メリーゴーランドが回るとき
立待月か、居待月か。
真円から僅かに欠いた月が黒々とした山の端から姿を現し、灯り一つも見当たらない影絵の中から廃墟の姿を際立たせる。
「月明星稀。月、明るければ、星、稀なりと言うが、月が明るいと夜もまた濃いと誰かが謳ってはいなかっただろうか…」
その光景を電気を消した部屋の中から眺めた人物が、感に堪えられぬかのように言葉を零す。
いや、傍から見れば寝言か酔っているかの戯言であることは発言者当人も承知しているが、いわゆる『お年頃』であるため偶にこうした恥ずかしい行動を一人ぼっちで仕出かしている。
それを証明するように、目線を下に落とせばリビングの明りが庭に漏れ落ちている。耳を澄ませば野球の実況が微かに届く。
つまり、階下では他の家族が団欒している中、彼だけが部屋を暗くして一人で悦に浸っている訳だ。
「この手に杯があれば、月を浮かべて干すのだがぁっとぉ!?」
ベランダに通じる窓の枠に背中を預け、口角を僅かに上げて笑みを形作り、自意識過剰に月を眺めていたが、突如として体を起こして目を凝らす。
視線の先には明りが一つ。月光に照らされるばかりであった廃墟の中央に、人工物と分かる照明が灯っていた。
「チィッ! 馬鹿がまた入り込みやがって…」
それまでとは様子を一変させ、苛立たしげに吐き捨てると携帯電話に手を伸ばした。そのまま登録してあった電話番号を選択すると、携帯電話を耳にあてた。
「ああ、叔父さん。夜分に申し訳ありません。ちょっと時間が欲しいのですが、ええ、例の件です。メリーゴーランドが動きましたので、まずは連絡をと。はい、明日は土曜ですので、私の都合は問題ありません。では、具体的な時間はまた明日の朝にメールということで、はい、分かりました。では、お休みなさい」
はぁメンドクせと不満を漏らすと、ほんの三十秒もかからぬ通話を終えて、部屋の出口へと向かう。
その途中に振り返ると、もう一度廃墟の明りを憎々しげに睨み付けて、明日の予定が埋まったことを呪いながら準備のために出て行く。
それを月は我関せずと照らしていた。
夏の太陽が廃墟から情緒を奪い去っている。
これでもう少し日差しが弱ければ、塗料が剥げかけた「裏野ドリームランド」の看板にももの哀しさがあったかもしれない。
しかしアスファルトが白く輝くほどの光の中では、錆び付いた門柱も、破損した装飾も、敷地を囲む汚れた壁も、ただただ未処理の廃棄物程度の感慨しか沸かせない。
それらを木陰に隠れる様に涼みながら睨み付けている少年がいた。頭に帽子、首にはタオル、腰にはポーチ、ついでに身長の半ばを超える長さの鉄パイプを携えた姿は、陰影の濃さも重なってホラー映画のポスターめいている。
立つ場所が廃墟となった遊園地の前であることも含め、通報の対象となっても不思議はない少年の近くに一台の車が止まった。
車から出てきた二人の人物のうち、運転していた方は親しげに少年と挨拶を交わすが、助手席から降りてきた人物は少年の異様に思わず近寄るのを避けている。
それを察して少年も距離を保ち、期せずして共通の人物へと視線が集中した。
「あぁっとな、まずこっちの若いのは俺の甥っ子で、今回の件の通報してくれたんだ。で、俺と一緒にきたのは最近配属された俺の部下だ」
「なるほど、警察の方でしたか。これはこれは初めまして」
「こちらこそ初めまして。課長の甥御さんというと…?」
「ええ。叔父は母の兄になります」
互いに挨拶をしながら素性を確認しあう二人。その二人をしり目に、課長と呼ばれた人物はトランクからいくつかの荷物を取り出している。
「じゃ、ちょっと道が悪いから、杖替わりにこいつを持って行け」
長靴に履き替え、リュックサックを背負い、首からカメラをぶら下げつつ、部下へ1メートルほどの鉄パイプを渡す。
そのまま何の説明もせずに、看板が設置された正門の脇の従業員口から廃遊園地の中に入って行ってしまう。不法侵入ではないかと困惑する男性に、甥と紹介された少年は肩をすくめると話しかけた。
「道すがら事情を説明しますので、まずは叔父さんを追いかけましょう」
叔父と同じように何の躊躇いもなく扉を潜る少年の姿に、僅かな逡巡の後に同じように扉を潜り、そしてあまりの不可思議な状況に思わず足を動かすのを止めた。
肌に触れる空気が明らかに異なっているが、その理由は一目で理解できた。夏の強い日差しを受けながら、遊園地の中には河が流れていた。
