第1章
桐島秀一は、西暦2099年生まれ、現在29歳の日本の某都市に暮らす一般市民でした。そして、彼がその「到底許しがたい」と感じる告知を知ったのは、オンラインのニュース上でのことだったのです。
「なんだって!?独身税だって?」
2099年生まれの彼が現在29歳ということは――現在は西暦2128年です。その西暦2128年の9月8日、秀一はネットニュースを見ていて、来年の四月より独身税を18歳以上の未婚者全員に課す法案が議会を通過したとのニュースを知って驚きました。
「くっそおぉぉぉっ!!こうなるとわかってたら、自民党になんか投票するんじゃなかったぜ。しかもこれも少子化対策のためだって?くっだらねえっ!第一、そんな独身税なんか課したからって、ガキの数が増えるってもんでもねえだろうに」
西暦2128年という現在、実をいうと<労働した対価としてお金を受けとる>という労働の概念は消え失せていました。ゆえに、国の税金不足を補うために、そのような<独身税>などという政策を国が考えだしたというわけではなく――少子化が進むあまり、このまま日本人の人口が、特に日本人同士で結婚して生まれる、純粋な日本人というのはいずれゼロになるという可能性もあることから……国の最大政党はそのような苦肉の策を議会で通過させたというわけなのです。
このことの背景には、まず国際結婚の増加、また性の多様化ということがありました。大体、今から百年前の2028年頃よりも、飛行機の性能が上がったことにより、どこの国へ行くにせよ、飛行時間のほうが半分くらいになったのです。そこで、国と国の行き来がより活発になり、自国民同士で結婚するより、国際結婚することのほうが当たり前になってきました。さらにそこへ、ゲイカップル同士の結婚、男性と男性、女性と女性同士の恋愛結婚の世間での許容度の高まり、あるいは今のところ一夫一婦制の国家では認められていないにせよ、三~七人の男女がひとつの家に住み、互いにパートナーをひとりに特定せず、子育てしていくといったフリーハウス婚など……ますます恋愛の形態が多様かつ複雑化したのと同時、結婚しない自由、未婚者にも人権を!!といった声の高まりもあり、こうした状況が少子化に拍車をかけていたという時代背景があります。他に、個人の生き甲斐や快楽の追求といった個人の充足した生活が科学の発達と同時に手軽に得られる社会にあることも、少子化について論じる場合には問題視される傾向が強かったといえます。
今、日本では女性ひとりにつき、出生率が一人を切っているという状況があり、さらに他の先進諸国でも、不妊治療によって子供がようやく生まれるというのが当たり前となっていました。さらに、不妊治療によって生まれた子はかなりの高い確率で、同じように不妊治療を受けなければ子供が誕生しないといった現状があり……こうして、世界各国は一度人口増加に歯止めがかかってのちは、おしなべて少子化対策に頭を悩ませるようになっていたのです。
また、何故そうなったかという理由を説明するには、おそらく彼、桐島秀一氏が普段どんな生活を送っているかを紹介するのが一番わかりやすいかもしれません。この日、秀一はネットニュースを見て激怒したのち、まずは筋トレを開始しました。家の一室をトレーニングルームに改造しており、彼はそこで各種トレーニングマシンをトレーナー・ロボットに監督してもらってメニューをこなします。そして最後にメイド・ロボットの作ってくれたプロテイン・シェイクを胃に流しこみ、トレーニングを終了するのです。
そして、彼はこのあと、国の定めた労働にパソコンを使って三時間ほど従事すると、あとはVRで仮想現実の世界に浸って過ごします。最初はちょっとしたゲームに熱中し、そのあとはアイガーの難所に挑み、その次には南太平洋の海をヨットで漂っていました。実をいうと今、彼はヨットで世界一周の途上にあり、この日も航海を進めて航海日誌にデータを保存すると、次はバーチャルリアリティゲームで知り合った友人と、チャットして過ごしました。そしてこの合間合間にメイド・ロボットの作ってくれた食事をし、あとは理想の恋人とVRの世界でデートしたあと、イチャイチャしながら就寝したのでした。
