第2章
桐島秀一は翌週の土曜日から早速、鈴鹿峰子とデートを開始しました。それは九月の最終週のことでしたが、その後、水族館、映画館、クラシックのコンサート、遊園地、美術館や博物館巡り、サッカー観戦……などなど、順当にデートを重ねました。
お互い、<偽装>との前提があるからでしょうか。桐島秀一のほうでも鈴鹿峰子のほうでも、ある程度適切な距離を保ちつつの礼儀正しい「恋人関係」でしたから、関係のほうはかなりのところうまくいっていました。桐島秀一のほうでは時折、『良かったら、今日はこのまま……』という言葉が喉まで出かかることがありましたが、それでも、これほどの最適の偽装結婚相手を失うことの恐れから、その言葉を最後には引っ込めていたといえます。
というより、それ以前に、デートを重ねているうちに、桐島秀一にも鈴鹿峰子側の偽装結婚したい事情というものがわかっていました。というのも、デートのたびにふたりはあちこちで食事したわけですが、その時に色々と話すうち、自然そうしたことが話題にのぼっていたのです。
「へえ。それじゃあ、峰子さんがつきあってるその女性のほうが結婚してるってことは……ようするに不倫ってこと?」
鈴鹿峰子がレズビアンであると聞いても、桐島秀一はまったく驚きませんでした。この時代、そうしたことは特段珍しいことでもなんでもありませんでしたから。男性同士のゲイカップルも女性同士のカップルも、日本国内のすべての市町村においてではありませんが、東京や札幌、福岡など、いくつかの市町村では法的に結婚することが認められています。
ですが、彼らの間でも異性間のカップルとまったく同じ問題が生じていたといえます。つまり、結婚したあとで別の男性や女性とつきあいたくなったりといった<不倫>の問題です。
「まあね。でも、色々事情があって別れられないから……結婚相手とは別居して、彼女はわたしと暮らしてるんだけど、でも、法的にはわたしは未婚者。にも関わらず毎月三割も給料から自動的に天引きされるだなんてやってらんないってこと」
その話を桐島秀一が聞いたのは、イタリア料理店で食事していた時のことで、映画を一本観て外へ出た時のことでした。(ああ、なるほど)と感じるのと同時に、桐島秀一は心の中で自分が多少がっかりしているらしいとも気づいていました。
もしかしたら鈴鹿峰子のほうには、なるべく早いうちにそう釘を刺しておいて、自分を牽制したい意図があったのかもしれないとも、秀一は思いました。けれど、彼のほうではそれからもデートのたびに色々とよからぬ妄想を脳内で繰り広げていたかもしれません。鈴鹿峰子はどのような過程でレズビアンになったのか、男性経験があってその後女性に目覚めたのか、それとも最初からそうだったのか……三回目のクラシックコンサートの時など、桐島秀一の脳内はひどいものでした。音楽のほうはそっちのけで、隣の彼女のことをちらちら見ながらそんなことばかり考えていましたから。
にも関わらず、秀一は自分が鈴鹿峰子のことを異性として意識しているとか、彼女に惚れているといったようには考えませんでした。それは恋ではなく、ただの純粋な興味だと思いました。もし、彼女が女しか知らないなら、自分が男の良さを教えてやれるのではないかとか、実は今一緒に暮らしている恋人ともあまりうまくいってなくて、実はデートしている自分に彼女が惹かれはじめているのではないか――などなど、桐島秀一は自分の脳内でそうした妄想を弄ぶのが楽しかったというだけで、鈴鹿峰子とデートしたあとは、バーチャルリアリティの世界でラブドールとセックスし、そうした自分の欲望のすべてを大体のところ満足させていたといえます。
こうした形で、桐島秀一にとって鈴鹿峰子とのデートは毎回楽しいものでしたし、彼女のほうでも彼の紳士的な振るまいに概ね満足しているようでした。そして、実際に<独身税>が施行される四月一日より前に役所に婚姻届けを出そう……ということは、つきあいはじめて約三か月、十二月の末ごろには決まっていたといえます。
「もちろん、結婚したっていう法的な事実としては、ただ婚姻届を出せばいいってことになるけど……のちのち調査の手が入ることを考えた場合、盛大にか、あるいは小ぢんまりとだけでも結婚式を挙げておいたほうがいいのかどうか――どう思う?」
