恥ずかしがり屋さんのお手紙☆
××月××日
東京都××区にて都内の大学に通う女子学生1人が刺し殺される事件が起こった。
被害者の外傷は酷く、頭部から腹部にかけて31箇所の刺し傷が確認された。
特筆すべき点は顔面部に刺し傷が集中しており、実に17箇所が顔面部に向けられていた。
加害者と思われる同都内の大学に通う女子大生1人が逮捕されたが精神が錯乱しており、取り調べに応じる事が出来る状態ではない。
尚、家宅捜査より加害者の女子大生の自宅より本人直筆の物と思われる手紙1つをリビングのテーブルの上にて、男性の頭部1つがベッドの上で毛布をかけられた状態で発見された。
男性の頭部は腐敗が激しく、身元特定が難しいため鑑識に回し、結果が出次第余罪を追求していく方針を固めた。
また、発見された手紙だが、被害者と交際していた同じ大学に通う男子大学生にこの手紙の存在を伝えたところ、内容の閲覧を強く所望してたため手紙の公開を行う事にした。
手紙の内容は以下の通りである。
--
この手記が世間様に読まれているという事は私の罪が白日の元に晒されているという事でしょう。
でも、最初に言わせて頂きますが、私は犯した罪を悪いとは思っておりません。
しかし、世間がそれを許さないのであれば、その罪は償うべきなのでしょう。
この手記は捜査の参考資料として読まれるのか、裁判での情状酌量を乞うために読まれるのかは見当もつきませんが、いずれにしても私はこの手記では嘘偽りなく、本当の気持ちを綴ったつもりです。
例えば私が、富豪の娘でしたり、何か大それたことを成し遂げた世間の注目者でしたら、見方も多少変わったでしょう。
でも、私はただの女でしかないのです。
どこにでもいる無学無能の女です。
それでも、知らせたいのです。私の事を。
--
私の父は厳格な方です。
私が幼くして母を亡くし、それからは男手一つで私を育てて下さいました。
ちょうど私が18になり、女学院に入学した頃から普段口うるさい父が全く私に何も言わなくなりました。
一日中ベッドの上で寝たきりなのです。
この頃になるとめっきり元気もなくなってきたようで、朝食の席に呼んでも寝たままです。
私は心配して、父の痩けた頰にキスをして今日も学院に急ぎました。
女学院は東京の神楽坂にありまして、私は恵比寿に住んでいるものですから通学時間は駅まで20分。電車に揺られて30分。そこから学院まではバスで10分かかりますので1時間程でしょうか。
今日も駅に着き、電車に乗り込みます。
本日は火曜日でございますから、8時12分発の渋谷・新宿方面の山手線、2号車に乗り込むのです。
何故指定しているのかと言いますと、「彼」との約束の様なものがございます。
約束と言いますより習慣と言った方が的を射てるでしょうか。
「彼」と言うものは私もよく存じるものではございません。
あれは2ヶ月程前の事でございましょうか。
丁度この頃より女学院にも慣れて参りまして朝起きる事も辛くなく、1限のある火・木曜日は決まって8時12分の電車に乗るようになりました。
スーツを身にまとった大男供の波に押されながらの乗車もこの頃には慣れるものでございまして、低い背が幸いしてか、人と人との間に体をねじ込ませる事が容易に行えるのでありますから乗り遅れると言う事はございません。
私は常々、フランツ・カフカの書を愛読しておりまして、この日も彼の世界に耽っていたのであります。
その時です。
電車が急にブレーキをかけまして、私は前の青年に飛び込んでしまいました。
慌てて「失敬」と言うと私と同じカフカの書が目に入ってきた事に気づきました。
そう、「彼」の読んでいたものでございました。
中学、高等学校、大学と女学校だったものですから、元来父以外に「男」と言うものを知らなかった私は身勝手ながら共通の書を通じて、彼との運命的な出会いがあると思ってしまったのです。
これが俗に言う「一目惚れ」でございましょう。
このさり気ない悪戯心を孕んだ日常的な出来事は、私の心臓を射るに容易いものでした。
「彼」も丁度同じ書を読んでいる事が珍しいと感じたのでしょうか、私の書をじっと見つめた後、自分の書に目を落としました。
これが私と「彼」との出会いでございます。
この日より特に約束した訳でもありませんが、私と「彼」はこの時間の電車で落ち合う関係になったのであります。
名前も住所も知らず、お互いに干渉し合う事もなく、電車で書を読み合う。その様な関係であります。
本日も彼は来ていました。
私よりも前の駅から乗っている様で、いつも先に窓際で書を読んでいます。
私もサッと乗り込み、さり気なく彼の視界に入るかどうかの位置に着きます。
彼はチラリとこちらを見てきます。私もチラリと彼を見返しお互いに目で挨拶し合い、書に目を落とすのです。
これが私達の挨拶であります。
私自身これ以上の干渉が許されないこの仕草にいじらしさを覚えます。
ああ、彼に一言「おはよう。」と言える勇気があればどれだけ仲睦まじくなれるだろう。そういった思いと裏腹に、彼は私をどう思っているのだろう。こういった思いが鍋で掻き回されるシチューの様に渦巻くのです。