これで、何故世界各国で少子化対策が叫ばれつつ、なかなかいい打開案が案出されないのか、おわかりいただけたでしょうか?桐島秀一氏は特段他の人と違う特殊な生活を送っているというわけではありません。この時代、彼のような生活を送っている人のほうが<一般的>なのです。
それでも、一日にたったの三時間だけパソコンを使って仕事をすればいいだなんて……と、不思議に思われる方も多いでしょう。けれどもこの時代、ほとんどの仕事はA.I、人工知能を積んだロボットに取って代わられていましたから、人間はもはやなすべき仕事がほとんどないというのが現状だったのです。またさらに、日本では国民ひとりにつき、その人間が必要最低限の生活を送っていけるよう、月に大体平均して三十万円くらいのお金を給付されるのが普通でした。では、何故一日三時間ほど仕事をするのかですって?この時代、たとえて言うなら<仕事>というのは、スポーツの一種のようなもので、やらなくても生きてはいけるが、やったほうが体と精神に良い……といった価値観で捉えられていました。つまり、その対価として三十万円というお金を給付してもらえるのだと考えたほうが、本人も『当然の支給をしてもらっている』との誇りを持つことが出来ますし、必要最低限以上の生活を望む者はみな、そのお金を元手になんらかの事業を自分ではじめたりします。また、この時代、お金というものはすでにネットマネーしか存在せず、現金というものはなくなっていましたから、こうした国民ひとりが給付金を何にどのくらい使ったかといったことは、すべて国の監査院のほうで常に監視されていました(そして、不健全な金の使い方をする者は、刑務所へ送られる場合もあるのです)。
こういった理由から、桐島秀一はあまり外出しません。家の中にいても、アイガーやK2、アンナプルナを攻略することが出来ますし、実際に飛行機に乗らなくても、世界のあちこちの国を散歩することが可能でしたし、ネット上に友人もたくさんいます。また、唯一彼が出かける時というのは、こうした友人と会う約束をした時だけだったかもしれません。そして、桐島秀一はリアルな恋人というのを生まれてこの方欲しいと思ったことがありませんでした。毎晩、その日の気分で色んなタイプの女性とバーチャルリアリティの世界でデートしたほうが楽しかったですし、現実の生きた女性などというものが、それ以上の満足と快楽を彼にもたらしてくれるとも思えませんでしたから。
けれど、この日の夜……バーチャルリアリティの世界で最高のセックスをしたあと、ベッドに倒れこみながら――桐島秀一は<独身税>の三文字を思いだしていました。この日、友人とのチャットで一番盛り上がったのも、この話題についてです。
リタ:「政府の奴、ゲロゲロww」
ごん太:「死にさらせ、自民党の下等議員ども!!(激怒[○・`Д´・○])」
むっちー:「《゜Д゜》ゴラァァァァァァァァァァァァア!! ゴラァァァァァ!!!!!! 」
ごくう:「ファッキュ━━━( ゜Д゜)凸━━━ !! 」
ももち:「ヽ(゜Д゜)ノォォォォッっ!!」
きんかん:「マジ、独身税、毎月の給付金から三割カットは痛いっすよorz」
ごくう:「政府の奴ら、マジうんこ。うんこ食って死ねや!なんならオレが口に突っ込んだる!(激怒(*`Д´)q)」
ジャイコ:「まま、落ちつきなはれや、ミナサン。税逃れをする手はまだあるやないですか。近いうち、このことで久しぶりにオフ会しましょうや(* ̄皿 ̄)ノ」
といった具合で、桐島秀一ももちろん彼らの意見に大賛成でした。そして、彼には自分と同じく彼らが何を考えているかもよくわかっていたのですが――こうした一般的なチャットの場というのは、政府が監視している可能性があるので、誰もみな、それ以上突っ込んだことは言って来ませんでした。そして最後、何故ジャイコが、>>『近いうち、久しぶりにオフ会しましょうや』と書き込んだのかも、チャットに参加した全員がその理由についてわかっていたといえます。