「俺は男だから、そういうのわかんないよ」
その日も彼女の奢りで一流レストランで食事をしながら、桐島秀一はそう答えました。デート費用のほとんどは所得の高い鈴鹿峰子持ちでしたが、秀一はそのことについては無頓着でした。もし、鈴鹿峰子側から『男のくせに……』とか『たまにはあんたが払いなさいよ』といったプレッシャーを感じたとしたら、秀一のほうでも『今日は俺が払うよ』と言っていたことでしょう。けれども、むしろなんとなく気配として<自分が払ったほうが気楽>といった空気を彼女から感じていましたので、秀一は特に自分からお金を出すということはしませんでした。
「でも、峰子さんがそうしたいっていうんならさ、つきあうよ。それとも、今一緒に暮らしてる女性と正式に結婚する時にウェディングドレスは着たいっていうんなら、紙だけ役所に出すとかでもいーし……」
「そうね。わたしがそう聞いたのは実は、秀一さんの親御さんがどう思うかっていうことを気にしてのことだったの。うちは色々あって、両親っていないも同然だからいいんだけど、秀一さんのお宅はどうなのかなと思って」
桐島秀一の両親は、国の与える給付金に満足せず、毎日一生懸命しっかり働く人たちでした。けれども、息子の秀一にそうした勤勉な遺伝子というのは受け継がれず、そのあたりの意見の相違から、秀一は両親とは疎遠になっていたといえます。
「俺のうちのことはいいんだよ。うちは上に出来のいい兄貴がいて、両親と三人……あ、兄貴の嫁さんも入れたら四人か。四人で同じ価値観で真面目に毎日働いてるって感じでさ、俺だけひとり除け者なの。いや、べつにこういう言い方するからって、何か親に恨みがあるとか、兄貴のことを僻んでるとか、そういうことじゃないんだぜ。ま、俺の価値観はあの人たちには理解されないっていうそれだけの話さ」
「御両親は何をなさってるの?」
今までこうした具体的なことを聞かれたことがなかったので、秀一はもしかしたらこの時初めて、偽装とはいえ、彼女が自分との結婚を真剣に考えているんだなと意識しました。
「ま、田舎のほうでさ、農家やってんだよ。今は農業のほうもオートメーション化が進んでるけど、うちの家族は昔からあれさ。そういう大規模農園で金儲けしようっていうんじゃなくて、必要最低限の生活の保障はされてるわけだから、あとは自然農法で自分で作ったものを自分で食べて、そういうふうにして暮らしていこうって感じの人たち。最近はちょっと蜂にも手をだしはじめたって言ってたかな。まあ、最近なんて言っても、最後に電話で話したのが去年の八月くらいだから……もう最近でもないか」
「素敵なご家族ね。わたしもそういうの、結構好きよ」
「へえ。俺は駄目だな。朝早起きして牛の乳搾りとか牛舎の掃除とか、ただ眠いだけの拷問だったよ。ところが兄貴の奴はそういうのがぴったりマッチする性格してたんだな。牛や馬を可愛がって、親父の自然農法にも共感しちゃって、ロボットにでもやらせりゃいいのに、自分で鍬持って畑耕したりとか……俺はああいうのはたまにでいいって感じだったな。もちろん、今じゃ感謝してる部分もあるっちゃあるけど」
「へえ……」
(あなた、本当にどうしようもないどら息子なのね)というのではなく、鈴鹿峰子はこの時、いい意味で感じのいい微笑みを浮かべていました。
実際のところ、偽装とはいえ結婚しようというくらいでしたから、鈴鹿峰子のほうでも桐島秀一のことをかなりのところ気に入っていたようです。<独身税>が施行される四月前の三月にふたりは入籍することにしようと話していたのですが……二月のバレンタインデイに突然、秀一は峰子から「一緒に暮らしている恋人と別れた」と聞かされたのです。
「だから、今わたしひとりなの。別れたばかりで、彼女の物とか色々残ってるけど……それでもよかったら部屋に来ない?」
「…………ああ」
桐島秀一には特に断る理由がありませんでした。九月の第三週目の土曜日に出会い、第四週の土曜日からデート開始――それから毎週土曜日に会ってデートを重ねるということがふたりの習慣になっていましたから、今ではもうすっかり気心の知れた友達といったところだったのです。