そんな訳でありますから彼と言うものはよく知らなかったのです。
これが乙女心と言うものでしょうか。身を焦がす様な切なささえ覚えるのです。
最近はこの様な事ばかり思うものですから全くと言って良い程に書が読めません。
文字が踊るのです。
そうこうしている内に、高田馬場駅についてしまいました。
ここで降りねば学院には行けないのです。
私は恵比寿から高田馬場までたったの6駅しかない事に今日この頃は恨みさえも覚えました。
私は1秒でもこの空間に残りたく、人波に押される様に受動的に電車を後にしました。
女学院に着くと、友人が門前で待っていて下さいました。
彼女はショートボブにもみあげを長くした様な髪型をした可愛らしい女の子です。
他に特筆すべき点といえば夜色の瞳も大変綺麗でございまして、見つめていると吸い込まれる様な錯覚まで覚える程です。
彼女との付き合いは長く、高等学校時代より一緒でした。
ここ最近は私が講義中にも憂いが目立つと見てか、授業中にカサコソと話しかけて来ました。
「最近元気ないね。どうしたの?」
「どうもしないよ」味気なく返答した気もします。
「嘘。絶対何かあったでしょう?」彼女の目が妙にキラついている様に感じました。
私は観念し、「彼」の事を洗いざらい話したのです。
その上で私は彼女にアドヴァイスを乞いました。
どの様にしたら、「彼」とお近付きになれるのか。
彼女は私の話を終始和やかに笑いながら聞いておりました。
彼女の癖の様なものです。彼女は恋の話や低俗ではございますが、下の話になりますと、照れ隠しの様に和やかに笑うものなのです。
私達も恋に目覚める年頃ではございますから、友人の乙女話を聞くのはこそばゆい感じがする事も納得ができましょう。
彼女は一通り聞き終わりますと、少し大げさにうん、うん、と頷いて見せました。
その後に右手の親指を立て、私に笑いながら言うのです。
「彼に一言挨拶しなよ。大丈夫だって」
ええ、そうでございましょう。実際、彼女は知らないのであります。
あの空間の雰囲気は私と「彼」にしか存じ得ません。
知らない人間にアドヴァイスを乞いても、それしか言えないのも頷けます。
しかしながら、やはり持つべきものは友でありまして、事実私は、この言葉に多くの勇気をもらい、一歩踏み出せたのであります。
「彼」に一言。
そうです。難しいはずなどある訳が無いのです。
「彼」は私と同じ人間でございます。物の怪でも何でもなく、私が取って喰われると言う訳でもございません。
そう思えて来ると、今までの自分が馬鹿の様に感じます。
いつまでもいじらしくモジモジとしていて物事が進む事などがありえましょうか。
いいえ。私より動かなければどうにもならない事はどうにもなりません。
よし。言うぞ。
私は決心したのであります。
次に彼に会えるのは木曜日でありますから、それまでに何をしましょうか。
ただ挨拶するだけと言うのも味気ありませんものですし、気の利いた洒落やら、乙女らしい言葉の言い回しをこさえましょうか。
ああ、当日は何を来て行きましょうか。
きっと冷えましょうから、可憐なコートでも、それともニットでも。
ああ、考えるだけで胸が高まるのを感じます。
学院の講義でも倶楽部活動でも、ずっとこの事ばかりが思い浮かぶものですから、「集中」と言う言葉はどこかへ飛んで行ってしまっておりました。
シェークスピアも言っておりました。
確か「ヴェニスの商人」のジェシカの台詞でございましょうか。
___But love is blind, and lovers can’t see the pretty follies that themselves commit.
(しかし恋は盲目であり、 恋人たちは自分たちが犯す愚行に気づかない)