「独身税か……政府も無意味に面倒なことをしてくれるもんだ。そんなことをしても、みんな偽装結婚でもして給付金の削除を免れようとしてくるに決まってる。もちろん、政府のほうでも偽装結婚でないのかどうか、調査したり取り締まったりはするだろう。だがようは、こちらがその上を行けばいいだけのことさ」
桐島秀一が予想していたとおり、独身税を回避するため、<偽装結婚の相手、求む!>との書き込みが第二の闇サイトには溢れ返っていました。この第二の闇サイトというのは、政府の巡回にそれなりにぬるく対処しているフェイクの闇サイトのそのまた下の、暗号で閉ざされたネット世界です。ここでなら、政府の監視に怯えることなく、なんでも堂々と言いたいことを書き込んでも、<危険思想犯>などとして、突然特殊警務部の人間に家へ踏み込まれ、逮捕されるということはありません。
桐島秀一もまた、そのような第二の闇サイトで、偽装結婚のための恋人探しをはじめました。おわかりでしょうか?ジャイコが何故そのうち『オフ会しましょうや』と言ったのかというと、お互い、どんな偽装結婚相手をその後見つけたか、その話で盛り上がろうということだったのです。
「まあ、べつにただの書類上のことだからな。仮に相手が二まわり以上年上のばさまで、ドブスのふとっちょでも、俺は政府の調査人にいけしゃあしゃあとこう言ってやることだろうよ。『俺は心から彼女のことを愛してるんです!』ってな」
とはいえ、そうは言っても、相手が物凄い美人で可愛くてスタイルもよく、性格もばっちり自分とも合う――なんていうことになれば、もちろんさらに素晴らしくはあるわけです。けれどもこの時桐島秀一が考えたのは、「まあ、自分の許容範囲内であってくれさえすればそれでいいさ」ということであり、何より、この場合の第一条件は性格が合うこと、相手の性格がいいことが第一条件だったかもしれません。何故なら、その後何かのことでつきあいがまずくなり、相手から「あの人が偽装結婚しようってわたしに持ちかけたんです!」などと裁判所へ訴えられでもしたら大変だからです。
「実際、そうした種類の気違い女というのは世間によくいるようだからな。それで、黙って欲しければ、月々の給付金の半額を寄越せだなんて言われて、最後には相手の女を殺しちまって刑務所行き……そんな話は世間じゃザラに転がってるから、俺も気をつけねば」
そしてこの時、桐島秀一は第二の闇サイトで、鈴鹿峰子という女性の書き込みに常識人的な真面目さを感じ、自分も偽装結婚の相手を探していると書き込み、彼女からの返答を待ちました。すると、鈴鹿峰子は>>「今、十人以上もの候補者がいるので、もう少し詳しいプロフィールを送っていただけませんか?よろしくお願いします」と返事してきました。
桐島秀一は「ふうん」と思いました。もちろん、鈴鹿峰子というのは偽名であり、桐島秀一自身も、佐野五郎という適当な偽名を使っていました。そしてその後、鈴鹿峰子がなんと言ってくるか待つ間、秀一がコンピューター相手にバーチャルテニスをしていると、アンパイアが「鈴鹿峰子さんからメールが届いているようだ」と言いました。秀一はちょうど負けそうになっていたため、一旦試合を中止して、アンパイアにメールの内容を読ませました。
アンパイア:「このたびは、偽装結婚のお申し込み、ありがとうございました。まさかこんなに多くの方が申し込んでくださるとは思ってなく……また、こちらのプライヴァシーの問題もあることから、とりあえず候補者を三名の方に絞りこませていただきました。こちらで順番にお会いして面接させていただき、後日お返事するという形を取らせていただきたいのですが、よろしかったでしょうか?」
「オッケー、オッケー、OK牧場!!」
そう言いながら、秀一はすぱこーん、すぱこーんと、練習モードのコートに、サーブを打ち込みながら言いました。