けれど、これがもし「彼女今日、出かけてるから来ない?」ということなら、果たして桐島秀一は鈴鹿峰子のマンションまで行ったかどうか……正直、女友達の部屋へなら、遊びに行ったことは秀一も何度かありますが、この時はそうした時以上にドキドキしていたかもしれません。
鈴鹿峰子の住むマンションは、(こんなところ、一体どんな職業の奴がどのくらい働いたら入れるものなんだろうな)と秀一がかねてより思っていたような場所で、都内の一等地にありました。そして、彼女は地上百階建てマンションの六十階に住んでいたのです。
「変なこと聞くみたいだけどさ、峰子さんの恋人、よく峰子さんと別れたよね」
「……どういう意味?」
エレベーターが上がっていく間、スカイツリーが見える美しい夜景を見つめながら、桐島秀一は鈴鹿峰子にそう聞きました。どんな理由があるにせよ、こんな豪華な場所に住めるような恋人を、自分ならそう簡単には諦めないだろうと、そう思ったからです。
「嫌な言い方するみたいだけど、こんな凄いところに住んでるってことは、年収のほうも結構あるんだろうなっていう意味で……俺ならたぶん、結婚してたとしても、相手の女性が俺と同じ<一般市民>なら、そっちと別れて峰子さんと絶対一緒になるよ。なのに、よく相手の女の人、峰子さんと別れたなーとか思って」
「そういうことに無頓着な人なのよ」
バイオメトリクス認証ののち、鈴鹿峰子は部屋のドアを開け、「どうぞ」と言って秀一のことを通してくれました。細く長い廊下のほうは白一色で、左右の広い壁にはトイレやバスルームがあるのではないかと思われました(ドアのほうは、特殊な視覚効果によって見えないようになっています)。リビングのほうも大体白一色で統一されていましたが、鈴鹿峰子がホログラフィック・ディスプレイのスイッチを入れると、そこは瞬時にしてカプリ島の青の洞窟に変化しました。
「まあ、こんなの、秀一さんの部屋にもあるでしょ?べつに珍しくもなんともない代物だけど、夜寝る前なんかに、世界一周したような気持ちになって眠るの。夜は海の漣が打ちつける音を聞いて、朝は森林と野鳥の声の景色をセットしとくって感じかな。ま、ありがちよね」
その後、鈴鹿峰子は、イタリアのローマやバチカンやフィレンツェや、ギリシャの遺跡などなど……といったように、ホログラフィをいくつか変化させてから、最終的に背景を水族館に設定することにしたようです。秀一が白いソファに座っていると、自分の背後をリアルなジンベエザメが通りすぎてゆきますが、彼は一向気する様子すら見せません。それからマンタやイルカやシャチが自分の真下や天井を泳いでいっても、ただそこに寛いで座っているだけでした。
この日、そうした予感はなんとなくあったのですが、お互い、モヒートやカクテルを飲んでいるうちに――キスをして、最終的にベッドの中で本当の恋人関係になりました。
「わたし、男の人ってあなたが初めてなの」
「本当に?男が相手のバーチャルセックスもなし?」
「それはあるけど……」
鈴鹿峰子は照れくさそうに笑って言いました。
「わたし、男の人って基本的にあまり興味ないの。体の構造のほうも、女の人のほうが好き」
「へえ……」
実をいうと桐島秀一のほうも、<リアルな本物の女性>は彼女が初めてでした。もちろん、アンドロイドのコールガールと寝たことは何度もあるのですが、「おかしな女に引っかかって給付金が危険にさらされちゃ堪らない」との警戒心から――彼は決してモテなかったというわけではなく、リアルな女性のことはこれまでの人生で出来る限り避けてきたのです。けれど桐島秀一はいかにも経験豊富を装って(相手もそれを疑ってなさそうでしたから)、このことは黙っておこうと思っていました。
「じゃあ、なんで俺と?結婚はただの偽装なのに?」
秀一は、鈴鹿峰子と寝てみて、今は(彼女と本当に結婚してもいい)と思いはじめていました。けれど、鈴鹿峰子の本心を確かめるために、あえてそんな聞き方をしていたのです。