まさに今の私はこの言葉に戒められるべきだったでございましょう。
しかしどうしてこの胸の高鳴りを抑えることが出来ましょうか。
「彼」を思うごとにまるで羽が生えた様に足取りが軽くなるのです。
側から見れば何とも滑稽な様子に見えていたのでしょうか。
私は気分良く家に着きました。
今日の事を父に話そうと思うのです。
しかし父はやはり元気が無いのか、ベットの上で眠っている様でした。
父は今では随分と軽くなり、私でも抱きかかえられてしまう程であります。
私は父を胸に抱きかかえ、ベットに横になりました。
私は抱きしめる父に何だか切なくなる様な愛おしさを感じながら彼の事を話しかけたのです。
しかし、父は異性の事に関しては一層厳しく、中学生の時に告白された話などした時は、それはもう怒り狂う程です。
どの様にして父を説得しようか。
言葉巧みに上手い方に勧められたらどれだけ苦悩しないか。
頭でシュミレートした言葉を反芻ばかりさせ、父を抱きしめる力が自然に強くなっていくのを感じました。
はじめの方、「彼」の事を話した時父はやはりあまり良く思っていない様で不機嫌になってしまわれました。
しかし、父もわかって下さったのでしょう。
私の19でございます。
それはもう、年頃ですから恋を覚える事も珍しいものではない。
そう父に言った時、父もきっと昔を思い出したのでしょう。
機嫌はすっかりと治り、顔が笑っている様にも感じました。
私は父のおでこにキスをすると父をベットに寝かしつけ、しっかりと布団をかけた後に髪を整えてやり、部屋を後にしました。
父が納得してくれてよかった。
私も鼻歌を歌いながらシャワーを浴びました。
ああ、彼に父を紹介するのが待ち遠しい限りであります。
--
夢を見ました。
正直に言って、この夢を書く事を私は相当に悩みました。
だって今はテレビをつければ教育評論家や子供の心理学のプロフェッショナルが「親の教育について」を暇さえあればスタジオで議論なさっているではございませんか。
まぁ、議論というものは答えがすでに決まっているものでして、「子供を自由に。殴るなんて言語道断」どの議論でも行き着く終わりは一緒でございます。
そんな事でありますから、悩んだのです。
父の教育方針はきっと、今の風潮に照らせば問題であるのかもしれません。
それをわざわざ書き起こせば、父に火の粉がかかる事でしょう。
もしそうなれば、私はなんて親不孝行な娘でしょうか。
ですが、父に謝らねばなりません。お許しください。
私は夢の内容を書くことにいたしました。
自分を構成する要素に記憶がありますのであれば書かねば私を知らせる事など不可能だ。そう思ったからです。お許しください。お許しください。
あれは父に教育されている時の記憶でございます。
ちょうど小学5年生の頃の記憶でした。
その時はピアノを練習している最中でしたが、思うように弾けませんでした。
指がもたつき、それはそれは10匹の蛇を操るような不器用でもつれ合った動きでした。
父は幼き私をそれは厳しく教育してくださいました。
上手く弾けないと頬を叩かれて、機嫌が悪い時にはバスタブに反省するまで沈められる事もございます。
冒頭にて、父が厳格である。そう書いたのはそのためでございます。
ですが、私は父を嫌ってなどおりません。
バスタブは嫌いになりましたが。
どうか。どうか父を責めないでください。
むしろ父の教育には愛さえも感じておりました。
父は私が良い子であると、愛を持って褒めてくださいますものですから、私は必死で良い子でいました。
