第6章
秀一が留置場に放り込まれて、約一か月後……<二階堂京子・安達紗江子殺害事件>についての第一回公判がはじまりました。
担当検事の蛇尾田蛇男は、痩せぎすの、若干蛇に似た顔立ちをした男でした。怜悧な顔に薄い唇を引き結び、そこから二股に分かれた赤い舌こそ出てきませんでしたが、もしそのようなものを傍聴席の人々が見たとしても、特に違和感を覚えないくらい――その男は全体的な雰囲気として蛇感を滲ませていたと言えるでしょう。
起訴状朗読、冒頭陳述と続き、次に証拠調べの段になると、蛇尾田はまるでマジシャンが「さあ、ご覧あれ!」とマジックを披露する時のように、事件の証拠品をひとつひとつ得意げに提出していきました。
「証拠品、甲一号証から甲六号証!殺人の被害者、二階堂京子の殺害現場にあった被告の指紋がついたグラスや食器類などです。殺害現場は被害者のマンション自宅、そして、これらはテーブルの上に置いてあり、その近くに被害者、二階堂京子は死亡した状態で倒れていました」
この検事の主張に対し、弁護士側の反論はこうでした。実をいうとこの日、弁護士として立ったのは二階堂涼子ではなく、同じ弁護士事務所のローランド・クロカワでした。
「確かに、それらの証拠品は、被害者二階堂京子の部屋のリビングにあったものではあるでしょう。ですが、正確には二階堂京子、それに二階堂京子の双子の妹、二階堂涼子の指紋、それに被告人桐島秀一のものと言ったほうがいいでしょう」
「弁護人、それはどういう意味ですか?」
裁判官の質問に、ローランド・黒川は余裕しゃくしゃく顔でこう答えました。父親が日本人、母親がイギリス人のハーフであるせいか、なかなかイケメン度の高い青年でした。また、本人に悪気はないのでしょうが、少しばかり立ち居振る舞いに高貴で優雅なところがあり――まあ、悪い意味でいえば、何やら鼻につく若造だなといった印象の男だったといえたでしょう。ちなみに年齢のほうは32歳です。
「被害者である二階堂京子が殺された夜、あの部屋には双子の妹の二階堂涼子と被告人の桐島秀一がいました。そして、先ほど提示された証拠の品々は、二階堂涼子と被告人桐島秀一が食事したものだったのです。おわかりになりますか?つまり、確かに被告人は被害者が殺された夜、二階堂京子の部屋にいることにはいた……が、彼が会っていたのは双子の妹のほうだったのです。裁判官!被害者、二階堂京子の妹、二階堂涼子を証人として呼びたいのですが、よろしいでしょうか?」
「異議あり!」
すぐに蛇尾田が不自然なくらい真っ直ぐに右手を上げます。
「食事をしていたのが姉の二階堂京子なのか、それとも二階堂涼子なのかは問題ではありません!とにかく、あの場に被告人の指紋やDNAが数多く残っていたことが問題なのです!!」
「却下します。弁護人、証人を呼んでください」
裁判官の声に促されるように、二階堂涼子が証人席に着きました。ローランド・黒川が、最初から打ち合わせてあった質問をします。
「あの日、あなたが被告人と被害者のマンション自宅で待ち合わせたのは何時ですか?」
「午後の五時です。ですが、桐島さんは遅れて、六時くらいにやって来ました」
「それで、ふたりで話をしたりしながら食事を楽しんだということですか?」
「はい、そうです。何分、明日はふたりで区役所のほうに婚姻届けを出しにいく予定でしたから」
ここで、法廷がざわつきました。起訴状朗読の中で、「被告人は被害者である恋人の二階堂京子のマンションを訪れ……」といったように説明がされていましたから、双子の妹がこう告白したことで、驚きが法廷を駆け抜けていったのも無理はなかったでしょう。
「おかしいですね。被告人である桐島秀一が交際していたのは、あなたの姉の二階堂京子さんのはずではないのですか?」
「姉はそもそも、同性愛者なんです。それで、今現在すでに施行されていますが――<独身税>を回避するために、桐島さんとはおつきあいをはじめられたそうです。もちろん、お互い合意の上でです」
「つまり、偽装結婚ということですね?」
「はい。ですが姉は……姉の二階堂京子は、途中でわたしに桐島さんとおつきあいしてみないかと言ってきたんです。双子だから入れ代わってもわからないし、また仮にわかったとしても、『ごめーん。バレたあ?テヘペロ』で桐島さんはわかってくれるノリのいい人だっていうことで……姉は女性と遊ぶことが大好きな人だったので、桐島さんとわたしがつきあえば、一石二鳥だと考えたみたいです」
「一石二鳥とは?」
「その……姉は桐島さんのことが好きだったんです。姉がそういうふうに男性のことを気に入るっていうのは珍しいことで、だから彼となら偽装でも結婚してもいいと思ったんだと思うんです。でも、何故わたしとのデートを仕組んだかというと、わたしが割と男性に対して奥手なので……気楽なつきあいというのをたまに経験してみたらどうって最初は言われたんです。だけどそのうち、わたしのほうで桐島さんのことを本当に好きになってしまって……」
「それで、自分が実は双子の妹であると黙ったまま、偽装結婚しようとしたんですか?」
「はい。でも、わたし……というか、わたしのことを桐島さんはその時もまだ姉の京子と認識していたわけですけど、お互い、異性として『好き』ということでは一致してましたから、いつしかそれは偽装結婚ではなくなっていたんです。その後、姉の二階堂京子が亡くなってからですけど、わたし、実は姉と入れ代わって何度もデートしてたっていうことを打ち明けて……」
「なるほど。それで、被告人の桐島秀一はあなたのその気持ちに応えてくれたのですか?」
「は、はい。もし、自分の無実が証明されて無事釈放されたとしたら、その時は結婚しようって……」
「異議あり!異議あり!!異議あり!!!」
あまりに真っ直ぐすぎる挙手によって、蛇尾田はまたも抗議しました。
「その女……いえ、証人は、この弁護士ローランド・クロカワと同じ法律事務所にいる美人……いや、美人かどうかはどうでもいい。とにかく、同じクロスハート法律事務所の従業員ですぞっ!!そんな者の証言をまともに取り上げるなぞ、どうかしているっ。第一、今証人の述べたことが真実であるとした場合、彼女もまた容疑者ということになりますぞっ。あるいは、被告人と恋仲となり、姉の存在が邪魔となったため、ふたりで共謀して被害者を殺害したという可能性もあるっ!!」
「確かに、その件については今後さらに捜査を進める必要があります。が、それはのちほど反対尋問してください。今のところは弁護人、このまま話を続けてください」
「つまり、今回証人に証言していただいた要点はこういうことです。証拠品として提出された品は、六時から十時の間に被害者マンションのリビングで双子の妹の二階堂涼子と被告人の桐島秀一が使用していたものなのです。みなさんもご存じのとおり、双子というのはDNAまで一緒ですが、指紋はそれぞれに違いがあります。また、あの場所が被害者の自宅であったことを考えると、グラスや皿から二階堂京子の指紋が出てくるのも当然のことだという、そういうことです」
「わかりました。ですが、こちらからもひとつ証人の二階堂涼子さんに質問します。あなたはいつ自分がお姉さんと入れ代わっていたと被告人に告白するつもりでいたのですか?また、被害者の二階堂京子さんは偽装結婚目的で被告人桐島秀一と接近したはずなのに、それだと結局、お姉さんの二階堂京子さんは独身税を支払うということで納得していたということですか?」
二階堂涼子は、落ち着いた雰囲気の五十台の裁判官の目をじっと見つめて答えました。ちなみに、富樫勇一という名前の、彼もまた法曹界のエリートの家系に生まれた人物でした。
「実は……戸籍上、結婚するのは姉ということで、わたしとは取り決めがしてありました。つまり、わたしは今後もずっと独身で、独身税を支払い続けるということです。わたしにしても、桐島さんとそんなに本気のおつきあいということになると思ってなかったのですが、姉のその条件で不満はありませんでした。わたしとしては、ただ、桐島さんのそばにいられれば、本当にそれだけでいいと思っていましたから」