「そうね。わたしもそろそろ色々白状しなくちゃいけないわね。実はここに住んでた恋人と別れたのは、あなたが原因なのよ。ただの偽装でも、わたしが毎週土曜になると必ず出かけるじゃない?彼女、物とかお金とか、そういうものには執着ないんだけど、唯一ある欠点がやきもち焼きだってところだったの。その偽装結婚相手と今日はどこへ行って何をするんだとか、わたしにその気はなくても、男のほうではそうじゃないかもしれないとか、あんまりしつこいもんだから、とうとう喧嘩になっちゃったのよ。で、そうなると当然行きつくところは、『だったらあんたも離婚したら?』ってことじゃない?そういうことが何度かあって、そのあと彼女は出てったの」
「でも、やっぱり俺には不思議だな。そのくらい嫉妬するんなら……そのくらい峰子さんのことが好きってことだろ?俺なら、相手の女と別れて、完全にこっち来て一緒に暮らすよ」
ここで峰子は、秀一のほうに体を寄せると、彼の左腕にキスしました。
「彼女、結婚する時に奥さんと契約したことがあったのよ。つまり、たとえば不貞の事実とかね、そういうのが相手方にあった場合、給料や給付金の半分をその後慰謝料として支払い続けるっていう法的拘束があったわけ。でも、初めて結婚する時なんてみんなそうよね。まさか別れるだなんて思ってもみないから結婚するんだし、自分じゃなくて相手に何か不貞とかそういうことがあったら要求できるっていうことでもあるし……」
「うおおッ。聞けば聞くほど恐ろしいなっ。結婚とかいうやつは」
桐島秀一は突然ゾッと怖気立ったというように、ガバッと起き上がっていました。峰子のほうでは体を振り払われるような形になっても、気にも留めません。それどころか彼女はくすくす笑っていました。
「秀一さん、あなたも全然無理しなくていいのよ。一応、わたしたちこれから戸籍上のこととはいえ結婚するわけだけど……ここへは来たい時だけ来ればいいわ。だけどわたし、あなたにもうひとつ、隠していたことがあるの」
この時直感で、秀一は(これは何か来るな)という気がしていました。元カノと喧嘩して別れたということ以上の何かが。そしてその勘は当たったのです。
「わたし……あなたが自分の本名を明かしてくれても、自分の名前は言わなかったわよね。そのことには理由があるの。わたしの名前は二階堂京子っていうんだけど、そのこととは別に、職業柄いくつもの偽名を使い分けてるの。今はちょっと前部署でミッションに失敗があって――それで左遷されちゃったから週五日勤務ってことになってるけど、元は休みなんてバラバラで、むしろあればいいほうだったのよ」
「えっと……それはつまり、君は警察の人間か何かってことじゃないだろうな?」
秀一は峰子――今は二階堂京子と本名がわかったわけですが――の物言いに一瞬ギクッとしてからそう聞いていました。
「ごめんなさいね、当たりよ。わたし、特殊捜査本部勤務の刑事なの。さっきも言ったみたいにちょっとミッションでヘマしちゃったことがあって、今は<独身税>を回避するために偽装結婚しようっていうような連中を取り締まったりしてるの」
「な、なんだって!?」
ここまで聞くと秀一は、急いで下着を身につけてベッドを飛び出ました。そして、まるで鈴鹿峰子がヤクザの愛人だとでもわかったような体で、文句を言いながら部屋を出ていこうとしたのです。
「まさか、俺は逮捕されるのかっ!?そりゃ、確かによくないことかもしれないが、だからってこんなの詐欺じゃないか。俺だって、君と出会ってからずっと、何ひとつとして気を遣ってなかったというわけじゃないんだぞっ。俺だって自分なりに君のことを色々考えてたんだ。もし、峰子さんがこうやってデートしてるうちに、俺のことを本当に好きになってくれたらいいなとか……それなのに、こんなのあんまりじゃないかっ!!」
秀一は慌てて逃げようとするあまり――もちろん、この場合逃げても無意味なわけですが、咄嗟の防衛本能というものです――一度ドアの横の柱に頭をぶつけていました。そして、京子は慌ててそんな彼のことを追いかけます。
「いっ、いててっ……」
「人の話はちゃんと最後まで聞きなさいったらっ!!」
右手で額のあたりを押さえている秀一のことを、京子はその腕を取って引きとめました。