ですから、この様な教育も愛ゆえのものでございます。
しかし、今日この頃の父は褒めても、叱ってもくれません。
メランコリアと言う訳ではございませんが、とにかく何も言わなくなってしまったのです。
しかし、私はそんな父も愛しております。
父が愛してくださいました様に私も父に精一杯の愛を捧げましょう。
そしてこれからは「彼」にも父と同様の愛を捧げましょう。
今日も私は父の痩けた頰にキスして、学院に急ぎました。
--
ついにこの日がやってまいりました。
彼に話しかける木曜日でございます。
昨日はどうやって話そうか、何を着て行こうかなど考えておりました。
床についても良く眠れませんでした。
ついに彼に話しかけるのが楽しみで仕方ないのです。
それはまるで明日が遠足で夜更かしをする子供の気分でした。
今日は持っている中で一番上等なニットを身にまとい家を出ました。
今日も平常通り8時12分に電車は来ました。
心なしか、今日は人波が少なく見えます。
私はやや強引に小さな体をねじ込ませ、今日は彼の目の前に立ちました。
彼も「今日はいつもより近いなぁ。」とでも思っているのでしょうか。私が彼の前に来た際に少しばかり驚いていました。
さぁ。いうぞ。
私は決心していました。
けれども、喉から声が出て来ません。
口の中がパサパサに乾き、金魚の様にパクパクと動かしているだけでした。
昨日考えてきた乙女チックな言い回しも何もかもが頭からサラサラと崩れ去っていきます。
今思えばおかしい話です。
なんの面識もない女からいきなり話しかけられたら、彼は私をどう思うでしょうか。
ええ、きっとおかしな女だと思うでしょう。
そんな考えばかりが張り巡らされ、彼の前に立った自分が何だか恥ずかしく思えて仕方ありません。
ああ、恥ずかしい恥ずかしい。
そんな時です。
なんと彼が赤面しながら突っ伏してる私に話しかけてくださったのです。
私から行くべきはずなのに彼はそんな私に助け船を渡してくれたのです。
「...どうかなさいました。と言うより、今日は近いですね。」
「ええ...そうですね。...あの、私、貴方がカフカの書をお読みになっているのに珍しく思いまして...少々マイナーな方ですから。」
「そうですか。僕の周辺でも読んでいるのは、僕と貴女だけですからね。」
などという取り留めもない会話をした事を覚えております。
私は幼い頃からそうでございまして、緊張をすると考えが真っ白になり、当たり障りのない事しか言えなくなるのであります。
実際、彼と何を話したかなどこれより先は全くと言って良い程何も覚えてはおりませんでした。
唯一覚えている事と言ってもただ、お喋りの最中に今朝の寝癖が失礼のない様に整えられているか。そんなところでした。
私は気がつくといつの間にやら駅を降りておりました。
自分で降りたのかも、彼に指摘されて降りたかも分からず、曖昧模糊。そう言った具合です。
ただただ夢見心地な心境と、高いウヰスキーを呑んで陶酔した様な心地の良さの余韻に浸っておりました。
話しかける事が出来た。
それだけで満足。もう満足です。
今の私がこれ以上何を望みましょうか。
ああ、でもただ一つだけ願いが叶うとしたら、もう一度彼とお喋りがしたいものです。
次は来週の火曜日。
ああ、待ち遠しい限りです。
次はもっと上手くお喋りができますでしょうか。
学院についても尚、私は余韻に浸っておりましたものですから、友人の問いかけにも応答出来ずにいました。
--
もしこの世に神がいるとすれば、神は何と意地の悪い方なのでしょう。
彼との空間は光の如く早く過ぎ去ってしまうくせに、なぜ彼と会うまでの時間は亀の如く鈍間なのでしょうか。