「ですが、その条件ではおかしくありませんか?あなたは先ほど、お姉さんが亡くなってから自分が実は彼女の双子の妹であると告白したとおっしゃいましたよね?普通なら、愛する人と同じ戸籍に入りたいと思うものでしょうし、今後色々と不都合なことも生まれてくるのではないですか?たとえば、子供が出来た場合などがそうでしょうね。そうしたことを話しあう過程でお姉さんと揉めたりといったことはなかったのでしょうか?」
「ありません」
二階堂涼子は裁判官の顔を見つめたまま、穏やかに答えました。
「そもそも、双子というのはとても奇妙というか、不思議な繋がりがあるものなんです。わたしは桐島さんが姉と結婚して同じ戸籍に入るという形でもまったく気にしませんでした。そうした形でも自分が本当に愛する人と一緒にいられさえすればそれでいいと思っていたんです。それに、わたしのほうでもなかなか本当のことを言う勇気がなかったものですから……それで、こんな形で桐島さんは真実を知るということになってしまったんです」
このあと、検事、蛇尾田蛇男による、証人に対する鋭い反対尋問がありました。
「裁判官が質問されたことと、重複する部分もあるかもしれませんが、どうぞご勘弁ください。証人、あなたはこのローランド・クロカワ弁護士と同じ、クロスハート法律事務所の従業員ですね?」
「はい、そうです」
裁判官に向けていた時とは別の、少し険しい顔つきで、涼子は答えました。
「それで、被害者の二階堂京子の双子の妹にして、被告人の恋人でもあるというわけですか。裁判官、こんなおかしな話は、私が検事になってから聞いたことがありませんよ。しかも、こちらの二階堂涼子弁護士先生は、毎日のように弁護士として接見室へ被告人に会いに行っている……もちろんそれは、仕事だからといえば、まったくそのとおりではある。が、もしこちらの二階堂涼子弁護士が姉を殺していた場合、さらには、被告の桐島秀一と共謀して双子の姉を殺害していた場合、弁護士としての知識を駆使して、証拠隠滅のための相談をしたといったことも考えられうる。何分、凶器の銃のほうはまだ発見されておりませんからな。裁判長!私は二階堂涼子が弁護士として今後被告人桐島秀一と接見することを禁止していただきたいと考えます」
「認めます」
裁判長は言いました。
「二階堂涼子さん、あなたは弁護士なのですから、理由のほうは説明しなくても理解できますね?あなたには姉の二階堂京子さんを殺害する動機があったとわかった今、あなたと被告人桐島秀一の接見を今後禁じます。理由は、証拠隠滅や事件の口裏合わせをする可能性のあるためです。ただし、共謀の疑いが晴れた場合においては、弁護士として会うことを許可します。以上!」
――こうして、桐島秀一の<二階堂京子・安達紗江子殺害>に関する第一回公判が終わりました。検事の蛇尾田蛇男にとっては、予想外の出来事の起きた公判だったでしょうが、ローランド・黒川と二階堂涼子にとっては、概ね自分たちのシナリオ通りに第一回公判は終わったと言えたかもしれません。
何故かというと、殺された二階堂京子の双子の妹である二階堂涼子が被告人である桐島秀一と恋仲であることがわかれば、接見を禁止されるというのはあまりにも当然のことです。また、涼子自身もこれから姉殺しの容疑者として出廷し、再び色々なことを検事から質問されるということになるでしょう。
この時、クロスハート側の弁護士陣営にとって大切だったのは、実は次のようなことでした。これから、例の問題となる動画やセクサロイド連続殺人事件(一般にニュースなどでそう呼ばれていました)のことを検事の蛇尾田が出してきた場合……桐島秀一が二階堂涼子のような清楚な雰囲気の女性と心から愛しあえるまともな男だ――との心証を裁判官や裁判員たちに前もって植えつけておくということです。
そして、<二階堂京子・安達紗江子殺害>に関する第二回公判時、検事・蛇尾田はまるで伝家の宝刀とばかり、例の動画を法廷で披露してきたのでした。
「現在の日本では、アンドロイドを殺しても、問われる罪は器物損壊罪です。ですが、この動画に映る男の異常性は、誰が見ても明らかです。提出した資料のほうに、大体似た方法によって陵辱、破壊されたアンドロイドの女性十名の名前と殺害された日時、製造年月日や製造されたメーカーなどが記載されております……さて、被告人。今みなさんにご覧いただいた動画は、2127年9月30日に機能停止したアンドロイド・シェリーがレイプ・破壊された時の映像です。日本でこうした事件が起きるのは稀ですが、海外で同種の事件というのは多数起きており、彼らはアンドロイドのコールガールで自身の欲望や殺人欲求を満たし、それにも飽き足らなくなると、今度は現実の女性をレイプ、殺害するという事件を起こすようになります。このことから、アンドロイドのコールガール――まあ、一般にセクサロイドと呼ばれる娼婦業に特化したタイプのアンドロイドを激しく損壊したような場合は、警察へ届けでるように通達されています。何故なら、その後、自身の欲求を押さえきれず、実際に今度は本当にリアルな女性のほうを殺害してしまう場合があるからですね。まあ、こうしたことは一般常識として、誰もが知っているようなことではあります。そこで被告人に質問します。アンドロイド・シェリーが殺害された時の映像、これはあなたご本人で間違いありませんね!?」
「確かに、先ほどの映像に映っていた人物は、俺に似ています。ですが、俺ではありません。といって、今のところ、その日どうしていたかというアリバイは俺のほうにはありませんが……このリストに名前のある十名の女性のうち、二名のアンドロイド女性のことは覚えています。あとから教えてもらった店の記録によれば、2127年の9月、それに翌年の3月と4月に家のほうへ来てもらっています」
「ほほーう」
蛇尾田検事は、被告人席の前を無駄に行ったり来たりしてから、話を続けました。彼は本当はスキップしたいのを、退廷を恐れて我慢していました。
「確かにそのようですな。2127年9月30日にアンドロイドのコールガール事務所にシェリーさんのことを頼み、翌年3月21日と4月7日にアンドロイドのコールガール、ナターシャさんのことを自宅へ来るようインターネットで手配した……それで、自宅へ呼んだあとはどうされたのですか?」
「異議あり!本法廷は二階堂京子と安達紗江子殺害に関するものであり、検察官の今の質問は本件とまったく関係がありません」
「却下します。検察官の質問は妥当です」
ローランド・クロカワはチッと舌打ちしたいのを堪えて、弁護人席のほうに沈みました。
「えっと、説明するまでもないことだと思いますが……シェリーさんもナターシャさんもアンドロイドのコールガールです。自宅へ来てもらったあとは、俺は酒を飲みながら彼女と話をし、そのあとはまあ……彼女たちが造られた目的であることをしたといったところです」
「ようするに、性行為、セックスをしたということですね?」
「平たく言えばそういうことなんでしょうね」
秀一は、外見上は比較的冷静そうに見えました。もっとも、実際のところは心臓はバクバクいうし、手のひらにも汗をかいていました。けれど、そうした狼狽した態度を見せては容疑が強まると思い、必死にそのように見せかけていたのです。
「ところで、アンドロイドのナターシャさんのことですが、2127年の3月21日に呼び、翌月の4月7日にまた部屋のほうへ呼んでいますね。二度も同じ女性を呼んだということは、彼女のことを相当気に入っていたということですか?」
「いえ……気に入っていたというか。正直他のアンドロイドのコールガールでも、誰でもよくはありました。でも、あれこれ考えて選ぶのが面倒で、それで先月も呼んだ子のことを指名したんじゃないかと思います」
「ほーう、ほーう、ほーう」
スキップしたいのを堪えるあまり、蛇尾田は若干不自然な動きで歩いてみせてから、突然クルリと秀一のほうを振り返ります。
「こちらで調査したところによりますと、被告人はどうやら、これまでいわゆるリアルな女性とのおつきあいというのはないそうですな?」
「異議あり!今の質問は本件となんの関係もありません」