「それじゃ、クラーク。鈴鹿峰子ちゃんにこう返事しておいてくれ。>>「たくさんの候補者の中から選んでいただき、大変光栄に感じております。面接場所や待ち合わせ時間などはそちらにすべて任せるので、どこにでも呼びだしてくださればと思います。当方、あなたさまの偽装結婚相手になれれば、これ以上の喜びはなきことも、最後に申し添えておきたく……それでは、お返事いつなりとお待ち申しております」といったような文面だ。アドレスは159番目のを使ってくれ。もし仮に何かあっても、それが一番害が少なくてすむ」
「かしこまりました、ご主人さま」
クラークというのは、桐島秀一の家の全般を司る執事ロボットです。開発者のつけた名前はグスタフ・クラークというらしいのですが、グスタフと呼ぶのが面倒なため、秀一はいつでも彼をクラークと呼んでいました。
この翌日、鈴鹿峰子は、面接場所と時間をそれぞれ指定してきました。普段は週五日働いているため、体の空くのが週末の土日と祝日だけとのことで、>>次の土曜の午後三時からなんてどうでしょう?銀座に『リリアナ』というカフェバーがあるのをご存じですか?場所が地下なので、入口のところに小さな看板があるのを見落としてしまうと、ちょっと迷ってしまうのですが……その際はわたしの携帯にお電話いただければと思います。また、この条件で都合が悪ければ、ご連絡ください。お返事のほう、心よりお待ち申し上げております……鈴鹿峰子。と、メールのほうにはありました。
「へえ。週に五日も働いているとは珍しいな。もしかして官公庁にでも勤めてんのかな。だとしたらこいつはラッキーだぞ。そうだよな、官公庁勤めの連中だって、独身なら給料三割カットだからな。そりゃ多少法律を犯してでも偽装結婚したくなるわな」
現在、日本では多くの<一般市民>が国から給付金をもらって暮らしています。「労働はしなくてもいいが、したほうが体にいいスポーツのようなもの」ということは、前にも一度お伝えしましたが、それでも人間がどうしてもしなくてはいけない専門職などはあります。工場などは100%完全に無人化しているのが普通ですが、サービス業の一部、あるいはロボットやアンドロイドでなく、人間がしたほうが良いとされる仕事というのは、いくらオートメーション化が進んでも存在していましたから。
また他に、各役所ごとに、区民や市民らが快適で人間らしく幸せに暮らしていけるよう、あらゆる分野に渡って多岐に対応(あるいは監督)する部署があり、こうした官公庁の仕事というのは一部の選ばれたエリートだけがなれる高給職でした。けれども、その高給も独身だというたったそれだけの理由によって三割が税金として取られるということになるわけです。
桐島秀一は、こういった事情により、鈴鹿峰子に会う期待感が俄然高まりました。もちろん、本当に結婚するというわけではないのですから、相手の職業も容姿も、大して意味のないことではあるのです。それでも、偽装結婚相手が堅い職業に就いており、身許がしっかりしているというのは大切なことでした。のちのち、何かちょっとしたことをきっかけにして、訴訟事態になったりしては大変だ……といった意味合いにおいて。
『リリアナ』というカフェバーがどのあたりにあるのか桐島秀一は知りませんでしたが、ネットで調べれば一発と思っていましたから、それで>>了解致しました。翌週の土曜日、午後三時に必ず指定場所まで参りますので、よろしくお願い致します。佐野五郎。と返信しておきました。と同時に早速、「クラーク!銀座にある『リリアナ』とかいうカフェバーの場所を調べてくれないか?」と執事ロボットに命令します。
この時桐島秀一は、竜ヶ峰カントリークラブの五番ホールでその腕前を奮っているところでした。そしてティショットをうまくオンさせると、「よしよし」と思いながら、VR専用の五番アイアンをキャディーに渡します。
その後、パットも決めると、ネット世界でのゴルフゲームのランキングが表示されますが、桐島秀一はそんなことには関心がありません。1~50位くらいに名前がくる人間というのは、このゲームでどうにかして名をあげようと、毎日の大半をこのゴルフゲームに費やしているようなゴルフ馬鹿だけだからです。
