命の還る川辺
夕立の上がった川縁をそっと進む。足を進めるたびに下草に宿った雨水がサンダルを履いた足を濡らしていく。
夕暮れを過ぎた空は薄紫色に染まり、辺りは夜の気配が充満していた。
刻々と色を増していく夜陰は体をそっと包み込むように優しく、どこまでも広がっている。
わたしはそっとしゃがみ込んで小川を覗き込んだ。雨上がりだというのにその川は静かに水をたたえていた。軽やかなせせらぎが耳に届く。
「そろそろ来てくれたって良いじゃない」
闇に沈んでいく対岸を見て、わたしは呟いた。
待てど暮らせどあなたは一向にやってこないから、ずっとここで待ちぼうけを食っているというのに。いったいどれだけ待たせる気なのかしら。
わたしはため息を一つついて濡れるのも構わずにその場に腰を下ろすと膝を抱えた。
会えなくたって良い。でもせめて、今夜ぐらいは気の済むまで待たせて頂戴。
初めてあなたに会ったのは、もう何十年も昔のこと。
けれど、あのときのことは今でも鮮明に思い出せる。
あの日。ずっと楽しみにしていた夏祭りが突然の雨で中止になって酷くへそを曲げていた。わたしの機嫌を取るために「良いものを見せてやる」と祖父が連れてきてくれたのがこの小川だった。
無数のホタルが飛び交う川縁であなたに出会った。幼いわたしをからかうように、あなたはせっかく結ってもらった髪をグシャグシャとかき混ぜた。口を尖らせながらあなたを見上げて、わたしは思わず「きれい」と言ったのを、あなたは覚えている?
ホタルの明かりに照らされて、あなたの目は金色に輝いていた。まるで一番星のように。吸い込まれそうなその瞳の色にわたしは見とれていたの。きっと、一目惚れだったんだと思う。それから何年も共に過ごして、この先もずっと一緒に生きていくんだと思っていたけれど……。
ふと、聞き覚えのある声がわたしの名を呼ぶ。それは随分昔に離れてしまった愛しい声。
けれどわたしは振り向かずにじっと対岸を見つめた。
「名前を呼ばれても決して振り向いてはいけない」
そう。それはあなたとの約束だから。此岸と彼岸の境目であなたと交わした約束。闇に潜む魔物が生者の魂を食らってしまうから。
あの夏。あなたはわたしのそばから遠く離れて、そしてわたしは新たな命を産み落とした。
ねえ、わたしたちの子供は随分大きくなったのよ。あなたはその川の岸辺で今もわたしたちを見守っているのかしら。
どれくらい時間が経ったのだろうか。辺りはすっかり闇に覆われて、川のせせらぎだけが耳に届く。
不意に一匹のホタルが目の前を通り過ぎた。ふわりふわりと漂う光を目で追う。葦に止まってゆっくりと呼吸するように光っている。その光は一つ、また一つと次第に増えていく。辺りは一面、ホタルの光で埋め尽くされる。
川面では蓮の花が咲き始めていた。淡く桃色に輝くつぼみは花開くたびにホタルをはき出している。それは巡る命が此岸に戻ってくるための光景だった。
ホタルは葦に止まって羽を休めると、川縁から離れて遠く飛び去っていった。
ねえ、あなたはいつ戻ってきてくれるの?
わたしは立ち上がってあなたの姿を探した。けれどここにあるのは、闇の中に浮かぶホタルと蓮の花が放つ光だけ。どこを探してもあなたはいない。
「いい加減、戻ってきてよ!」
対岸に向かって叫んだ。届くわけがないと分かっているけれど、それでも彼岸にいるあなたにどうしても会いたくて仕方が無かった。影でもいいのただあなたに会いたかった。
相変わらず、あなたの声がわたしを呼んでいる。それは偽物だと分かっているけれど、わたしは誘惑に負けて振り向こうとした。
瞬間。
「だめだ」
腕を引かれて強く体を抱きしめられる。
その力強さに息が止まった。
懐かしい声。懐かしい体温。
「あなた、なの?」
恐る恐る尋ねる。
「馬鹿なことするなよ。見てられなかった」
その言葉に、わたしは泣きそうになりながら声の主を見上げた。
ホタルの光を映し込んで金色に輝く瞳は、あの頃となにひとつ変わらずわたしを優しく見つめている。
「会いたかった」
抑えきれない思いと一緒に、涙があふれた。
「母親になって強くなったかと思ったら、相変わらず泣き虫だな」
大きな手のひらが涙を拭う。
「ずっと見ていてくれたの?」
「決まってるだろ。どんなに離れていても、ずっと見守ってるって約束したろ? だから、もう無茶なことするな」
そう言って、わたしの髪をかき混ぜる。
「たまには帰ってきてね」
わたしは愛おしさにあなたを抱きしめた。
*
家に戻ると寝ぼけ眼の娘が目をこすりながら出迎えてくれた。
「何か良いことあったの?」
「どうして?」
「嬉しそうな顔してるから」
「ちょっとね」
肩をすくめると、その拍子に小さな光がふわりと飛び出した。
「え? ホタル?」
娘が驚きながら小さく光るホタルをそっと捕まえる。
「季節外れだよね。どうしたんだろ?」
首をかしげる娘は、独り合点したようにうなずいた。
「お父さんが帰ってきたのかな。お盆だしね」
娘の手のひらの上で小さく瞬くホタルとを見つめてほほえんだ。
お帰りなさい。あなた。