「却下します。被告人は検察官の質問に答えるように」
突然、検察官だけでなく裁判官までもが自分の敵に回ったような気がして――秀一はすでに心が折れそうでした。
「その、まったくないってわけじゃありませんよ。学生時代はまあ、なんとなくつきあっていたようなガールフレンドもいましたし、今も女友達は多いほうではないかと思います」
「では、初めての性体験はいくつの時でしたか?」
「異議あり!今の質問は被告人のプライヴェートなことに関する質問であり、本件となんの関係もありません!!」
「検察官、その質問は本当に本件に関係のある、重要な質問ですか?」
「はい。被告人が被害者である二階堂京子や安達紗江子を何故殺害するに至ったか、その背景を説明する上で非常に重要です」
「では、被告人は検察官の質問に答えてください」
秀一はもはや、この法廷全体が自分の敵のように思われ、眩暈すら起こしそうでした。けれども、必死に一点を見つめ、この屈辱的な質問にも答えることにしたのです。
「十八歳の時です。というのも、俺は四月生まれなんですが、十八歳になると国から給付金をもらえるようになります。そこで、俺は最初の給付金が支給されると、バーチャルセックスも出来るリアルドールをローンで購入しました」
「つまり、あなたが童貞を卒業したのは、リアルドールを相手にしたバーチャルセックスによってということですね?」
「はい、そうです」
不思議なことだったかもしれませんが、傍聴席のほうではくすりとも笑いのようなものは洩れてきませんでした。いえ、聞こえないくらい小さな声で笑ったり、咳払いしたようなことはあったかもしれません。また、心の中では確かに『おいおい、キッツイ質問やな~』とか、『やあだ。恥かしい~』といったように思った人はいたでしょう。けれども一方で、大手インターネット調査会社が行なったアンケートによると、特に男性の場合、バーチャルセックスで童貞を卒業した、あるいはアンドロイドのコールガールで……というのは、今やパーセンテージとして六割を越えているくらいでしたから、それが現在日本でのリアルな現実というものでもありました。
「では、今までの間、二階堂京子さんと交際するようになるまで、リアルな女性と深いおつきあいになったことはないのですね?」
「確かに、事実としてはそうです。でも、こういってはなんですが、俺は自分があまりモテないとか、女性に相手にされないといったように思ったことはありません。ただ、リアルな女性とのおつきあいというのは何かと面倒だと思ってきたというのは事実です。結婚すると大抵互いの給付金で何のためにどっちが何の支払いをするかとか、そんなことで揉めるって言うでしょう?それなら、俺は老後が仮に孤独でも、自由気ままな独身生活というのを送っていきたいと考えていただけなんです。だって、変な女性とうっかりつきあってしまって給付金をふんだくられるとか、あまりによく聞く話ですし……そういった理由によって、確かに俺はリアルな女性との交際というのを避けてきました。でも今の世の中の男性の多くが俺と同じ考え方をしているというのは一般によく知られた話ですし、俺はそう珍しいことだとは思っていません」
「たーしかーに、そのとーりではありますねえ~」
舌を出したら二股に分かれていないのが不思議な雰囲気の蛇尾田が、そんなふうにゆっくりした口調で言うと、いかにも不気味でした。
「ですが、今桐島さんはおいくつでしたっけ?」
「……今年でもう三十になりました」
「ほうほうほう。では、もう十分分別のある立派な一人前の社会人ということになりますなあ。それで、十八歳でバーチャルセックスで童貞を卒業して以降は、月に一度くらいのペースでアンドロイドのコールガールを家にお呼びになっていたのですか?」
「いえ、ほんのたまにです。ほら、なんだかひとりで寂しいなと思ったり、何か励まして欲しいなと思った時とか……嫌なことがあった時とか」
「なるほど。ご自分では、性欲が強いほうだと思いますか?」
「それは、わかりません。自分では普通だと思います。男なら大体こんなもんだろっていうか」
「こんなもんだろっていうのは、具体的には?」
「ええと……」
「異議あり!検察官は具体的にと言いましたが、質問に具体性を欠いています」
「異議を認めます。検察官は一連の質問によって被告人より導きだしたい客観的な事実を明示してください」
蛇尾田は、手を後ろに組むと口の中で(チッチッチッ)と舌打ちしていました。傍聴席のほうは今日も満席でしたが、彼が思っていたほどの盛り上がりは、今のところ感じ取れていなかったからです。
彼自身は(あれ?変だな。こういう話はみんな、もっと食いついてくると思ったけどな)と思い、若干アテが外れていたかもしれません。
「つまり、私の申し上げたい結論は、こういうことです。十八歳の時にラブドールとのバーチャルセックスで初体験、その後、リアルな女性とのおつきあいというのはほとんどなく、いつも性的な処理のほうはそちらかアンドロイドのコールガールの女性……そして今、三十歳ということは、十年以上もそのような独身生活を送られているというわけですよね。ということは――その過程で、被告人の性的欲求というのは歪んでいったという可能性はないでしょうか。これは同種の、アメリカであった非常に有名な事件ですが、アンドロイドのコールガールを六十数体レイプ行為のあと惨殺し、次に本物の人間の女性を二十八人殺した男と共通しています。彼曰く、アンドロイドの女性というのは人間の女性に極めて近いのと同時に、やはり殺してみると物足りないということでした。中の構造を一度解体してみると、胸や性器や表面上の皮膚、あとは顔のほうなどは極めて精巧に造られているわけですが、脳や内臓などは軽量化された機械が詰まっているだけですからね。正直、興醒めした彼は、アンドロイドの女性相手では勃起しなくなってしまった。そこで今度は、生きた人間の女性のほうに性欲と殺人衝動のすべてを向けるようになったということでした。つまり、私としましては、被告人にもそのような心の変化がどこかであったのかどうかということを明らかにしたいのであります。質問を続けてもよろしかったですかな?」
「異議あり!ミッチェル・カーソン事件については、ここにいる人で知らない人はいないでしょう。二十八年前に起きたあの事件によって、アンドロイドやロボットの人権運動が活発になり、アンドロイドやロボットはあくまで法律としては物体、物質、物という範疇ではあるにしても、それでも最大限、その人権を尊重し配慮すべき……という憲章が採択されたのです。ですが、本件の被告人、桐島秀一をかの連続殺人犯と同一視することは出来ません。先ほど、被告人本人から供述があったとおり、被告人はむしろ、今の日本という国における平均的な、どこにでもいる一般的な青年のひとりに過ぎません」
「裁判長!最初に証拠品として提出した動画のことを今一度思い起こしてください。あの動画の中の人物と桐島秀一とは同一人物である可能性が極めて高い。というのも、シェリーの店の店長は、バラバラに破壊されたシェリーをパーツごとに再利用したわけですが、その中で唯一、使いものにならないある場所を保存しておいたそうです。そこで、そちらの被告人のDNAと比較したところ、これがまあ、面白いくらいピタリと一致したのですな!」
「そのあるパーツというのはどこのことですか?」
微塵もなんの表情も感じられない真顔で、裁判長は聞きました。
「女性器ですよ!そこから検出された精液と被告人のDNAがピタリと一致したんです。こちらの証拠の品につきましては、のちほど提出致します」
「そうですか。ですが、器物損壊の時効は半年ですからね。その風俗店のオーナーは何故そのような物を事件から一年以上も経っているのに、その上再利用も出来ないというのに保存しておいたんですか?」
裁判長は真面目な真顔でした。もちろん、個人的な興味で聞いているのではなく、被告人を計画的に陥れるために仕組まれた可能性もゼロではないことから、そのように聞いていたのです。リストに名前の上がっているアンドロイドのコールガールたちが働いている店は、いかがわしいその手の店がひしくめく界隈にありましたから、ありえない話ではありませんでした。