火曜日まで、あと2日もございます。
きっとその2日間も私はこの胸の底から湧き上がる業火に悶えながら焼き続けられるのでしょう。
ああ、この切なさこそが、このもどかしさこそが「恋」というものなのでしょうね。
確か、太宰治の「斜陽」のかず子の言葉でしたでしょうか。
___私は確信したい。人間は恋と革命のために生れて来たのだ。
ええ。そうだと思います。人生には恋が必要不可欠。
そして内面の世界の革命無くして、自身や組織の革命が成し得えましょうか。
我々はいつしか革命を起こすのです。
それは経済運動であれ、教育運動であれ、恋愛であれ、それは一つの革命であり、規模は違えど本質は同じ事なのです。
私は革命に出たのです。
それが、乱となるか変となるのかは天賦に任せるより他はないのでしょうか。
果たして私は乱と出た時、その事実を甘んじて享受する事ができましょうか。
その様な事ばかり考えてしまうものですから、私はどうしようもなくなり、父の元へ行きました。
今日も父はベッドですっぽりと毛布を被っておりますので、余程具合が悪いと見えます。
あまりに動いていないのか毛布のシワの具合も以前と変わりなく見えます。
私はそんな父を胸元でぎゅっと抱きしめました。
ああ、何故父を抱くたびにこんなにもセンチメンタリズムな心情になるのでしょうか。
これが「愛」だとすれば随分と悲しいものです。
父は私に語ってくれません。
しかし、父を抱くだけでよかったのです。
抱きしめる間は全ての悩みが最初からそこになかったかの様に消え去るのです。
何分、何十分抱いていたのでしょうか。
私は父にお礼を言うと、今日は右眼にキスをして、毛布をしっかりとかけてやり、部屋を後にしました。
その時にはもう悩みなんてどこの吹く風でしょうか。
そんな思いでした。
事実、見えない未来を杞憂する事ほど馬鹿らしい事はありません。
それに、私はこの前彼に話しかけたばかりです。
これからがスタートですから、胸を張るべき。そう思いながら、シャワーを浴びることにいたしました。
--
今日も父の夢を見たようです。
あれは中学3年時の全国模試にて都内で3番目に難しい高等学校(第一志望でございました。制服が可憐で大変に可愛いのです。)の順位で首席を獲得した時の夢です。
父はまぁ、おかしくなるくらい褒めてくださいました。とても喜ばしいかったです。
ああ、私はこの瞬間のために生まれてきたのだと。心からそう思う瞬間でございます。
父が私を心から愛してくださいました。
あの時のスカートをスルスルと降ろされる感覚は今でも鮮明に思い出せます。
だって私は父から愛されていたのですもの。
これほどに嬉しい事はございません。
ですから、私は幸せでした。
父だけが私の全てでした。
それだけ。それだけでよかったのです。
ああ、父を抱く時のあのセンチな気持ちは丁度父の穴と私の穴が重なり合うから起こるものなのでしょうか。
父はもう教えてはくれません。
出来ることなら、父ともう一度話がしたいものです。
今日も私は父の痩けた頰にキスして、学院に急ぎました。
さぁ、いよいよ今日を乗り切れば、明日は火曜日です。
今から彼とお喋りする事を考えると、楽しみで仕方がありません。
電車に乗り、ちょっとした後誰かが私の肩をポンと叩いたのです。
突然のことでありましたので、私は仔猫のように、ビクりと跳ね驚きました。
私は眼前の光景を疑いました。
幻覚ではなかろうかと思う程でありました。
そう、「彼」がいたのです。
今日は学院は2限からある為いつもの時間の電車でも、同じ車両でもございません。
ですが、彼に会ったのです。
こんな偶然がございましょうか!