「あんたのことを報告するつもりなら、あんたとこんなふうに寝たりしないわよ。ねえ、わかるでしょ?だって、体の関係を持つ必要まではないのにそこまでしたってことは……逆に、わたしのほうが仕事をクビになるってことだもの。いい?わたしたちはもう共犯関係なのよ。冷静になってそこのところ、よく考えてちょうだいっ!!」
秀一はこの時、(あ、言われてみりゃそりゃそーか)と思い、ようやく正気に返りました。けれど、それならそれで、また別の疑問が湧いてきます。
「でも、だったらなんで……闇サイトで偽装結婚相手を探してたのは俺だけじゃないし、他にも数え切れないくらいいた。それに、峰子さんだって、一度書き込みしただけで、十何人も立候補する男がいたんだろ?じゃあ、他のその男たちは……」
「全員報告書のリストに名前を挙げたわ。それに、それで即座にすぐ逮捕されるってわけでもない。そのあと、長期に渡って結果がどうなったかを見るのが目的なの。だから、あなたも安心していい。それに、わたしは秀一の名前だけ、報告書には書いてないの。どうしてか、わかる?」
「それは……」
先ほど愛しあったことを思いだし、秀一も流石に思い至るところがありました。
「その、さ。つまり……それは、そういうことなわけか?」
「もうほんと、ニブい男!」
そう言って、京子はドアのところに手をつくと、自分から秀一にキスしました。ここまで女性に言われて、応えないほど秀一も馬鹿ではありません。彼女のことをベッドの上に押し倒すと、もう一度心から深く愛しあいました。
* * * * * * *
「だけどさ、なんで俺だった?他に偽装結婚の候補者はたくさんいたんだろ?こう言っちゃなんだけど、俺はいい意味でも悪い意味でも平均的な男だよ。それか、いいとこ言って平均よりちょっと上といったところか。他の候補者の男たちがそんなにひどかったのか、それとも俺が京子にとって少しくらいは気を惹くところがあったのか……どっちなんだ?」
京子が先ほどよりも遠慮なくぴったりと体を寄り添わせるのを見て、秀一としてはすっかり有頂天といったところでした。もちろん、自分が内心そう思っているとは感じさせない、あくまで冷静な口調で彼はそう聞いていたのですが。
「最終的に、十数人の中から秀一を含めた三人に絞ったって最初に言ったじゃない?他の候補から外した男っていうのはね、まずアピールが凄かったの。自分が今までどんな人生を生きてきたかとか、自分の顔や体に自信のある男だったら上半身裸の写真をベタベタ貼ってきたりね。あと、自分のやってるインスタやブログを見てくださいとか……で、そういうの見ると、相手がどういう人間かとか、性格とか交友関係とか、大体わかっちゃうじゃない?それで、割と絞り込むのは早かったのよ」
「へえ。それで、三人の男に絞った、残りの二人の男はどうだったんだ?」
(そこまで言わせたいのね)というように、京子はくすりと笑いました。もちろん、刑事としての倫理を犯してまで彼を選んだことには、彼女にとっての大切な理由がありました。
「秀一さんの他の候補者ふたりはね、あなたと同じようにメールの文面とか、そういうのがとても礼儀正しかったの。それと、職業も医者と税理士でお堅い感じだったしね……でも、会って話した瞬間に色々わかっちゃって幻滅したの。医者のほうはね、ようするに自分はバイで、男と結婚すべきか女と結婚すべきかがわかんないっていうのよ。で、税理士のほうはようするに女性に求める理想が高いのね。バーチャル世界やセクサロイドとばっかりやってるから、現実のリアルな女の性的価値が、それより下としか思えないんじゃないかしら」
秀一もまたその京子の言葉にはギクッとしていましたが、それでも、自分がそうした中から唯一残った上、彼女にとってはそのくらい価値のある男なのだと思うと……嬉しいのと同時に幸福な気持ちにもなっていました。
「ご、ごほんっ。でも唯一、子供を作れるのはリアルな男と女の間でだけだし。そういう意味で、リアル女性の価値はこれからも一番上だっていうのは変わりないことだよ」
「そんなものかしらね。とにかく、そんなわけで唯一まともだったのが秀一さんだったの。雰囲気とか立ち居振るまいとかしゃべった感じとか……まあ、ようするに簡単にいえばそういう色んなことがわたしの好みだったっていうことだけど」