「さあ……何分ああした店を経営している男ですからね。少しそのあたりのモラルが人とは違うのかどうか。監視カメラに犯人が映っているのに届け出なかったのも、面倒な厄介事に巻き込まれるのが嫌だったからのようですよ。まあ、風俗店のオーナーとしてはいかにもありがちな理由と思いますが」
このあと、ようやく<安達紗江子殺害>の件について秀一は検事・蛇尾田より質問を受けはじめました。
「被害者、安達紗江子とは、いつどこで知り合ったのですか?」
蛇尾田はここからが本番とばかり、眼鏡を無駄に磨きながら、再びスチャ!と装着してそう聞きます。
「3月24日の深夜……だったのだろうというのが、一番合理的な答えなのではないかと思います」
「随分おかしな答え方ですね。いいですか、あなたには他にもうひとり、殺人の容疑がかかっているんですよ。そして、3月24日の深夜といえば、その人物、二階堂京子が死んだ夜ということではないですか!しかも、二階堂京子の死亡推定時刻が午前零時から三時の間、また安達紗江子はその翌日に死亡しています。二階堂京子も安達紗江子も、殺され方はまったく同じ――頭を二発、銃で撃たれて絶命しています。もし、被告人がこのふたりの女性を殺したと仮定した場合、恋人だった女性を殺した翌日に……いえ、この場合、まず二階堂京子を零時から三時の間に殺し、その後安達紗江子と初めて知り合ったということになりますよ。まさか、そんなおかしな話が……」
「異議あり!安達紗江子と被告人とは、深夜にバーでその日初めて会ったということですが、この件についてはそもそも事実関係の裏付けが取れておりません。また、被害者である安達紗江子の部屋からは確かに、被告人のDNAが出ては来ました。その中で特に興味深いのが、ベッドシーツや枕に付着した被告人の髪の毛や唾液等です。しかしながら精液といったものは確認されませんでした。こう考えると、夜のバーで初めて会って関係を持つに至った――という事実自体が怪しいものになって来ます。むしろ、何者かによる思惑により、被告人は本殺人事件の犯人に仕立て上げられたという可能性が濃厚となるのです」
「弁護人の異議を認めます。被告人、安達紗江子とは3月24日の深夜にバーで出会ったということですが、具体的に深夜の何時くらいのことですか?また、彼女とはその日初めて会ったというのは本当ですか?」
裁判官の質問に答えようとして、秀一は暫し考えました。もちろん、このような質問が出ることは最初から想定済みであり、ローランド・黒川ともシミュレーションをしてあったのですが、やはり一連の流れから自分は圧倒的に不利だとのプレッシャーが……口を開くのを戸惑わせたのかもしれません。
「その前に、その前日のことから話させてください。3月23日、俺は二階堂涼子と会っていました。彼女と別れたのは夜の十時くらいです。そして、自分の家へ戻って酒を飲みはじめました。ですが、俺の記憶はそこで途切れてしまっています。俺は意識がなくなる直前、自分のリビングにいるものと思っていました。そしてそこで眠ってしまったものと……ところが、次に目が覚めると、名前も知らない女性のベッドで眠っていたんです。それが会ったこともない女性、安達紗江子さんでした」
「ハッハァ!!みなさん、今のお聞きになりましたァ?しかも、この被害者である安達紗江子は、彼と会って別れた約二十時間後に死んでるんですヨォ?こんなおかしな話がありますかね……ワッハッハッ……と、こりゃ失礼。安達紗江子の死亡推定時刻は、3月24日の午後十一時から二時の間です。こんなに短期間に被害者と接触した女性がふたりも同じ方法で死ぬだなんて、どーお考えてもありえないとしか私には思えませんがねェ」
「それでも、俺にとっては、それが唯一の真実なんです。誰かが、俺のことをハメるためにそう仕組んだのだとしか思えません。リビングで飲んだ酒に何かが入っていて、誰かが俺を安達紗江子さんのマンションへ運び、彼女を殺した容疑を俺に向けるようにしたのだとしか……」
自分でも話していて、(誰もこんな話、信じてくれっこない)としか、秀一にも思えませんでした。けれどもこのあとすぐ、今度は弁護人による質問がはじまりましたので、彼は心底ほっとしました。
「さて、先ほど被告人が検察官の質問に答えたことが真実であったと仮定した場合……あなたが被告人のマンションで目覚めた時刻は一体何時だったのですか?」
「3月24日の午後三時半頃です」
ローランド・クロカワは、優しい微笑を浮かべ、裁判席のほうを見返して言いました。
「おかしいですね。恋人と別れたのがその前日の午後十時頃……では、帰宅したのは何時頃ですか?」
「午後十一時頃です」
「では、そのあと飲みはじめて、何時頃にお酒で正体不明になったか、ある程度の時間を答えられますか?」
「いえ……そもそも正体不明になるほど飲んでなんかいません。ただ、飲みはじめてそう時間の経たないうちに睡魔に襲われたということだけは確かです」
「ほう。もし仮にあなたが自宅で飲んでいて、その時飲んでいた酒に何か入っていたとしても、次の日の三時半まで一度も目が覚めずに熟睡しているだなんて、なんだか奇妙ですねえ。それで、状況として、被害者安達紗江子の部屋で目が覚めた時、どのような状況だったのですか?」
「服を、着ていませんでした。もちろん、彼女も……けれど、個人的な感覚として、亡くなった安達紗江子さんという女性と関係を持ったようには……俺には思えませんでした。けれど、彼女はそう言っていましたし、ということはそうなんだろうと。あと、彼女の部屋でベーコンエッグを挟んだベーグル、それにコーヒーを飲んで帰ってきたという、そんな感じです」
「その時の安達紗江子の態度は?」
「なんというか……友好的でした。記憶がなかったにしても、一応考えられる一番の可能性としては、家で酒を飲みすぎて、そのあと外を徘徊してさらに飲み、そこで安達紗江子さんと出会ったということでした。第一、彼女もそう言ってました。店に来た時からかなり出来上がっていたって」
「なるほど。その時、どこで飲んでいたか覚えていますか?」
「覚えていません。ですが、俺が酒を飲むとしたら二軒くらいしか行きつけはないんです。それは、家から歩いて通える距離の場所で……『ジルコニア』というバーと『ルッコラショ』という居酒屋です」
「ここで、私はこの二軒の店を訪ねて聞いてみることにしました。3月24日の深夜、被告人桐島秀一さんが店に来られていたかどうかと。ところが、来ていないっていうんですよ。酒に酔って翌日記憶がないくらいで、店に来た時には相当出来上がっていた……ということは、行ける場所は限られてるんです。何故かといえば、酔っ払っていて途中から記憶がないにも関わらず、無事家まで帰ってきたという経験を、酒が好きな人であれば誰でも一度くらいは経験したことがあるはずです。これは、記憶を司る海馬や短期記憶をためておく前頭前野はお酒に弱いのですが、頭頂葉にあるナビゲーションニューロンと呼ばれる神経細胞はお酒に強いからです。つまり、桐島秀一さんがお酒に酔っていてもいける範囲というのは、そのくらいだということなんですよ。タクシーを呼んだのなら、携帯に履歴が残っているでしょうし、何より執事ロボットにでも「タクシーを呼んでくれ」と頼んでいるでしょうが、そのような指令の記録もなかった。何より、執事ロボットの記録として残っているものも、リビングで眠る被告人に3月24日の零時三分頃毛布をかけているというのが最後です。つまり、一度ここで執事ロボットの記録は止まり、翌日は朝の六時から活動を開始しています。一番近い最寄り駅の監視カメラにも被告人の姿はなかった……これは一体何を意味していると思いますか?」