彼が私を見つけ、肩を叩いてくださったのです。
ああ、こんなにも嬉しいことがございましょうか。
どうして今日はもっと上等な服を着てこなかったのでしょう。
髪型は乱れてはいないでしょうか。
「やぁ、奇遇だね。」
「ええ、そうですね。今日はお互い遅いのですね。」
「今日は僕は病院に行くからね。君は?」
「わ...私も今日はべつの所に用がありまして...その...いつもは学院に行くので高田馬場でおりますが、今日は田端まで...」
私は生まれて初めて学校を遅刻するかもしれません。
彼と多く話がしたいが為にこの様な嘘をついてしまったのです。
私はそれほどに彼と喋っていたかったのです。
「そっかー。僕もいつもは大学に行くのに池袋まで乗るよ。今日は巣鴨まで...お、カフカじゃん。好きなんだ。それ。いつも読んでる」
「ええ...彼の世界観が好きでして...貴方のいつもお読みになられてますよね」
またこの様な当たり障りのない会話をした事だけは覚えております。
その他にもお互いの名前が何であるやら、何の話が好きであるのやら。
彼...名前は萩さんと言いますが、萩さんとお話をする言葉はのべつ頭で考えるくせにそれは結局はただの付け焼き刃の急ごしらえ。
何の意味もなかったのですね。
そんな飾り付けだけだけ立派にしたプレインな言葉はいとも簡単に瓦解してしまいましょう。
何が言いたいのかと言いますと、またも私は緊張やら何やらで頭が真っ白になったのです。
わたわたしながら話す私を萩さんはどう思いましょうか。
計り知る余裕もございませんでした。
でも、優しい笑顔でお話しして下さったのがとても嬉しく思いました。
ああ、この人は何と美しい笑顔を私に向けて下さるのでしょう!
電車はいつもよりも早く走るようで、もう巣鴨についてしまいました。
楽しい時間はこれでおしまいです。
「ああ...もう巣鴨か。じゃあ、雅ちゃん。明日またね。」
「ええ。ごきげんよう。」
ああ、萩さんが有象無象に混じって去ってしまいます。
無情なドアが萩さんと私を隔てるフィルターの様で憎らしく思えました。
その時の私は何を思ったのでしょう。
今となってはその時の心境等を思い至ることが出来ないのですが、私はドアが閉まる前にイタチの様に素早く、しなやかにドアをすり抜けたのです。
そして、愁さんを見失わぬ様に、でも、気付かれない様に有象無象の影に身を潜めて、後を尾けたのです。
階段を登る愁さんを追いかけたのです。
駅を出て、信号も渡り、枯葉が囁く街路を萩さんは流れる様に進んでいきました。
途中でカフェオレを一杯。コンビニエンス・ストアで購入なさっていました。私も同じものを飲みたく思いましたが、突然、後ろから私が登場したら萩さんは大層魂消るでしょう。
萩さんはそれを飲みながらスタスタ歩みました。
私は相変わらず、気付かれない様にと、気配を有象無象に消しながらジッと見つめていたのです。
今思えばなんと軽率で、恥知らず。下劣で姑息な事をしたのでしょう。
私自身ですらそう思いますから世間はそれ以上の事を思っているに違いありません。
でも、それでもこの時は後をつけるような行為を恥じるよりも、目の前の萩さんに釘付けだったのです。
動作の一つ一つが美しく、歩き姿も兵士のようなどっしりと構えた自信を持ちながらも、どこか物悲しい哀愁を感じるその姿に私は見とれていたのです。
飲み物をお飲みになる愁さん。
佇む愁さん。
木々や小鳥に目をやる愁さん。
歩く愁さん。
スマートフォンをいじる愁さん。
時計を見る愁さん。
愁さん。
愁さん。
全てが美しい愁さん。
駅から12分ほど歩いたでしょうか。
萩さんが電車で言っていたであろう病院が見えてきました。
昔から建っている様で、コンクリートの壁は薄汚れ、駐車場側の壁には植物の蔦が幾重も根を伸ばし、枯れ草色の幕を作っていました。
枯葉や丸裸になった街路樹と相まってどことなく寂しい雰囲気で、まるで病院全体が眠りこけているようです。
病院の入り口前には一人の若い女の人が待っていました。
どなたかをお待ちになっているのでしょうか。でしたら暖かい中で待てばいいのに。そう思った瞬間、萩さんが走り出しました。