門を背にして、正面には遊園地の全体図であっただろう看板が、落書きとともに放置されていて、その背後にはやはり放置された生け垣と元は芝生だった草叢が斜面に広がっている。
左手の方向には緩やかな登り坂となっており、進むにつれてカーブして斜面の奥の方に続いている。逆の右手方向は緩やかな下り坂となっていて、その先に目をやればおそらくは元駐車場と思わしき場所へと繋がっている。
それら正門から見える範囲の坂のほとんどが水に覆われ、一本の河として下へと流れている。
それだけでも十分に変わった光景だが、有り得ないことに黒い魚影が白く反射する水面に映り込んでいた。
水に覆われているとはいえ、元々は人も通れる道路であり、深くても数センチ、浅いところならば一センチに足りるかどうか。
そんな水溜り程度の水の流れの中に、大小様々な魚影が群れ泳ぎ、日差しを反射する水面との綺麗なコントラストを描いている。
「ええと、まず確認しておきたいんですが、出身は市外でということでよろしいですか?」
呆気に取られた様子から察したのか、少年が半ば断定するように問いかけながら河と化した坂に足を踏み入れた。
自らの先行きを示す様に、進行方向の水面に鉄パイプを突き入れる。すると群れていた魚影はパッと散って行ってしまい、ただのアスファルトと水に戻った場所へと歩を進める。
その歩く姿に、自分に手渡された理由を警察官は何処か場違いながら納得していた。
「え、ええ。自分は市外出身です。今年の夏からこちらの警察署でお世話になっています」
自分に続いて水の中へと足を踏み入れたのを背中越しに見やり、少年は水を揺らして魚たちを追い立てながら、まるで散歩のような呑気さを漂わせながら言葉を続ける。
「ならこの場所について説明から始めますね。この辺り一帯は元々『裏野ドリームランド』といって遊園地を中心とした宅地造成区域として山を切り開いた場所だったんです。ほら原っぱの向こう側に住宅地で見えますよね。私が住んでいるのが丁度あの辺りになります」
今までに来たことがあるのだろう、同行者に比べて危なげなく歩いていた少年は坂の途中で振り返り、何かを問いたげな視線を無視して眼下に広がる野原を指し示す。
坂のすぐ下、駐車場だった場所には、丈の高い雑草も繁茂しているものの砂利が敷き詰められ、人の手が入った地形であることはそれと分かる。
しかしその先、おそらくは駐車場よりも数段低くなっているそこは緑色に覆い尽くされ、地面の様子は全く判別できない。
それが目算で数キロにも渡り、所々に穴のような隙間が開いているが、そこは単に植生の違う植物が生えているに過ぎず、また生えているのが水辺を好む植物なので、よくて泥地、下手をすれば池か沼だろう。
野原の果てはまた数段は土地が上がっており、そこに一軒家やアパートが並んで太陽に曝されていた。
「本来であればあの原っぱも含めて住宅地になる予定だったんですが、かなり杜撰な計画だったそうで、切り開いた場所から予定外の地下水が染み出てきたそうです。住宅地として利用するには水抜きなど追加の工事が必要だったんですが、景気の悪化を理由に予算が付かなかったんです」
因みにですが、あの原っぱのギリギリのところに建っている家の一軒が私んチです、と指差された場所に目を遣れば、たしかにこの廃遊園地まで歩いてこれる距離であろう。
そこまで説明すると前方へと向きかえり、再び坂を上りはじめる。鉄パイプを使って散らしている以上、魚影に気が付いていない訳ではないのだろうが、それに関する説明は何一つせずに進んで行ってしまう。
部下の男性としても、説明を求めたい気持ちはあるが、上司が先に行ってしまっているので、案内役の少年の後を追わざるをえず、また常識的に考えてこんな場所に魚が泳いでいるのもありえないのもあり、結果として大人しく坂を上ることを選択していた。
「そうすると、ドリームランドを運営していた会社も当初事業計画の変更を理由に手を引いてしまって。それでも何年かは別の会社やら第三セクターやらで運営を続けていたんですけどね、結局は赤字が嵩んで廃園となってしまいました。それが大体10年くらい前の話です。営業中は地下水を汲み上げて処理していたんですが、廃業したら当然それも止まってしまった訳で」
切の良いところに合わせていたのか、説明と坂道の終わりがちょうど重なる。パシャパシャと水を蹴り出しながら、坂を上りきった先の光景が二人の目の前に広がっていた。
「現在はご覧の有様なんですが、心霊スポットとして有名になった所為で偶に侵入してくる奴らが居るんですよねぇ」
