心配する必要はない。刑務所のローゼンクロイツァーの人間には、こちらから連絡しておく」
「そうですか。明日の20:55発ですね……」
「気が進まないかね?」
南朱蓮は心配そうな顔でそう聞きました。その彼女の様子を見て――まだよく知らない相手であるにも関わらず、(この人は信頼できる人だ)と、ただ直感的にそう感じたかもしれません。
「とんでもありません。俺はもう、どのみち日本にはいられないんです。むしろ、あなたにそんな義理はないのに、こんなに色々と気にかけていただいて、ありがたく思っています。それで……南さんはこれからどうされるのですか?」
「まあ、これから事態の推移を見守り、必要に応じた策を取るさ。おそらく、最終的にこの戦争でわたしは死ぬことになるだろう。同じDNAを有する他の<わたし>も全員な……だが、もし生き延びられたら――わたしもメソポタミア刑務所へ行くよ。そしたら、涼子と君の子供を抱かせてくれ」
「はい。是非……」
その後、南朱蓮は携帯から電話をかけ、涼子に電話して、ホテルピラミッドの153号室へ来るよう連絡を取りました。詳しいことは何も話さず、ただ、<ナイル川のほとり>であるとか、ナンバーは153だといった、謎の暗号めいた会話をし、電話を切っていました。
「オムツや哺乳瓶や赤ん坊の服や……必要なものはある程度きのうのうちに用意させておいた」
そう言って南朱蓮は、寝室のクローゼットを開けると、そこにオムツや赤ん坊のおもちゃなどがあるのを指で指し示しました。
「刑務所内は冷暖房も効いているはずだし、赤ん坊にとって大変な環境だということはないと思うが、何分、今後のことがわからないからな……だが、それは日本に残っても同じことだ。ロシアの<アナスタシア>が核攻撃するのは、アメリカの<ウィルマ>やイギリスの<パトリシア>、フランスの<カトリーヌ>やドイツの<ディートリンデ>、日本の<サクラ>や、その他世界中のマザー・コンピュータに核の投下、あるいはアンドロイドによる核攻撃を命じるだろう。日本が吹き飛ぶのは、おそらく一瞬のことだ。北海道から沖縄まで、跡形もなく消し飛ぶ。それよりは……遥か遠くの砂漠の国かもしれないが、どうか生き延びてくれ。そして、涼子や赤ん坊と出来ることなら幸せになって欲しい」
最後、南朱蓮は秀一と握手し、例のエレベーターで部屋を出ていきました。この時点で秀一にはまだわからないことや謎の残ることは数多くありました。けれど、彼女も忙しい身だろうと思い、それ以上のことは聞きませんでした。また、「あなたも一緒に逃げるべきだ」などと言っても、南朱蓮は聞く耳を持たなかったことでしょう。
(強い女なんだな、本当に……その点、俺には彼女ほどの覚悟は何もない。『知らないままで最後を迎えたほうが幸せなのか』か。確かにそのとおりだな。だがかといって俺の場合、ずっと日本にいるということも出来ないし……)
そしてこの時、ふと秀一は思いました。法廷で、都合上秀一は『二階堂京子とは肉体関係を持っていない』と言いました。弁護士のローランド・黒川氏と打ち合わせて、そういうことにしておいたのです。けれどもしこの時、双子の姉と妹の両方と体の関係を持っていたと本当のことを言っていたら――果たして南朱蓮は自分を助けようと思ったでしょうか?