急なことにちょっと驚きました。
どうやらあの女の人に向かって走っている様で、お知り合いでございましょうか。
こんな呑気な事を思っているのが今ではとても愚かしく思えます。
なんと愁さんは女の人と楽しげにお喋りしているのです。
ああ、でもその笑顔や横顔も美しいもでしたね。
それを遠巻きに見る私の足元が一気に崩れ去っていくのです。
生唾が喉を通らず、呼吸の仕方も忘れ、その姿はまるで死と同義でした。
辛うじて覚えているのはここまでです。
その先は何も覚えていません。
と言うより書きたくございません。
気付いたら、駅まで走っていました。涙で顔もグシャグシャでしたでしょうから、きっと周りの人もびっくりしましたでしょう。
今思えば、友人に「遅れる」やら「今日は休む」とメールを送ればよかったと後悔しています。
寒空の下待たせてしまってるのですから。
ですが、この時はそんな事を考える暇もございませんでした。
あの女の人は誰であるんか。のべつ同じ事ばかり考えていました。
恥や外聞もかなぐり捨てて電車の中でもスンスンと泣いていたのを覚えています。
優しいおじさまがハンケチを貸して下さり、感謝やら、申し訳なさやら、先ほどのショックやらでさらにワンワンと泣き喚いてしまいましたのです。
周りの人はきっと何事かとお思いましたでしょう。
ああ、今思い返すと頰が熱くなりますゆえ、あまりここには触れたくはありません。
もう今日は何もする気も起こらず、家路を辿ることにしたのです。
幾度となく、悲しみの波が押し寄せてくるものですから、何回も嗚咽をしゃくり上げてトボトボと家路に着きました。
きっと、もうダメなのでしょうね。
これを読むあなたですら、簡単に想像に付いてるように、きっとあれは萩さんのガールフレンドでしょうね。
でなければ何の理由があって病院の前で、しかも寒空の下で待ち合わせましょうか。
考えたくない事、想像したくない事が取り留めもなく湧き上がるものですから、途中で、あまりの悲しさにその場でうずくまり、何度泣き喚いた事か。
側から見ればそれは、ヒステリックな女が喚いているだけの様にも見えたでしょう。
私は、もう何もかもどうでもいいと、地面に這い蹲りながら、いつもの2倍、3倍もの時間をかけて家にやっとの思いで着いたのです。
お陰で、玄関に着く頃には服はボロボロ。
膝小僧は赤く擦りむけておりました。
身だしなみを直ための鏡には、涙と土で見るに耐えない顔と、山姥の様なボサボサの髪の女が立っていたのです。
あれは、私じゃない。恐ろしい化け物でございました。
無気力で、やっとの思いで立ち上がり、フラフラと風呂場まで辿って行きました。
人類で一番最初に立ち上がった猿の気持ちが少しだけ、わかった気もしました。
途中で、ドアの角やら、壁の画鋲の出っ張りなんかに体のあちこちをガツガツとぶつけるものでしたから、痣や、擦り傷なんかも余計に出来るわけでありまして、脱衣所の鏡の前に着くときには、玄関で見た山姥よりも恐ろしい化け物へと成り下がっていたのです。
でも、不思議なことにその時の傷に痛みを感じなかったのです。
痛いと思うどころか、むしろ甘い夢見心地。まるで極楽の風に揺られた釈迦の蓮の花がその部位を優しく撫でている様な。そんな優しみと、自傷的なナルシズムが私の認識を甘い夢に誘ったのです。
きっと、世間の多くの若い女がリストカットや自殺未遂を繰り返すのはこの様な心境であるからなのでしょうね。
以前は、その様な行為をするものはマゾヒズムの極みだと思っていたそれも、苦しみから逃れるためのマインドエスケープの一種であった、とお思います。
ああ、もっと壊れてしまえばいい。
ドロリとした嫌な感触の自棄が心を黒々と埋め尽くすのです。
そんな時、脱衣所の洗面台に置かれた剃刀が目に入りました。
そこから先はもう、機械的でございます。
頭で考える暇なく手首に刃を押し当て、スッと引くだけでした。
意外と上の薄皮がズルリと滑るのですね。滑った皮から顔を覗かせる新鮮な肉も裂け、血が、出るのです。
不思議なのです。