一見して、湿地帯。そこが何かと説明するならば、それが全く相応しいだろう。
営業中には入口広場として土産物店や売店がある広場だったのだろうが、今となってはひたすらに水、水、水、そして草。
水源は殊更に探すことも必要とせずに、たとえば広場の石畳の隙間から、ひび割れた売店の基礎から、あるいは更に上の広場から溢れ落ちる水が一帯を覆い尽くす。
水に沈んだ石畳の所々からは水辺の草が生い茂り、元は花壇だった場所は名も知れぬ花を咲かせている。
その水中を黒い魚影が泳ぎ回り、そして―――誰とも知れぬ人々が此方を見つめながら水の中から水面を必死に叩いているのが見える。
「―――これは」
「幻覚です」
居る筈がない魚の影がある程度ならば、まだ黙っていられた。自分の見間違いか、あるいは自分にしか見えないだけか。言い訳ができないほどの異常ではないからだ。
それを踏まえた上で、説明を求めようとした瞬間、あっさりと切り落とされた。
語勢が強い訳でもない。表情も最初の挨拶の時と同じく軽い笑顔だ。気負った様子もなに一つない。
「幻覚ではない筈がない、と思いませんか? 事実、こうやって水を揺らせば―――」
ボチャン、と鉄パイプが水面に突き刺さる。突き刺さった場所から波紋が広がり、日差しが反射して白い輝きの輪ができる。後に残ったのは透明な水だけ。
「もう何も見えない」
ね、問題ないでしょうと、帽子が生んだ陰の中で笑みが深くなる。それに気圧されたのか、僅かな逡巡の後、警察官は同意を示すように頷く。
「さ、叔父さんを追いかけますか。目的地は園の中央ですので、向こうの階段の先になります」
促された先を視れば広場の奥に短い階段があり、それを伝って水が流れ込んで来ている。遠くには観覧車の乗降口も視界に入ってきて、この元遊園地がいくつかの段となるように造園していたことが見て取れた。
「それと注意事項として、不自然な場所は手で直接さわることや足を踏み入れることは避けてください。基本的な対処法はこうなります」
すぐ近くで波打つ水面を、見様によって水の中から指先を伸ばしているとも見えるのを、パイプを突き刺してかき混ぜる。それだけで水面をただの水面に戻り、悔しそうにこちらを見上げる顔も消え去った。
そうやっていくつもの水面の人影を掻き消しながら、それでも浅い箇所だけを選び、最短距離を取らずに迂回しながら階段を目指す。
その注意深い振る舞いに、思わずといった調子で少年に声が掛けられた。もしくは、必死に水から抜け出そうとする幻覚たちの姿から意識を逸らすためか。
「ここは…」
「はい?」
「ここはいつもこんな様子なのか?」
「いえいえ、流石に普段はただの廃墟ですよ」
ただの廃墟、という言葉が逆説的に現在が異常であることを証明しているのは承知しているのだろう。少年は背中を見せたまま、振り返らずに語ってくる。
「今日の目的地は園の中央なんですが、そこに真夜中に動くと噂されているメリーゴーランドがあるんです。厄介なことにこの噂がマジモンでしてね、昨夜も動いていたんです」
言葉そのものは割りと丁寧であるが、声に込められた感情は憎々しげ、という形容詞が相応しいほど苛立ちに満ちている。
何でこんな面倒くさいことをせねばならないのか、と背中が物語っているが、一段ずつ魚影を散らしながら階段を上っているのであれば仕方もないか。
「しかも動いた翌日には必ず今日みたいな状況になるので、見かけたら叔父さんに連絡してるんですよ」
そうですよね、叔父さん。と、呼びかけた先には錆びたメリーゴーランドとその周囲を鉄パイプでまさぐる初老の男性が居た。
階段の先も、階段下と大きな違いはない。多少は量が減った水が幾つもの水溜りと水路を作り出し、そこに朽ちた遊園地の設備の鏡像を描いている。
広場中央のメリーゴーランドも塗装は剥がれ、装飾は壊れ、周囲を囲む鉄柵も錆びに覆われている。木馬も五体満足なものは少なく、足の一本や二本、もしくは首が欠けたものもあり、これまでに入り込んだ連中が何をしてきたかをある程度想像可能だろう。
「遅かったな」
「すみません」
一通り周囲を歩き回った後なのか、水面はすべて波打っており、魚の影は散っている。履いている長靴には草の切れ端が張り付いていて、草叢にまで足を踏み入れたのが見て取れる。
「課長…」
「とりあえずこの周辺は確認したから、有るとしたらもっと奥の方だな」
「それじゃ二手に分かれての作業ということで」