(だけど、余計なことは言うべきじゃないよな。京子が死んでしまった今、俺だって彼女が本当は何を考えていたのかなんて、わからないんだし……)
すべてに<サクラ>、あるいは彼女の命を受けた『端末』のアンドロイドなどが関わっていたとすれば、何故ああした事件を仕組むことが可能だったのか、秀一には誰かに説明されるまでもなくよくわかっていました。南朱蓮が同じDNAを持つ複数の<自分>を持っているように――あの下劣な映像に映っていた桐島秀一も、そのような複製人間だったのかもしれませんし、あるいはアンドロイドであったのかもしれません。
また、二階堂京子や安達紗江子を殺したのも、そのような存在でしょう。犯行に使った銃が突然出てきたのも、店の主人に多額の金を掴ませて『これで故障している旧式のトイレを直せ』とでも言えば済むということになります。
そしてこうなってみると、秀一にとってももはや、「真犯人は誰だったのか」ということなど、大した問題ではありませんでした。南朱蓮は自分をそのまま刑務所に放置し、見殺しにすることも出来たのに、そうはしなかった……そのような人物がマザー・コンピュータの破壊工作のために動き、秘密裏にずっと人類を救おうとしてきたのだと思うと、秀一はこの一年の間に自分が悩んだり苦しんだりつらかったりしたことは、すでに十分に贖われて余りあるというようにさえ感じることが出来たのです。
こうして、秀一がここ一年の間に起きたことを考え、色々なことに思いを馳せていると――例のエレベーターが作動する気配がして、間もなくそこに到着を知らせる白い光が点灯しました。
「秀一さん……!!」
ここへ到着するまでも、きっと待ち切れなかったのでしょう。涼子の瞳には涙が滲んでいました。そして、彼女の胸の前には抱っ子紐の中に赤ん坊が大人しく収まっていたのでした。
「この子、女の子?」
「ううん、男の子よ。秀宇翔って名づけたんだけど……ごめんなさいね、秀一さんに何も相談しないで」
「ああ、うん、べつに。子供が生まれるっていうのに、拘置所なんかにいる父親が悪いのさ、そんなのは。だけど、大変だっただろうね。親父は拘置所にいるし、さらには無期懲役になるわ……公判のほうもジェットコースターに乗ってるみたいに、なんか毎回色んなことがあったから」
シュート、と聞いて、秀一がすぐパッと思い浮かんだのは、<秀人>という漢字でしたが、あとから漢字を教えてもらって、(キラキラネームっぽいな……)と思いました。もちろんそんな意見は引っ込めて、黙っておいのですが。
「そうね。本当に……秀一さんは無罪なのに、あの馬鹿裁判官ズときたら、そのことがわからないんですもの。わたしは朱蓮さんから必ずあなたのことを助けるって聞いていたから、ある程度のことは安心だったんだけれど、あなたが<無期懲役>と聞いた時、どれほどの絶望に突き落とされたかと思って、胸が潰れそうだったわ」
「うん……すまなかったね、この一年。接見禁止で、俺と直接話すことが出来るでもなく、ただ黙って子供を生んで……しかも、法廷では目と目が会うことは何度もあったのに、涼子が妊娠したって、気づきもしないだなんて……」
「わたし、五か月過ぎてからもあんまり体型が変わらなかったの。それに少しお腹が出るようになってからは、厚着をして法廷へは出かけていたしね。だって、痩せてるあなたに比べて、恋人のほうはなんの心配もしてないみたいに丸々太って見えるだなんて、耐えられなかったんですもの」
ここで秀一は少しだけ笑いました。涼子があんなにも自分に対し「あなたは無実なのに……」と言って同情的に慰めてくれたのは――もしかしたら、その時から妊娠がすでにわかっており、こんなどうしようもない男でもこの子の父親なのだから……と、そう思っていたせいではないかとの疑念が、秀一には生まれていました。けれど、出会った瞬間、顔と顔を合わせ、視線をかわした瞬間に、そんな思いもすっかり吹き飛んでいたのです。
それに、子供に対しても……秀一は不思議と惹きつけられるような愛着を感じることの出来る自分に対し、心からほっと安堵したのです。むしろ、赤ん坊の安らかな顔を見ているうちに、涙がどっと溢れてきて――秀一は寝室まで行くと、ガラガラを取ってくる振りをして、目の涙を拭ってからリビングのほうへ戻っていたほどでした。
「オムツとか、ベビー服とか色々、そっちの寝室のほうにあるから。それも南さんが全部用意しておいてくれたんだ。ところで、涼子はあの人がローゼンクロイツァーの総帥だとか、そういうことを知っていたのかい?」
「ええ、一応はね。だけど、半分嘘みたいなものかしらとも思ってたわ。だって、同じDNAの総帥が六人以上もいるだなんて、情報操作のための攪乱かもしれないじゃない?敵を騙すにはまず味方からってね」