「異議あり!」蛇尾田の腕は今日も絶好調に真っ直ぐでした。「被害者・安達紗江子はそんなことをして、一体どんなメリットがあったというのですか?第一、意識のない男の体を自分の部屋にまで運ぶなど、女ひとりの手ではほとんど不可能ですよ。つまり、被告人は嘘をついているんです。被告人は以前より安達紗江子と知り合いか何かだった。そして、何かのことで言い争いになり、被告人は安達紗江子を殺したんですよ。その前日にもひとり殺していることを思えば、ひとり殺すのもふたり殺すのも同じだった――違いますかな!?」
「検察官の意見を却下します。弁護人、続けてください。また、検察官はこちらの許可なくあまり長く意見を述べないように。これは警告です」
蛇尾田はチッと舌打ちして、椅子に座り直しました。ローランド・クロカワは余裕たっぷりといった表情のまま、続けます。
「つまり、被告人は嘘を言ってはいないということです。ただ、今検事の蛇尾田氏がおっしゃられたように、安達紗江子にそのようなことをして、どんなメリットがあったのかはわかりません。また、被告人に容疑のかかっている、もうひとつの前日にあった二階堂京子殺害事件も、翌日殺された安達紗江子も、頭を二発撃たれています。これはどう考えてもプロの犯行である可能性が高いわけですが、被告人が仮に何者かに嵌められたと想定した場合、安達紗江子は二階堂京子を殺した犯人と共謀していた可能性があります。また、安達紗江子は二階堂京子の元同僚であり、安達紗江子は南朱蓮という女性と結婚しているのですが、南朱蓮は同じ同性愛者の二階堂京子と不倫の関係にありました。おわかりいただけますか?二階堂京子は不倫している南朱蓮が妻と別れないため、被告人桐島秀一と結婚するのを機に、彼女と別れています。また、安達紗江子とは結婚関係が冷めきっていた……この場合、動機という点のみに絞った場合、南朱蓮こそが、一連の事件の真犯人である可能性が浮上するのです。二階堂京子とは、ヨリを戻そうとしたのに、彼女が首を縦に振らなかったか何かしたんでしょう。そこで、嫉妬深い性格をしていたという彼女の復讐の矛先は、被告人桐島秀一へ向かった。そして、妻の安達紗江子と共謀し、桐島秀一のことを安達紗江子のマンションへと運んだ……そしてその後、妻の安達紗江子のことも殺したのです。こうして南朱蓮の復讐は終わった。何より、桐島秀一に罪をなすりつけることが出来たことで、今ごろテレビのワイドショーを見ながら、ほくそえんでいるのではないですか?」
最後、ローランド・クロカワは「次回の公判で安達紗江子の妻、南朱蓮のことを参考人として招致することを要請します」と言って、弁護人側の質問を終えました。公判のほうにかかった時間は一時間ほどでしたが、秀一はぐったりと疲れきっていました。
涼子は接見禁止令が出ているため、あれから秀一には会いに来ていません。代わりにローランド・黒川氏が涼子の差し入れを持ってきてくれていましたが、ここで秀一は少し落ち込んだかもしれません。ローランド・黒川氏がとても有能な良い人なのはわかるのですが、二階堂涼子の隣にいて似合うのは、どう考えても彼のような人間だとしか思えませんでしたから。
(なんでわざわざこんなグレードの高い男が俺の弁護士なんだか。もっと頭のハゲかけたような人情派の弁護士とか、そんなので俺は十分なのに……)
唯一、ローランド・クロカワ氏の左手に指輪の嵌まっていることだけが、秀一にとってほっとする点だったかもしれません。けれども、黒川氏自身はもちろん何も悪くないのですが、きっと彼の奥さんは物凄い美人の、彼と見合う学歴のエリートなのだろうと思うと……それはそれで、何か心の腐るものがあったかもしれません。
ハーフゆえの容貌の良さ、弁護士としての優秀さ……それに、彼は物腰も柔らかで、男の秀一から見ても人間としてとても魅力的でした。ところが、何度目かの接見の時、「お子さんは何人いらっしゃるんですか?」と聞くと、彼はきょとんとした顔をしていたものです。
「え?子供かい?僕はゲイだからね。夫は男だよ。もちろん、養子をもらうことも出来るけど、僕たちは今のところふたりだけの生活をエンジョイしたくてね」
この言葉を聞いた瞬間、秀一は目が点になったものでした。それまで秀一は――今彼は留置場から拘置所のほうへ移ったので、ひとりで考える時間が腐るほどあるのです――ローランド・黒川が幾多の女性にモテてきたであろうことに対し嫉妬し、また、酔った勢いか何かで涼子と寝たことも一度くらいならあるかもしれない、短期間ながらつきあっていたこともあるかもしれない……そんなことを想像しては、時々ローランド・黒川を憎みそうになったことさえあったほどでした。
けれど、そのローランド・黒川の一言で、秀一は嫉妬の霊のようなものが自分の体から離れて成仏したような気さえしたものです。そして、<二階堂京子・安達紗江子殺害事件>の第三回公判へ向かう前に、そうした経験をしていたことで……何か、二階堂京子の不倫相手である南朱蓮の気持ちがわかるところがあったかもしれません。
もっともそれは、あくまで南朱蓮が仮に嫉妬を動機に元恋人の二階堂京子のことを殺し、別れる原因となった秀一にその罪を着せようとしてのことだったとしたら、ということではあるのですが。また、秀一が一度だけ会った安達紗江子は、とても<いい女感の漂う美女>といった印象ではあったのですが、結婚には向いてなさそうな冷たさを感じさせる女性でもありました。もちろん、たったの一度、それもほんの短い間一緒にいただけなのに、何がわかると言われてしまえばそれまでではあります。
けれど、<二階堂京子・安達紗江子殺害事件>の第三回公判で南朱蓮が証人として呼ばれ、彼女の容姿や話す様子を見ていて、彼女の人柄についてはある程度わかるところがあったかもしれません。南朱蓮は性同一性障害なのかどうかまではわかりませんが、自衛隊の制服とは別の迷彩服ファッションで身を固めており、かなりのところ男っぽい雰囲気の女性でした。髪の毛のほうは茶褐色に近い赤毛でしたが、秀一の受けた印象としては、ストリートファイターのキャラクターのひとり、キャミィに少し似ています(ただし、彼女は179センチの長身で、肩幅が広く、若干怒り肩気味の体型をしていたのですが)。
ちなみに、職業のほうは自衛隊の情報調査部に所属しているということでした。
(確かにそれなら、離婚した場合、結構な慰謝料が発生しそうだものなあ)
また、南朱蓮の職業がわかった途端、秀一にはあることが理解できたような気がしました。つまり、ふたりがどこで知りあったかはわかりませんが、それでもお互いに国の機密に関わる仕事をしているということで、その部分でおそらく気が合ったのではないかと。
それとともに、自衛隊の情報調査部に所属しているということは……秀一のような<一般市民>に罪を着せる手法にも通じていそうだという気がしました。つまり、秀一が昔読んだ小説によれば、その家の住人が留守の時に執事アンドロイドの入れ替えを行い、その家でその後アンドロイドが見たり聞いたりしたことはすべて情報部のほうに筒抜けになる――といった、そうした種類のこと全般についてです。
けれど、それでいて秀一は、南朱蓮が検察官、弁護士それぞれの質問に答える姿を見ていて、彼女が犯人とはとても思えない気がしていました。彼女は柔らかな物言いで話す女性で、簡潔で好感の持てる話し方でもありましたし、醸しだす雰囲気も職務に忠実な軍人そのものといった信頼感の持てる感じがしましたから。
「では、二階堂京子が殺された夜も、安達紗江子が殺された夜もあなたはお仕事をされていたのですね?」
「その通りです」
南朱蓮は律儀な口調でそう答えていました。また、服装のほうも迷彩服ファッションではありましたが、かっちりとした身綺麗な着こなしであり、法廷に対して何か思うところがあるというわけではなさそうです。
「アリバイのほうは、防衛省の情報調査部のほうに直接お訊ねいただければ、証明されるはずです」
蛇尾田蛇男も流石に、南朱蓮に対しては若干低姿勢でした。もともと、長いものには巻かれろ的性格なのか、それとも権力に弱い質なのかはわかりませんが、防衛省情報調査部の大佐といえば、エリートの中でもさらにエリートの、選ばれし者しかなれない職業と地位でしたから。
「では、まず安達紗江子さんとの御関係についてお聞かせ願えますか?」