桐島秀一はこの翌週の土曜日、携帯の道案内アプリに『銀座・カフェバー・リリアナ』と入れ、その音声案内のとおりに道を進んでいきました。>>「次、10メートル先で右です」といったようなコンピューターボイスの指示通りに進んでいくと、すぐそこが『カフェバー・リリアナ』でした。
「へえ。このあたりには結構来たことあるけど……こんな場所にこんな店があっただなんて知らなかったな」
店のほうは、一階にピザ屋とパン屋が入っていました。二階以上はマンションになっていますが、ひとつだけ地下に続く階段があり、そこには中世風のカンテラの下に『Liliana』と看板が出ています。
階段は薄暗く、店のほうは営業しているように見えませんでしたが、桐島秀一が階段を下りてドアの前までいってみると――その白いドアの窓部分の向こうに、カウンターでカクテルを飲む女性がいました。肩より少し長いくらいの髪に、ほっそりした背中が印象的な女性でした。
(ふうーん。想像していたより若そうな女だな。ま、今のこの時代、金さえたっぷりあれば、六十のおばはんは三十代に、七十のばさまも四十代くらいにしか見えんからな……スタイルも良さそうだが、あれも手軽にできる脂肪吸引の賜物か、普段から太らないようにダイエットサプリでも飲んでるのかどうか。ま、元の顔がブサイクだったとしても、俺は天然のブスよりも整形美人のほうを歓迎するよ)
桐島秀一はそんなふうに予想しながら、ドアを開けて店の中へ入っていきました。彼のほうは偽装結婚相手に失礼がないようにと、ブランド物ではありませんが、一応スーツを着ていました。今日のコーディネイトのテーマは『いかにも真面目そう&誠実そう』です。そう言ってクラークに見立ててもらった服装でした。
「あなたが鈴鹿峰子さんで間違いなかったでしょうか?」
ドアが開くと同時、カウンターでスツールに座っていた女性が振り返り、彼と目と目が合いました。初めて会う鈴鹿峰子は年齢は27歳くらい、振り返った顔のほうはこの時代にありがちな<整形顔>ということもなく(最近は「サイボーグ顔」と呼ばれる無機質なメイクが流行っています)、ナチュラルに可愛いといったような印象でした。この時代、整形手術というのは安全性も高い上、保険も利きましたから、男女とも、秀一のようにどこも容姿をいじっていないほうが珍しいくらいだったのです。
もっとも、世の中には「生まれたままの姿こそ美しい」として、整形に反対する宗教の一派というのも、存在することには存在していたのですが。
「はい。もちろん偽名ですけれどね。それで、あなたが佐野五郎さん?」
「そうです。偽装結婚とはいえ、相手がこんなに若くてお美しい方でよかった」
鈴鹿峰子は、桐島秀一のリップサービスを不快に感じたのかどうか、眉をひそめていました。ですが桐島秀一は自分でも自覚しているとおり、なかなか厚顔無恥でしたので、ケロリとしたまま鈴鹿峰子のすぐ隣のスツールに腰かけていました。
店内のほうは、まるで自然の巨石をそのまま加工したような洞窟風であり、外の外観も同じく白い石壁に囲まれていました。そこにアンティーク風のテーブルが十ばかり並んでいますが、その上に椅子が乗っているところを見ると、まだ営業時間ではないのかもしれません。
カウンターの向こうは酒やグラスなどの棚があり、ここでも軽い調理なら出来そうでしたが、奥のほうにより本格的なキッチンがあるのでしょう、姿は見えませんでしたが、そこで人の動く気配だけはしていました。
(なるほどな。ここはこの女の馴染みの店ってわけなんだろう。だから、奥にいるのがこの店のオーナーか誰か知らんが、とにかくこの女の信頼できる人物で、今ここで偽装結婚云々の話をしてもまったく問題ないってことなんだろうな)
「それで、俺の第一印象はどうですか?」
鈴鹿峰子は赤い果実酒のようなものを飲んでいましたが、ワインとは違うもののように見えました。桐島秀一はカウンターの端末にタッチすると、メニューを表示させ、<drink>と書かれたところを見ました。