何かを言いたげな部下を無視し、甥へ簡単に現状を伝える。伝えられた方も広場に足を踏み入れた段階で予想していたのか、あっさりと次の手順を取りかかろうとする。
「課長」
「それじゃ俺はアクアリウムの方に行くから」
「では観覧車とミラーハウスはこちらの担当で」
手慣れた様子で役割分担を決定し、別々の方向へと向きかえる。もう一人の声など聞こえないかのように、何も言わず、何も指示しない。
「課長! 彼らは一体誰なんですか!」
上げられた大声に、ようやく彼らは、ただし鬱陶しげに振り返る。その顔に宿る意思をあえて言語化すると、言われなくても分かっている、だろうか。
ぼろぼろになったメリーゴーランドの中に、数人の男女の姿があった。明確にこちらを認識しているらしく、助け求めるように大きく口を開いている。
しかし、その口から声は出ておらず、大人の腰程度の高さの鉄柵をよじ登りもしない。見えない檻に閉じ込められている彼らは、それでも三人に向かって必死に助けを求めていた。
それを見て、警察官として、一人の人間として助けるべきだと彼は訴えかけるが。
「幻覚だ」
「何を馬鹿な―――」
「触れられない。声が聞こえない。何をしても出てこられない」
冷めた目に見据えられて、感情の激発が抑え込まれた。癇癪を起した子供を諭すような、冷静ではあるが温かみのない口調が、隠された苛立ちを悟らせる。
「極めつけに、だ。数日もすれば同じ顔の遺体が市内で見つかることになる。事故か病死か、あるいは自殺か。とりあえず事件性はないような状態で」
そう言いながら、首にかけていたカメラでメリーゴーランドを撮影する。
部下に渡されたカメラの画面に写っているのは、劣化したメリーゴーランドだけ。彼が助けようと主張する人間など、どこにもいない。
「ここに来たのは身元が分かる物がないかを確認するためだ。無理に納得しろとは言わんが、無駄が理解できたら手伝いに来い」
まぁ、先にこっちが終わるかもしれんが。
そう言い捨てて二手に分かれた叔父と甥の背後からは、水を踏み分ける音と錆びた金属が擦れる音が立っていた。
「叔父さん、今晩は。そろそろの時間なので電話させてもらいました。いえ、まだ動いているのは確認できませんね」
昨日と同じく室内の明りを消して、窓の外を眺めながら少年は電話を手にしている。日暮れから暫く過ぎ、すでに月は昇っている時刻ではあるが、雲の流れが隠してしまっている。
「帰りの車内ではどうでした? ええ、そうですね、私も同じことを尋ねられましたよ、連中を助ける方法は知らないのかと。そんなこと言われたって知らないものは知りませんし」
そもそも助ける気もないですから、と笑いながら話すと相手から叱責が飛んできたが、それも本気ではないと声の調子で知れたのだろう、あくまで軽い態度で謝罪する。
「でも良いんですか? 一応は叔父さんの部下なんでしょう。…なるほど、この時期に異動してきたって話から何かしらの事情はあるんだろうとは考えていましたが。いえ、詳しい話を聞く気はないですよ。ただまぁ、警察ってのもおっかない所だと思うだけで」
雲が動き、月が野原を照らす。昼間は一面の緑だったが、夜には月の影とも言うべき白に染まる。
目に映る光景と、口に乗せる言葉。それぞれがそれぞれに愉快であり、少年はどこまでも愉しげだ。
「しかし基本的に雑な話ですよ、これ。うまく運べば誰も手を汚さずに済むんでしょうが運ばなかった場合は、はい? ああ、その時はその時で構わないと。…ホントに雑ですね」
最後に呆れを込めて呟くと、電話口から笑い声が漏れ聞こえた。
ますますに呆れを深めた少年の視線の先で、今晩も廃墟に明りが灯った。時刻は異なるが場所は同じ。よくよく目を凝らせば、何かが回っていることまで理解できる。
「と、点きましたよ、叔父さん。うまいこと引っかかったかどうかの確認は明日以降になるんでしょうけど。しかし、ちゃんと言ったのに聞く耳を持っていなかった、てことですか」
処刑完了を示す明りに、昨晩とは打って変わった穏やかさで叔父に報告を上げる。
「不自然な場所は手で直接に触れないし、足も踏み入れるなと。あんな怪しいメリーゴーランドに手で触れて、踏み入れたんだから由無き仕儀という訳でもなし」
じゃ、しばらくは月を眺めてますから、用事があったらまた電話してください。そう通話を終わらせた少年は平然と、でもうきうきとした様子で、寝転がって月を眺めていた。
月はやはり、我関せずと照らしている。