まるで、南朱蓮のように立派な人間が相手では、いつもの調子が出ない……とでもいうように、蛇尾田は低調子に尋問を開始しました。
「安達紗江子は、わたしの妻です。夫婦別姓で婚姻届けを出しましたので、苗字は違いますが」
「御結婚されて何年ですか?」
「お互い、二十五歳の時に結婚しましたから……今年で八年目です」
「なるほど。結婚生活のほうはいかがですか?しっくりいっているほうですか?」
「いえ、実は、三年ほど前から別居しています」
ここで、<別居>という言葉を聞いて、蛇尾田は突然どこか嬉しそうに両手を広げていました。まるで、他人の不幸は密の味とでもいうように。
「そ~でしたか~。申し訳ありませんが、別居の理由などをお聞きしても……?」
「まあ、よくある理由ですよ。性格の不一致というね。わたしも彼女も仕事で忙しく、すれ違うことが多かったということもあったでしょうが、突き詰めて言うとすればそういうことです」
「では、安達紗江子さんが殺害されたあのお部屋には、今は一緒にお住まいではないのですね?」
「そうです。彼女がどんな場所に住んでいるのかも知りませんでした。それに、わたしが外に愛人を作って、出ていったあと、一緒に暮らしていた家のほうは一年ほど前に処分したんです。その後、妻と会わなくてはいけない時には外で会っていましたから、彼女のマンションへ行ったことはありません」
「そうですか。では、もし仮に安達紗江子さんのマンションの部屋からあなたの指紋が出てきたとすれば、それはかなりおかしいということになりますね?」
「さあ……どうですかね」
南朱蓮は、口許を片手で覆って笑っていました。もちろん、声を外に出すことはありませんでしたが、(自分を疑うなど馬鹿ばかしい)とでもいうような、蛇尾田に対する嘲笑を手で隠しているかのようでした。もしかしたらあるいはただ単に(こんなに顔が蛇に似てる奴っているんだな)と思い、笑っていたのかもしれませんが。
『まったく、おまえは無能な検事だな』とでも言われたように、蛇尾田のほうでは若干イラついたかもしれません。確かに、南朱蓮の態度には、日頃から男を顎で使い慣れているといった威厳がありましたから。
「わたしは妻と五年の間一緒に暮らしました。自分でこんなことを言うのもなんですが、妻のほうがわたしに惚れているといったような関係性でした。ですから、彼女がわたしとの思い出の品をずっと持っていたとすれば、そこからはわたしの指紋も出てくるかもしれません。またもし……これは可能性として低いことではありますが、もし紗江子が何か嫉妬の気持ちからわたしと愛人関係にあった二階堂京子を殺したのだとしたら――わたしを苦しめるために自殺したという可能性もあるかもしれません。もちろん、後頭部を自分の手で二発撃てる人間はいませんから、そういう種類の人間に依頼して殺してもらった、ということですが」
「何故、そんなことをおっしゃるのですか?何か、最後に被害者と会った時にでも、そうしたことをほのめかすような発言があったということですか?」
「いえ、そうしたことはありません。ただ、わたしは妻の紗江子に離婚したいとは繰り返し言っていましたから……いつまでも承知しなかったということは、実は紗江子は京子に対してそのくらい嫉妬するところがあったのだろうかとは、少しばかり思わなくもなかったものですから」
「ふむ。ですが、それだとおかしくありませんか?あなたが完璧なアリバイで守られている時に、二階堂京子さんが偽装結婚しようとしていた被告人に罪を着せようとするだなんて?」
「理由は簡単ですよ。妻の紗江子は大の男嫌いだった。わたしたちは仲間内では自分たちのことをレズビアンといったようには呼びあいませんが、一般的にそう言ったほうがわかりやすそうなのでそう言いますが……レズビアンの中には、男のゲイの場合と違って、結局のところ最後は男性と丸く収まって結婚してしまうような場合があります。紗江子はそうした女性を心底軽蔑していましてね、わたしは紗江子に何も言っていませんでしたが、レズビアン同士の集まりか何かで、京子が男と結婚するらしいと聞いたんでしょう。その後、紗江子から電話がかかってきました。『一体、あなたと京子の関係は今どうなっているの?』とね。『京子の偽装結婚のことは聞いている』とわたしは答えました。『君が離婚してくれないから今こんなことになってる』ということもね。すると、妻は怒ってガッチャリ電話を切ってしまいました」
「な、なるほど、わかりました。では、妻の安達紗江子があなたにその電話をしてきた日にちはわかりますか?」
蛇尾田のいつものどこか支配的な態度というのは、南朱蓮にはまったくなんの効果も及ぼさないようでした。むしろ、この蛇のような検事をひとつ手玉に取って遊んでやろうといったような余裕さえも垣間見えるかのようです。
このあと、南朱蓮は携帯に残っていた記録から、妻から電話の来た日時について、2129年の2月19日とすらすら答えていました。さらに、蛇尾田から「実際に最後に会ったのはいつかお答えいただけますかな?」と聞かれ、その問いについては「去年の暮れに一度、偶然デパートで会いました」と答えていました。
極めて珍しいことですが、蛇尾田はまるでこの時証人に気圧されてでもいるような体で尋問を終えていました。そして、次に弁護人であるローランド・黒川が証人である南朱蓮に質問を開始します。
蛇尾田がどことなくすごすごといった体で検察官側の椅子へ戻っていったのが、ローランド・クロカワには印象的だったかもしれません。
「殺害された奥様の安達紗江子さんと最後にお会いになったのは、2129年の12月の暮れということでしたが、具体的な日付などは思い出せますか?」
「12月29日とか30日くらいのことだったと思う。そこのデパートの地下には、京子の好きなケーキ屋が入っていて、それを買って帰るところでした」
(それもまた、なんだか残酷な話ですね)という個人的な意見は胸に収め、ローランドは質問を続けました。
「それで、その時は偶然すれ違って立ち話をしたという程度だったのですか?」
「いえ、同じデパート内にある喫茶店に入って、一時間くらいでしょうか。お互い、パンケーキや紅茶を頼んだりして、話をしたんです」
「その時――つまり、安達紗江子さんと電話でではなく、直に会って話したのはその時が最後と思うのですが、奥さまとは一体どんなお話を?」
「お互いの共通の友人についてなどです。紗江子は男嫌いでしたから、話に出た人物は全員が女性の同性愛者であったように記憶しています」
こうした場所へ呼ばれるのは初めてではないのかどうか、南朱蓮はすっかり落ち着き払っており、その態度は鷹揚ですらありました。また、ローランド・黒川のほうでも、彼女と目と目が合った瞬間――何故だか、(わたしは女が専門だが、お宅は男が専門なんだろう?)と見抜かれたような気さえしたものです。
「では、その時には離婚のことや、不倫相手の二階堂京子さんのことなどは話題にのぼらなかったのですか?」
「ええ。おかしな話、紗江子の中では二階堂京子という人間は存在しないようになっているらしいんですよ。わたしが離婚の話をしようとすると、耳を塞いで気違いのようになって『聞きたくない!!』と叫びだす始末でしたから……わたしのほうでももう、離婚の話も京子の話もしないようになっていました」
「ですが、本気で離婚しようと思ったら、離婚調停するという道もあったのではありませんか?」
「そうかもしれません。ですが、わたしも仕事で忙しい身なものですから、離婚調停まで背負えるような時間はとても取れそうにありませんでした。そんなわけでずるずると長く良くない関係が続いたのだろうということは、今になって反省しています」
「ところで、被告人はあなたの不倫相手であった二階堂京子さんと偽装結婚しようとしていました。このことを聞いた時、どう思われましたか?」
「もちろん問い詰めましたよ。何故そんなことをするんだ、と」
ここで南朱蓮は溜息を着きたいのを堪えるような仕種をしました。そして、初めて少し疲れたような顔の表情を見せました。