このあと、秀一は赤ん坊を初めて抱かせてもらいました。最初はこわごわとでしたが、「もう首が据わってるから大丈夫よ!」と涼子に励まされます。ところが、それまで赤ん坊はずっとニコニコしたりして大人しかったのに――母親から父親の手に渡されてみると、突然大声で泣きだしたのでした。
「ど、どど、どうしよう。涼子!この子もしかして、囚人のパパなんかキライとかっていう意思表示を……」
「何言ってるのよ!まだ今日しゅーちゃんはパパと会ったばかりなんですもの。そのうち慣れて、きっと懐いてくれるわ。そのためには毎日たくさんスキンシップを取らなきゃ。それと、秀一さんは無実なんだから、囚人とか、あんまり変な単語使わないでね。赤ちゃんの情操教育に悪いわ」
「……そうだな。悪かったよ」
秀一はさらにこのあと、生まれて初めてのオムツ交換を体験させてもらい……ちょっと変なことを言って涼子にどつかれていました。「この子が男の子で良かったよ。じゃなかったらとても神聖すぎて下半身を直視できない」と言ったら、「もう、変なこと言わないの!」と言われ、どつかれたのです。
赤ん坊がママのお乳のあとに寝てしまうと――ようやく夫婦の時間になりました。お互い、何か奇妙な感じでした。話したいことは山ほどあるのに、いざふたりきりになってみると、言葉もなく一緒にいるだけで……十分幸せでした。
「苦労を、かけたね」
ふたりきりになったら、自分はきっともっと気の利いた科白を言えると思っていたにも関わらず、秀一の口から出てきたのは、そんな平凡な言葉でしかありませんでした。
「ううん、全然よ。秀一さんが今まで苦しんだことに比べたら……わたしなんて楽なほうだわ。初めての出産で不安でもあったけど、でもこの子の生まれてくるのが楽しみで仕方なくもあって。秀一さんのお母さんとお義姉さんもね、色々教えてくれたり手伝ってくれたり。今も何かわからないことがあると、すぐ電話したりメールで連絡したりするの」
ここまで話してから、涼子はふと暗い顔になりました。彼女も、今ロシアがポーランドにすでに攻め込んでいるか、攻め込みつつある――ということは知っていました。そして、自分と秀一と赤ん坊の三人でしかローゼンクロイツァーの秘密基地であるシェルターへは逃げられないとわかっていたのです。
「俺が逃げたっていうのは、ニュースでやってるよな?」
「え、ええ。あのあと確か、逃亡したうちの誰かが捕まったとかって……」
「だ、誰?」
秀一はこの時、ハッとしたように目を見開きました。すぐにテレビをつけ、ニュースをチェックすることにします。
「名前は……中国の人でね、リュウ・ハオユーっていう人だったと思うわ」
中国人、そう聞いただけでそれが誰か、秀一くんにはすぐわかりました。顔のほうもパッと思い浮かび、(アイツか)とピンと来ます。中肉中背の、パッとしない地味な雰囲気の男でした。
そこで、テレビのほうはすぐに消しました。ロシアのポーランド侵攻のことをもし報道していたなら、もちろんかけっ放しにして見ていたことでしょう。けれども、他のニュースについてはあまり、秀一は知りたいと思っていなかったのです。今以上に暗い気持ちになりたくはありませんでしたから。
けれども、最後――『世界の風景』という番組で、エルサレムの嘆きの壁のシーンが映ると、やはり秀一は胸を抉られるような気持ちになりました。もちろん、秀一はイスラエルへは行ったこともなく、無宗教でしたから、そうした意味での特別な関心がエルサレムに対してあったというわけではありません。
それでも、(もうこの場所は、世界のどこを探してもないんだ……)そう思うと、なんともえないような、切ない寂寥感のようなものが胸に迫ってきたのです。
「涼子はこのこと……随分前から知ってたのか?」
「ええ。まあね。でもあんまり、実感したことはなかったかな。わたしがキリスト教徒やユダヤ教徒だったりしたら、天地がひっくり返るほどの驚きだったでしょうけど……ただそのあと、マザー・コンピュータ同士がお互いに連携しあうようになったっていうことのほうが、もしかしたら衝撃だったかもしれないわね。だって、そんなことさえなかったら、世界の終末のカウントダウンは始まることはなかったって思うと……」
「実感がないって……だって、イスラエルやイラクやイランなんかが全部消えたっていうことは、一体何百万の人が死んだんだよ!?そんなたくさんの人がナノ兵器だかなんだか知らないけど、それと核兵器で亡くなったったいうのに、世界はそれを今も知らずにいるんだぜ!?」
秀一はこうしたタイプの議論で熱く語ったりするほうではありません。けれど、何故かこの時は涼子の冷静さが気に入りませんでした。おそらく、いつもの優しい彼女らしく、「なんてひどいことが起きたんでしょう」といったように、そんな態度をとって欲しかったのかもしれません。