「ふうん。でもなんだか不思議だな。元は……そういやレズって差別用語なんだっけ?えっとまあ、とにかく元は女好きだったのに、なんで俺、男なのにいーのっていうか、そこがちょっと不思議っていうか……」
秀一のほうでも京子のほうでも、まだ言葉にして「愛している」とは言っていませんでした。京子のほうでは、自分はもう十分好意を伝えてあるのだから、それは秀一のほうから言って欲しい言葉だったわけですが……彼がそこまで機転が利くようにはあまり思えない気がします。
「だってわたし、デートしてる間中、一度もあなたに不愉快な思いをさせられたことってなかったもの。話していても面白いし、自分から何か自慢気に語ることもないし、いつでもわたしが何か物足りない思いをしてないかとか、なんとなく気遣ってくれたり……だから、わたしも少し不思議だったの。だってあなた、絶対モテるでしょ?」
「う、うーん。どうかな……まあ、女友達は少し多いほうかもしれないけど、あんまりそれ以上俺のほうでも話進めたくないっていうかさ」
「なるほどね。でもそういうふうに言えるっていうことは、やっぱりモテるっていうことよね。だったら、その中から偽装結婚の相手なんていくらでも見つけられそうなものでしょ?でも、毎週毎週、何か用事が出来たとか、そんなふうに言って断るでもなく、律儀にデートしてくれて……それで、わたし初めて思ったの。相手が男とか女とか関係なくて、本当にしっくりくるような感じの人と一緒にいられることが大切なのかなって」
「…………………」
京子が今言ったことは、実は秀一でも大体同じようなことを考えていました。これまで、毎週彼女とデートすることは、秀一にとっても楽しみなことでした。それを何か用事をつけて断るといったようなことは、彼には思いつきもしないことでした。それに、秀一のほうでも、京子がいつでもそれとなく自分を気遣ってくれる気配のようなものを常に感じていましたし、よく考えてみると、彼女から何か不愉快な思いをさせられたことというのは一度もありませんでした。
けれども、こうしたことのすべてを秀一はうまく言葉に出来ませんできたし、彼女のような女性が自分と<偽装結婚>――彼の中では、極めて本当の結婚に近いような偽装結婚――してもいいだなんて、正直なところを言って、体を重ねた今もよく理解できなかったかもしれません。(だって、そうだろ?)と彼は思いました。デートの時は自分で金など出したことはほとんどなく、しかも、所得格差のほうはびっくりするほど隔たりがあります。もっとも、秀一にとって大切なのはそんなことではありませんでした。彼は二階堂京子の資産を目当てにする気はありませんでしたし、これからも基本的には自分の家で暮らして、彼女とは週末だけ会うとか、そんな関係さえ続けられたら十分でした。
桐島秀一が一番結婚に望むもの……それは<自由>でした。そこさえ相手の女性が侵害してこなければ、相手の資産のことなどはむしろまるで気になりません。ただ、これからもし<うっかり>子供など出来た場合――よく考えると確かに年収の高い女性というのは相手としてベストであるように、秀一も初めて思ったかもしれません。
(実際、ガキなんざ、子育てロボット……アンドロイド・マミーにでも育てさせりゃいいんだ。で、彼女が働きに出ている間面倒を見るように言われたら、アンドロイド・マミーに世話させておいて、そのあと全部自分でちゃんと面倒見てたみたいに言えばいいよな)
秀一はこれからも、独身貴族でいる気満々でしたので、京子との間に煩わしいことは必要最低限にすることが出来れば、独身の自由気ままさ、それに結婚したことで生まれるであろうお得感の両方を満喫できると考えました(というのも、今の日本では仮に子供がひとり生まれた場合、教育資金として結構なお金を月々もらえるのです)。けれど、人間の男女の関係というのはなかなか難しいもので……秀一と京子の関係というのは、実をいうとこれからどんどん難しい局面を迎えることになっていくのですが、それはもう少し先のお話となります。
>>続く。