「京子はわたしに、紗江子とはっきり別れて欲しかったんだと思います。そうした気配は前から感じていましたし、わかってもいましたが、かといって紗江子の性格上、わたしにもどうにも出来ない問題でしたので……『今ふたりでいて楽しければそれでいいじゃないか』といったような、わたしのほうではそうした態度でした。けれど、わたしが離婚して結婚してくれないせいで、<独身税>を取られるようになるだなんてとても堪らないと、京子はそう言うんですよ。わたしとしては、偽装とわかっていてもいい気はしませんでした」
「そのことで、京子さんとの間では口論になったりしましたか?」
「そうですね。お互いの間の関係に亀裂が入るとか、その予兆を感じたとか、そうしたことはありませんでしたが……京子が当事件の被告人である桐島秀一氏とデートするという時には、わたしは不機嫌になりました。また、彼女のほうではわたしのそうした様子を少し意地悪く眺めているようなところがあったと思います。ですがまあ、離婚できない自分が悪いわけですから、仕方ありません」
「質問は変わりますが、二階堂京子さんの妹の二階堂涼子さんのことはご存じですか?」
「ええ、知っています。わたしと京子の住む部屋に、何度も遊びに来たことがありましたから」
「では、被告人・桐島秀一が、途中から双子の姉の代わりとして妹の涼子さんとデートしていたことは?」
「もちろん知っています。わたしがあんまり苦虫を噛み潰したような顔をしていたので、京子も少し考えたんでしょう。『デートには妹の涼子を行かせることにした』と言っていました。そちらの被告人は、たぶん妹とのほうが性格的に合うと思うから、と。ですが、涼子と偽装結婚相手の関係がうまくいっても、京子は<独身税>を課されるのが嫌さに、戸籍上は彼と結婚することにするという。もちろんわたしは反対しましたが、京子のほうは『だったらあなたが離婚してわたしと結婚すればいいじゃない』と……まあ、そんなわけで、この時は少しばかり深刻な言い争いになったかもしれません。こののち、わたしは仕事の都合で日本を離れなくてはならなかったのですが、むしろこのことを好都合と考えて、お互いに頭を冷やすのにいい期間だと思うことにしたんです。そして、その間に彼女は死んでしまった……」
法廷へやって来て、この時初めて南朱蓮は涙を流していました。彼女が検察官・弁護人それぞれの質問に答える過程で――顔の表情や声のトーンといった話ぶりから推して――おそらく、この瞬間が一番感情を露わにした瞬間だったかもしれません。また、南朱蓮は男が別れた妻のことを悪しざまにいい、若い新妻のことを過保護なまでに愛する時のように……というほどではなかったかもしれませんが、安達紗江子のことは随分長く頭痛の種としか思っておらず、二階堂京子のことを生涯のパートナーと考えていた……といった雰囲気は、彼女の供述を聞いたすべての人が抱いた印象だったに違いありません。
「ちなみに、日本を離れていた期間はどのくらいですか?また、二階堂京子さんと一緒に暮らしていた部屋をあとにした日時は?」
「アメリカへ一月ほどです。出立したのは3月14日の午後の便ですね。アメリカ軍の軍事施設の見学へ行っていたんです。他に、少々別の任務のほうもありまして……日本には購入の予定もなく、またその必要もないトランスフォーマー張りの最先端アンドロイド戦闘機を見せていただいたりして、とても有意義な時間を過ごしました」
「では、帰ってきたのは?」
「4月25日ですね。刑事さんたちは、自衛隊の事務所のほうへ何度も電話してきて、同居人が死んだという事実を知らせ、なるべく早く帰国してもらうことは出来ないかと、何度となく言ってきたと聞いています。ですが、わたしの所属は軍部のインテリジェンスを扱う、非常に機密性の高い部署なものですから、わたしは自分が帰国するまで京子が殺されたとは知りませんでした。もしそのことを彼らがわたしに知らせたら、動揺のあまり任務に差し障りが出ると判断したのかもしれません」
ローランド・黒川は、南朱蓮には完璧なアリバイがあると打ち合わせの段階でもちろんわかっていました。それでも、今改めて彼女の落ち着き払った態度を見ていると……何か疑いの気持ちが積乱雲のようにむくむくと心に湧いてくるのを感じたかもしれません。つまり、そのような機密性の高い部署であればこそ――出入国時に自分以外の誰かのパスポートを(アメリカのCIAなどのように)使用することが実は可能だったのではないのだろうか、と。
けれど、その疑念は一度振り捨てることにしました。それに、邪魔な存在だった妻だけでなく、本当に愛していたらしい二階堂京子のことまで殺害する理由というのが、今のところ見つかりませんでしたから。
「そうでしたか。では、妻の安達紗江子さんのことについてお聞きかせ願いたいのですが……彼女は殺される前日、被告人桐島秀一のことを深夜のバーかどこかで拾い、自分の部屋まで連れ帰ってきた。そして、深酒をしていた被告人と一夜の関係を結んだ……これは、証人のよく知る妻の行動として、どのような意味を持つものだと思いますか?」
この時、南朱蓮は、再び口許を隠して笑っていたようでした。もちろん、妻も愛人も殺されており、その証言の席で笑うというのは不適切な行為であるかもしれません。けれども、誰もがそのような彼女の態度を「許容範囲内」のものとして見ていたといっていいでしょう。
「本当に、そちらの被告の方がもし無実であるのなら、わたしがこう証言することで救われて欲しいと願います。妻の安達紗江子が、それが仮にどのように立派な経歴を持つイケメンであったにせよ、一夜をともにするなどということは絶対ありえません。また、朝目覚めるとお互い裸で横たわっておられたそうですが、彼女のほうでは具体的に性行為を行うなど論外であり、男とひとつのベッドに横たわっているだけでも虫唾が……いえ、失礼。被告人の方を侮辱しようというのではないのです。ただ、彼女は本当に男嫌いで、今では日常生活に支障をきたしていたくらいなんですよ。何故といって、この世の約半分は男性で人口が占められているわけですし、どこへ出かけるにも男性の姿というのは目につき、また、何かの拍子に肩と肩がぶつかるということもある……紗江子はそうしたすべてを嫌悪していました。つまり、逆にいうとするなら、その紗江子が<そこまでのことをした>――このことには必ず何か、それだけの理由があるはずなんです」
「では、被告人はあなたの妻の安達紗江子や他の誰かの陰謀に陥れられたのだということですか?」
「もちろん、そこまでのことは断言できません。確かに、わたしは三年前に妻とは離婚したも同然ですから、その三年の間に紗江子のほうで何か人生観に変化があったのかどうか、そういったことまではわかりません。ですが、彼女は長く精神科医にかかってそうしたことを相談しているはずですから、その精神科医に聞けば色々詳しくそのことを知ることが出来るはずですよ。あとは紗江子が普段から親しくしている友人も、大体のところ声を揃えてわたしと同じことを言うのではないかと思いますが……」
――これで、<二階堂京子・安達紗江子殺害事件>の第三回公判の証人尋問は終わりました。このあと、裁判官による補足質問等が行われたのち、閉廷となったわけですが、南朱蓮のこの証言で、秀一は暗闇に本当に細く一筋差していた光が、一筋ではなく、もう少し幅の広い光になったような気がしていました。
また、南朱蓮の口調から、『安達紗江子には間違いなく共犯がいた』ということもわかった気がしました。そして、おそらくはその人物が二階堂京子と安達紗江子のことを二人とも同じ方法で殺したに違いありません。
(そうだよな。女ひとりでは絶対に俺の174センチ、62キロの体は運べまい。だが、安達紗江子は通りで男とすれ違うのも嫌なくらい男が嫌いなのに……男と組んでこんなことをするものだろうか?となれば、相手はおそらく女性なんだ。だが、基本的にロボット三原則によってアンドロイドに人は殺せない――とはいえ、軍事用のロボットなど、一部規格外のアンドロイドもいる。彼女がそうした闇市場などで手に入るアンドロイドに京子を殺させた、などということがあるものだろうか?)