「それ、なんですか?」
自分の第一印象について相手が答える前に、桐島秀一はそう聞いていました。女の飲んでいるルビー色の液体が、とても美味しそうに見えたのです。
「ただのワインにフルーツを漬けたサングリアよ。もしかして、同じものが飲みたいの?」
「ええ。飲んでみたことのないものを飲んでみたいんです」
(へえ、そうなの)というふうに、鈴鹿峰子はメニューに向かって「マスター」と声をかけました。
「サングリア、わたしと同じのもう一杯ちょうだい」
すると、メニューブックの中から小さなバーテンダーが現われて、「かしこまりました」と小さくお辞儀をしました。<終了>のボタンに軽くタッチすると、メニューブックのほうは消えて見えなくなります。
「ここは、あなたの奢りですよね?もちろん」
「そうね。場所を指定して呼びつけたのはわたしですものね……それで、あなたの第一印象っていうことだけど、一言で言えばまあ<合格>ってところかしら。どうせただの偽装ではあるにしても、一応何回かデートしたりとか、それなりに実績作りはしなくちゃいけないでしょ?」
その<実績作り>ということの内には性交渉も含まれるかどうかわかりませんでしたが、桐島秀一はそういう『オイシイ展開』になるといいなとはちらと思ったかもしれません。最初はそんなつもりはまったくなくても、何度かデートを重ねるうちに、なんとなくそんなことに……桐島秀一はうまくそうした方向に話を持っていくことが出来るかもしれないなと考えていました。
「まあ、そういうことになりますね。いえ、あとから役所の人間に色々調べられた場合、一度もデートすらしてないんじゃ、必ずボロが出るでしょうから。それなりにお互いのことを知るためにも、デートすることは大切でしょうね」
うんうん、まったくそのとおりだ……というように桐島秀一は何度も深く頷いていました。すると、カウンターの奥のほうから銀髪に紫の瞳をした女性がやって来て、どこかセクシーな仕種でコースターを置き、その上に赤いサングリアを乗せて去っていきます。
ちなみに彼女は、一般に<アレクサンドラ・タイプ>と呼ばれる接客アンドロイドの一種でした。
「じゃあ、デート第一回目はどうしますか?あ、あと俺の他にふたり絞りこんだ候補者がいるんでしたっけ?結果って、いつ教えてもらえます?俺も、あなたが駄目なら、他の女性をすぐに見つけなきゃならないもんで」
この時、鈴鹿峰子は出会ってから初めて少しだけ微笑みを浮かべました。桐島秀一のまわりにはいつも、彼に媚を売るようなタイプの女性しかいませんでしたから、この彼女の少しばかり自分を突き放すような態度というのは、なかなか新鮮だったかもしれません。
「そうね。わたしもあなたみたいなビジネスライクな人、好きよ。どうやら、あなたとなら割り切ったパートナーになれそうな気もするし……デートはいつなら都合がいいの?独身税の制度の始まるのが来年の四月からだから、この半年の間に出来るだけ実績を重ねてそれっぽい雰囲気になってなきゃマズいでしょ?政府が国際結婚したカップルの偽装について調べる時には、男女分けて、それぞれ相手について恋人しか知りえないようなことをいくつも質問するんですって。だからまあ、この半年の間、映画へ行ったりなんだりして、それなりに証拠を残しておかなきゃね。だって、議会で法案が通ってから結婚したカップルはみんな政府に疑いの目で見られるでしょうから……調査員が来る可能性は高いわ」
「そういえば、週五日働いていらっしゃるっていうことは、官公庁かどこかにお務めなんですか?」
おそらく、この質問は他の偽装結婚候補者も聞いたことだったのでしょう。鈴鹿峰子の目の端には侮蔑の色がありました。
「ええ。どこ、とは言えないんだけれどね。そんなわけで体の空くのは土曜と日曜と祝日くらいなものなの。それで、ズバリ聞かせていただくけど、あなたは毎日三時間働くくらいの一般市民ということでよろしかったかしら?」