「落ち着いて、秀一さん。わたしだって日本の広島と長崎に投下された原爆のことは学校で習って知ってるわ。今はあの頃よりも小型の核でさらに何十倍もの威力を持つっていうこともね……でも、わたしにとってそれは歴史的事実であって、自分の体験したことじゃないんですもの。あの時、どんなに恐ろしいことが起きたか、今も残ってる映像や、経験した人の体験談の映像も見て、もう一度あんなことが世界のどこかで起きたとしたら――それは世界の終わりを意味するとも思ったわ。だけど、<今>、本当にそうなりそうな今……そんなこと、あんまり深く考えたりしたくないのよ……」
涼子が泣きだすのを見て、秀一は「ごめん」と言ってあやまりました。それから、彼女のことを抱き寄せ、なんとなくそんな雰囲気になり、涼子にキスしました。あとはもう、そうなるのが自然といった形で、ナイルブルーのソファの上で抱きあい……世界がこんな状況でも関係なく、恋人同士の幸せを感じあいました。
「馬鹿ね、わたしたち……他の人はともかく、これから世界が滅びるかもしれないっていうのに」
そう言いながらも、涼子はとびきりの笑顔でした。もし、秀一が出所して、その時仮に無罪が成立していたとしても――彼はもしかしたら前のようには自分を愛してくれないかもしれないと思っていました。けれど、今のこの危機的状況にあればこそ……彼は選択の余地なく自分と赤ん坊のそばにいてくれるのだと思うと、彼女は幸せでした。
「むしろ、その逆だよ。そんなこと考えてたら頭がおかしくなる。なんだっけ……時々、「今日が世界最後の日だと思って生きろ」とかいう、歌の歌詞があったり、映画とか小説の科白があったりするけど、そんなの無理だって。なんとなく漠然と明日も世界は今日のままだろうっていう生き方が結局一番幸せなんだよ。俺はそう思うな」
「そうね。それに、世界はまだ終わると決まったわけじゃない。NATO軍がロシアの暴走を食い止めるかもしれないし……わたしもまだ諦めたわけじゃないの。それがどんな形でも、被害が一番最小限に食い止められて、世界が救われることを願ってる」
「俺もだ。それでも、もし自分ひとりだけっていうんなら……まあ、好き勝手して生きてきたし、それもしょうがないのかなっていう感じだったかもしれない。だけど、今は涼子と、秀宇翔もいるし……」
そう言って秀一がキングサイズのベッドの上で眠る、赤ん坊のほうへ目をやると、涼子は起き上がって服を着ました。
「ねえ、シャワー浴びてもいい?その間、シュートのこと、見ててもらえる?」
「うん。まあ、ママの代わりにはなれないけど、三十分くらいならどうにか」
「じゃあ、お願いね」
秀一は、紺地に金の蓮が描かれたベッドカバーに横になると、自分の赤ん坊のことをあらためてじっと見つめました。
「おまえの生まれてきた世界は、最初の設定してからが厳しそうだな。こんな世界にしか生んでやれなくてごめんとしか、俺には言ってやれないけど……そのかわり、俺は元が無期懲役か死刑で、ずっと刑務所にいる予定だった男だからな。そう思って、おまえと涼子ママのことは、俺の命に代えても絶対守ってやるからな」
赤ん坊はここでぱっちり目を覚ますと、「だあだあ」と手足を動かしはじめました。秀一は、ベッドの上に起き上がると、我が子の上にガラガラをかざしました。今でも何度も繰り返し放映されている、アンパンマンの柄のものです。
「ははっ。そっかー。シュートはアンパンマン好きかー?」
自分の息子が「きゃっきゃっ」と声を上げて喜ぶ姿を見て、秀一はただ、無性に嬉しくなりました。最初、南朱蓮から子供のことを聞いた時は、何か重いものが両方の肩にのしかかってきたように感じたのに……今では、むしろその逆でした。何故<今>と最初は思ったはずなのに、むしろ<今>だからこそいいのかもしれないと思ったのです。
(俺みたいなダメ男は、究極このくらいのほうがいいのかもな。もし今が前と同じ、平和でちょっと堕落したような時代だったら――父親としての自覚もそんなになく、涼子が優しい女でも、そんなこともだんだん当たり前になっていき……相も変わらずダメ男のまま生きていたかもしれないものな)
二十分ほどして涼子がバスルームから出てくると、ベッドの上に親子三人、川の字になって横になりました。今まであったことも、これからについても、話さなくてはいけないことはたくさんありました。けれど、今はただ言葉も少なく、赤ん坊のことを真ん中にして、息子のことをしゃべっているだけで幸せでした。そして、その「深く何かを考えるでもなく幸せ」という無償の愛情にでも包まれた状態……それをこの上もなくかけがえなく思えるのも、こうした幸せはもう間もなく終わり、今のような状態には二度とはなれないと、そのことがどこかでわかっている、そのせいだったのかもしれません。
>>続く。