この場合、アンドロイドは廃棄処分になり(いかなる理由があるにせよ、人間を殺傷したロボットやアンドロイドは廃棄処分とすることが法律で決められています)、罪を問われるのは誰か特定の人間を殺害するよう命じた人間ということになります。
また、裏の世界では殺しを専門にするアンドロイドが極秘裏に造られており、大量の金をマフィアなどに支払えば、始末をつけてくれるという噂が昔からあるのですが……これがそうした種類の犯罪なのかどうか、秀一にはまだ確信が持てませんでした。
何より、二階堂京子と安達紗江子を一日違いで殺す動機が何なのかが、秀一にはわかりませんでした。安達紗江子が虫唾を走らせながら自分の衣服を脱がせたとも考えにくいことから――自分が薬か何かで眠っている間、そのようなことをした第三者がいたということに当然なるでしょう。そしてのその第三者というのは、<二階堂京子殺害>の点で利害が一致していたにも関わらず、その後用済みとなった安達紗江子のことを殺している……男の自分を運び(女性ふたりでも成人男性の体を運ぶというのは大変なものです)、女性ふたりをなんの躊躇いもなく頭に二発の銃弾でもってとどめをさせる人間――こう考えた場合、相手は当然男であると誰もが想像するでしょう。けれども、安達紗江子は大の男嫌いなのに、そこまでしても恋敵に復讐を果たしたかったということなのかどうか……。
(待てよ。この場合、真犯人と安達紗江子は京子殺害の件については利害が一致していて、真犯人は俺に罪を着せたかったってことだよな。こうなると、南朱蓮が俄然あやしくなってくる。もし南朱蓮が「ヨリを戻そう」と一言いいさえすれば、安達紗江子のほうでも「なんでも言うことを聞く」といった関係性だったのだとしたら……しかもあの、完璧すぎるアリバイ。テレビでやってる二時間サスペンスなんかじゃ、大抵はアリバイがなく動機のある、疑いの濃厚な奴が実は白で、完璧なアリバイのある奴ほど実はあやしかったりするんだがな。果たして、京子と安達紗江子が死んだ時、彼女はアメリカのどこにいたんだろう?それで、そのことを証明できるアメリカの証人なんていうのがいたら、確かに南朱蓮はこの殺人事件にまったく関係がないということになる……)
けれど、秀一が昔読んだことのあるCIAの男が主人公の小説では、各国の情報機関のような場所では、そのようなことはあまり意味がないということでした。つまり、秀一のような<一般市民>がどこか別の国へ出入国した場合、それはもちろん操作不能の完璧なアリバイと言えたでしょう。けれど、情報機関に所属するような人間にとっては、それらは操作可能なただの文字や数字の羅列に過ぎないということでした。それと同じように、ある人間の銀行資産を一桁減らしたりといったことも、ただ電脳世界で数字を書き換えればよいという、たったそれだけの話だということでしたから。
「でもあれは、アメリカの作者の書いたあくまでCIAの話だしな。日本では当然、もっと監視の目も厳しく、そうした特権を不正利用したことがわかれば即刻クビといったところだろうし……」
もちろんアメリカででもクビに違いないのですが、その小説の設定では、ある程度出世したCIA職員であれば、ある程度のレベルの機密情報をいくらでも閲覧できるということでしたし、実際、何かの事件を解決させるためであれば、許可を得たのち、秀一のような<一般市民>の免許を停止させたり、電脳銀行からお金を引きだせないようにしたりといったことは、お茶の子さいさいで出来るということでした(ちなみに、この小説の作者は、元CIA職員であると、著者紹介の欄に書かれていました)。
秀一は、留置場から拘置所へ移されてからは、ずっと個室に収監されていました。拘置所には、罪が結審するまでいるということになります。また、実際に懲役のほうが確定したら、今度は刑務所のほうへ移され、そこで刑期を務めることになるのでした。
起床時間は7:00で、食事や運動する時間なども、留置場での規則とあまり変わりありませんが、己の犯した罪に対し、反省して過ごす……といったことに重きがおかれているらしく、自由時間がとても多く、秀一はそんな中、毎日法律の勉強をし、その過程でいつでも<真犯人は誰なのか>という推理のことに思考が傾いていく――といった日々を送っていました。
下着や衣服、その他ちょっとしたお菓子など、欲しいものはローランド・黒川を通して涼子にそうした品を揃えてもらい、差し入れてもらっていました。もちろん、涼子とは接見できませんから、彼女の揃えてくれたものを、黒川弁護士が拘置所まで持ってきてくれるということではあるのですが。
また、過去の冤罪に関する事件についての資料や、冤罪を負わされた人物が著者のノンフィクション本を秀一は貪るように読んでいましたが、こうした過程で秀一の心理には少しずつ変化が起きていたかもしれません。
最初はただただひたすらに、(何故、なんの罪も犯していない自分がこんな目に)という嘆きと怒りと悔しさしかありませんでしたが、両親やよく出来た兄との面会、その他「日本から冤罪をなくす会」の人々との心あたたまる交流など……秀一は、この時初めて『どんなに最悪な状況の中でも、何かひとつくらいはいいことがある』という昔何かの本で読んだ言葉を思いだしていました。
(いや、ひとつだけじゃないさ。俺には涼子だっているし、ローランド弁護士のことも、彼がゲイとわかってからは惚れそうなくらい好きになった。両親や兄貴も、俺の無罪を信じてくれているし……)
ただし、秀一がこれまでずっと<友達>と思ってきた人物は誰も面会にやって来ませんでした。もっとも、秀一はそのことを少し寂しいように感じてはいましたが、(まあ、そりゃそうだよな)と納得してもいました。自分がもし逆の立場で、たとえば「ごくう」や「ジャイコ」が女性ふたりを殺害したらしいということで捕まったとしたら――面会へ行こうなんて考えないかもしれません。おそらく、チャットで色々と無責任に言いたいことを言い、『いや~、まさかあいつがな~』とか『殺っちまったか……』などとテキトーにつぶやいているだけだったでしょう。それに、第一面会へ行くなんて言っても、これまで法的機関とまるで関わりなく過ごしてきた人々にとっては、何をどうしていいかもわからなかったに違いありません。
秀一の収監されている部屋は、六畳ほどで、トイレと小さな流し、それにベッドがあります。鉄の扉には上に覗き窓が、真ん中あたりに食器口がありました。毎日、この白い長方形の部屋にずっといると……時々、秀一は頭がおかしくなりそうになることがありました。
彼の収容されている部屋は、19121号室でしたが、つまりはこんな個室がそんなにも数多くズラリと並んでいるということを意味しています。もちろん、囚人が自殺したりしないよう監視カメラが見張っていますし、定期的な看守の見回りといったものもあります。けれども、実はここは、昔読んだSF小説の、流刑星にある独房の一室で、自分はこの銀河の果てのような場所で朽ち果てる運命なのではあるまいか……といった、妄想じみた物思いにさえ、秀一は囚われそうになることがあったのです。
けれど、そういう時にはもちろん、涼子との未来のことを思い浮かべたり、自分がとてもいい弁護士についてもらっている幸運のことを感謝したり、あるいはこのことを機会に両親や兄ともこれからは深い交流を持てそうなことを喜ぶことにしていました。
今では秀一にも、父や兄が何故ああも都会の危険について説いてきたり、都会を離れた農村生活を大切にしているのかがわかっていました。昔の彼には、VR映画館のないど田舎に暮らすことなど考えられませんでしたが、今は父や兄のように生活することも、悪くはないかもしれないと思うようになっています。何より、秀一は家族と大喧嘩して家を飛び出して来ていたのに、彼の両親も兄も「だから言わんこっちゃない」とか「いつかこんなことになるとわかってたわ。だから都会は……」などと長々説教するでもなく、息子、弟の無罪をただ無条件に信じてくれていたのです。
そして、両親と兄が差し入れてくれた、故郷の銘菓や父が持ってきた蜂の本などを見て、秀一は幸せな気持ちになりました。この故郷の銘菓は、小さな頃から食べすぎて飽き飽きといった種類のものでしたが、秀一は毎日ひとつずつ、とても大切そうに食べましたし、蜂の本に至ってはもう、隅から隅まで三度ばかりも読み返しているくらいでした。
「出所したら、一度一緒に蜂蜜を取ろう!」
秀一のお父さんは最後にそんなとんちんかんなことを言って帰っていったのですが、その瞳には涙が滲んでいました。実家のほうでは農業や酪農を営んでいるため、家族全員で上京してくるということは出来ません。ですから、公判のある時などは、秀一くんの両親やお兄さんやそのお嫁さんが交代で来るということにしていたようです。
「そっか。もしこの世から蜂がいなくなったら……蜂が受粉をしている三分の一くらいの果物とか、植物がなくなっちゃうのか。それは大変だな」
秀一が蜂と聞いてすぐ思いだすのは、シャーロック・ホームズが探偵をやめたあと、養蜂家になったということでしょうか。もちろん、秀一はお父さんの始めた養蜂業を継ぐつもりはなかったのですが、それでもこれからは親孝行といったことも考えていきたいと、それは本当にそう思っていたのです。
(最悪だけど、これもまだ最悪じゃないっていうことかな……)
何より、両親は婚約者といっていい涼子と会って本当に喜んでいました。もし人生でこんなにも追い込まれるということがなかったとしたら――<本当の人生>だとか<本当の幸福>といったようなことについて、こんなにも真面目に考えるということは決してなかったに違いありません。
(俺は、この殺人事件に巻きこまれてなかったら……たぶん前と同じ自分第一、快楽中心主義の生活を送って、今もそのことを正しいと思い続けていただろうな。人間、誰だってそんなもんだろとしか思ってなかったに違いない……)
けれど、今のこの苦難を乗り越えることさえ出来たなら、この拘置所を出ていくことさえ出来たなら、未来は光り輝いていると思いました。それが秀一にとっての唯一の希望でもあったわけですが、これからのち、一年かけて殺人事件の公判は続き……その後この裁判が結審するまで、秀一は感情の激しい浮き沈みを経験するということになります。
そして、このあと――事件のほうは二転三転し、意外な結末を迎えるということになるのでした。
>>続く。