「よろしいですとも」と、桐島秀一は笑って言いました。「つまり、俺の言い分としてはこういうことなんですよ。今の給付金から三割も税金として取られたんじゃ、やってられないっていうのが、俺が偽装結婚しようと思う目的です。まあ、三割カットされても、節約すればどうにかなりますよ。が、俺は毎月大体そのくらいは将来のことを考えて貯金してるもんでね。それで、相手が誰でもいいから結婚していて独身でないという事実が欲しいといったところなんです」
「そう。じゃあ、わたしたちの利害は一致しているというわけね。わたしの本当の名前や職業なんかは、実際本当に婚姻届けにサインするという時に教えます。あなただって、何度かデートを重ねるうちに、仮に偽装でもこんな女とは結婚したくないと思うかもしれないでしょ?」
(いや、それはないでしょ)というように、桐島秀一はサングリアのグラスを口許に運びました。すぐに一杯飲み終わってしまい、彼としてはもう二~三杯欲しいくらいでした。
「俺はまあ、とりあえず偽装結婚できるなら、相手はあなたほど若くなくて美人じゃなくてもいいんです。ただ、あなたがしっかりした職業に就いておられることは確かに魅力的かな。だって、ついうっかり変な女に引っかかったりすると、あとあと大変なことになりかねませんからね」
このあと、桐島秀一と鈴鹿峰子とは、来週の土曜の同時刻にデートするという予定を立てました。彼女の希望で、第一回目のデート場所は水族館ということに決まりますと、その日は互いに握手をして別れるということになります。
「じゃ、また来週……」
「ええ。土曜日に、現地集合ってことでね」
桐島秀一はこの日、意気揚々として家まで帰りました。地下鉄駅まではエアスクーターに乗ってきていましたので、エアスクーターに乗ると、「ヒャッホーイ!!」と叫んでいたくらいです。仮に相手が高所得者でもなんでも、直に会って相手から変な気配を感じたとすれば、今回の件はなかったことにしようと思っていただけに――一発であんな良い偽装結婚相手に巡り会えて、そのことがとても嬉しかったのです。
家へ帰ると早速、仲のいい友人らに経過を報告すべく、すぐチャット画面を空中に開きました。
>>ゴロー:「きょう俺、GK相手に会ってきたよ」
ごくう:「マジか!?」
ジャイコ:「どやった、どやった!?」
ゴロー:「まあ、詳しいことはまた直に会った時に話すけど、とにかく当たりだったーっ!!ヒャッホーイッ!!」
むっちー:「うっわ、うらやましっ。オレなんか、出っ歯のトシマ女やったわww」
ジャイコ:「えっ、そやのー。で、むっちーそれどないすんねん。ほんまにGKするん??」
むっちー:「ま、結局Gやしなー。向こうも乗り気やったし、ま、それもええかなと思ったり。。。」
きんかん:「ほっほー。そりゃめでたいな!むっちー、おめでとう!!ぱんぱかぱーん♪\(^0^)/」
こういったしょうもない会話を二時間半ばかりもしたのち、桐島秀一は一度離脱することにしました。彼はこの時とても上機嫌でした。このことをきっかけに、自分の人生がその後180度変わるとも知らずに……。
何故、<独身税>などというものが、議会で法案として成立したのか――そこには実は深い理由がありました。今ではどこの国でも議会で法案が通過するような時には、その前に国の最高峰の頭脳であるマザー・コンピューターに意見を伺うのです。長く日本国を悩ませているこの少子化問題について、日本のマザー・コンピューターである<サクラ>はこう答えていました。『<独身税>を課しなさい』と。『そうすれば、日本国内で恋愛活動が活発化するでしょう。もちろん、<独身税>から逃れたいがために、偽装結婚する者も現われるでしょうが、その過程で間違いなく偽装ではなく本当に結婚し、子供をなすカップルが生まれてくるはずです』……そのようなわけで、国民のうちの18歳以上の未婚者から激しいブーイングを受けるであろうとわかっていて、<独身税>の導入へと国は踏み切っていたわけです。
>>続く。