この血は私がこんなに苦しい思いをしても赤いのです。
裁縫で間違えて針を指に刺した時に出る血と同じ色なのです。
生暖かい血が手首を滴り、足に落ちても赤いのです。
聖者でも死人でも、人間でも山姥でも化け物でも血は変わる事なく赤色でした。
きっと愁さんに流れるそれも赤でしょうね。
そう思ったその瞬間、強い嫌悪感を感じました。
愁さんに対してではございません。
私に対してでもございません。
あの女の人にも同じ赤色が流れている事に嫌悪感を感じたのです。
なぜ私の愁さんに対する想いをこんなにもズタズタにした女にも同じ赤なのか。
今まで想い続けた私を無慈悲にも切り裂いた女も同じなのか。
そう思うとたまらなく嫌で仕方ありませんでした。
きっと、これを読んでいる方は「なんて身勝手な奴だ」なんて思うかもしれません。
ですが、これだけは言わせて下さい。
なぜ自分のために行動する事が悪い事なのでしょう。
人は常に「他人の事を思って」と言いつつ結局自分の事しか考えていないではありませんか。
私もその考えに則る事に何の悪がございましょうか。
自分のために。と言う大義を振りかざす事に何を躊躇しましょうか。
私は、間違ってなんか、いない
悪いのはあの、女です
だからやるんです。
--
ああ、愁さん。
今すぐにでも会いたいものでございます。
貴方の笑顔が浮かぶたびに私を苦しめるのです。
恋と言う業火に身を焼かれ悶えるのです。
のべつ同じ事ばかりが浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返すものですからそれはもう無間地獄でございましょう。
もし、この手紙を愁さんがお読みになっているのであれば幸いです。
誤解の無いように言いますが、私はあなたを愛しておりました。
これだけは本当です。だから、私を嫌いにならないで下さい。
私はきっとこれが終われば長い事塀の中で暮らすのでしょう。
ですが、私は幾年たとうと愁さんへの気持ちが変わる事はございません。
ああ、塀を出る事が出来たら何をお話しいたしましょうか。
私の話はずっと塀の中のお話でしょうから、きっと退屈でしょう。
是非とも愁さんのお話をお聞かせ下さいね。
時間はたっぷりございますもの。おばあちゃんになっても、お話しましょうよ。
その日を楽しみに私は待っています。
ps:ああ、でも寂しくて我慢できなかったら、はしたない事ではございますが、私が愁さんを迎えに行きます。
--
...手紙を読み終えて出てくる感情は「恐怖」と「怒り」だった。
なぜこのような身勝手極まりない女に僕の彼女の由依が殺されなければ行けなかったのか。
刑事さんが「犯人が手紙を残していた」と言っていたため無理を言って証拠品のこの手紙を読ませてもらったが、読まない方がマシだったかもしれない。
ただのよくわからない女が、ただの異常者と知ってさらに漠然とした怒りが込み上げてくる。
僕は刑事さんに小さくお辞儀して、警察署を後にした。
夕焼けだけが嫌に眩しかった。
結婚する奴にも、子供が生まれた奴にも、僕にも1日だけは平等に終わる。
そして運命だけは不平等に突然終わる。
僕はどうしてあの女に声をかけてしまったんだろう。
毎日同じ電車にいる変な女に。
あの時ああしていれば...こんな事にはならなかった。
僕はこのセンチな気持ちを引っさげて家に向かって、ただ歩いた。
足が重く、何度も止めたくなった。
携帯が鳴っていたが出る気力もなく無視し続けた。
家に着き、僕は石の様にベッドに倒れこんだ。
相変わらず携帯がうるさいから、画面も見ずに電源を切った。
もう何もしたくなかった。
由依のいない生活なんて、考えた事もなかった。
僕に生きている価値はあるんだろうか。
もう、死にたかった。
と言うか、由依の代わりに僕が死ねばよかったのかもしれない。
そんな考えが堂々巡りの様に浮かんでいた時、誰かがチャイムを押した。
...もしかしたら家族かも
そう思って部屋の鍵を開けた時、僕は恐怖に飲まれて、失禁する寸前だった。
「きちゃった...♡」
私はただ愁さんが好きなだけです。