南清水沢1985
昭和と21世紀で大きく違うのが飲料事情だ。お茶はタダという感覚があり、お昼時にはストーブで沸かしたものをプラカップに注いで飲む。シュンシュン沸いているヤカンは今で言う加湿器でもあり、役割が多かった。
缶緑茶は発売されているはずだが、駅弁用に売られていた汽車土瓶(プラ瓶)を置き換え始めた段階のようで、まちなかには普及していなかったのではないだろうか。探してみてもウーロン茶が珍しいドリンクとして売られているのみで緑茶は見ていない。
PETボトルも存在しないようだ。ミネラルウォーターは瓶入りである。考古学サイトによると90年代半ばに出現するはずのニアウォーターも何故か既に売られている。まあしかし、高校生はそんなものは買わずにタダのお茶を飲む。
ストーブ脇では机が1つ弁当温めスペースになっている。もうプラスチック弁当箱が主流の時代だが、温めるためにアルマイト箱という選択がある。トバを炙っている男子もいる。この間のスルメは胴を車内で配ってゲソは持ち帰る羽目になったけど、教室で堂々と焼けたのか……。弁当だもんな。
一夜干し状態のやわらかいトバを分けてもらってかじる。しっかりした身に、渓流魚っぽい爽やかな脂の味がする。マスかと思って聞いたら、イトウ、というとんでもない答が返ってきた。
「イトウ!? これ幻の魚のイトウなの?」
「うーん、幻の魚ってもね。イトウやアメマスはイクラを食べてしまうでしょうが。したっけ、梁にかかったら全部駆除しなければなんねえわけ。コンテナに詰めて原野に捨てて、したら他所ではいなくなったわけ」
「うへぇもったいない」
昭和ァ……。その辺に投棄しておけばいい感覚が強すぎでしょ。
「夕張はサケが遡上しないものだから、イトウがいてもそこまで困んねえっしょ。けどやっぱワカサギを食い荒らすもんで、釣っては食べて処理するわけ」
「減らしちゃうんだ。東京から青森まで食べに行く観光客がいるほどの観光資源なのに」
「いやいやいや、なしてわざわざ」
何故と言われてもいるのだな。人を呼べるコンテンツだ。
「いつも獲れるもんじゃねえからね。せっかく来てもらっても出せないんじゃ売り物にはならんしょや」
「いや逆にね、そのレアリティを売りにして、獲れたらサイトで……あ」
そうか、「幻のイトウが釣れてしまいました! このままではルイベに加工するしかありません! 今夜だけ生でメニューに入れます、食べに来て!」と助けを求めることはできないんだ。今ならツイートした瞬間、速攻札幌から時速100kmで飛ばしてくると思う。リリースしろって抗議も100倍送られてくるだろうが……。昭和の頃は流通・通信・交通に制約が強い。ああすればいいのにこうすればいいのにと思っても現代知識が役立たない。
「うーんバゲットがほしい」
「バケツ?」
「フランスパンね。これはもう少し生っぽく仕立てて、フランスパンに載せてオープンサンドにしたら絶対に合うわ」
トロが捨てられていた江戸時代なら下魚とされただろうけど、年々脂を好むようになる日本人の舌に合うはず。バブル期だから、既に合っているかもしれない。
甘酸っぱいジャムを添えるのも良さそうだ。樺太やシベリア発祥の食べ方で、ゲテモノっぽい印象に反してなかなか合う。生ハムメロンを想像すると抵抗感が薄いだろう。この時代の南側で食べられていたロシア料理は南北交流時代に伝わったものが少々という感じだが、統合後には全道にそこそこ波及する。ルイベとハスカップジャムのブリヌイ(ロシア風ヨーグルトクレープ)なんてのは観光客が面白がって頼む食べ物の代表格である。
「ワカサギみたいに遊漁料取ったり、区画を区切って支夕張湖で養殖したりできないのかなぁ……」
じゃあ食われるワカサギを補償してくれるのかと言われたら無理なんだけど。珍重される未来を知っていると惜しまれてならない。
観光化を語っていたらだんだんとまわりのクラスメートが参戦してきて、町の未来を考える喋り場になってきた。ただし、それを本気で言ってるのか閉山5年前に、というぬるい認識が多い。大学出て鉱山に就職したら、故郷に閉鎖の挨拶に出向いて物投げつけられるのが最初の仕事になるぞ。
「だいたい炭鉱の汽車がSLじゃない時点で、石炭の将来は明るくないんじゃない」
軽く投げかけた声がしんと教室全体に通った。会話のざわつきが止まり、空気が張り詰める。教室中から注視されているのが分かる。
「……いやあ四菱の人がそれ言っちゃなんねえわ。大人に聞かれたら余されるっしょ」
イトウくん(仮)が再起動してぶんぶん手刀を振る。炭鉱の将来を懐疑するのは許されない雰囲気みたいだ。これだから、実際に炭鉱がなくなるまで何もできずに行ってしまうのだな。大きな流れに飲まれる大人はもう宿命かもしれないが、今から進路を選べる高校生は備えておけば多少ましな未来が望めるだろうに。
「少しいいですか」
頬骨までレンズがある眼鏡をスチャりながら、神経質そうな男子が立ち上がる。委員長と呼ぼう。クイッってやるなら、昭和のおっさんみたいな眼鏡より銀縁の細い眼鏡にした方が女子ウケいいと思うよ。この頃はまだ鯖江市長がレッサーパンダと交換に中国に製造技術を売り払ってないので眼鏡は高いものだろうけど。
「国鉄の旭川小樽間と札幌室蘭間は電化されています。発電に使われるのは石炭です。SLが走らなくなっても、石炭が鉄道を走らせることに変わりはないのですよ」
すごく早口で言ってそうなセリフを実際早口で言ってくる。
「青函トンネルも昭和62年度に完成して本州と繋がる予定です」
ああうん。知ってる。それこの間新幹線にバージョンアップしたぞ。
北海道新幹線が青森から新函館まで来た時の新聞では、1963年の青函トンネル開通から半世紀の軌跡が特集されていた。しかし実際は昭和63年の間違いのようだ。この時代にはまだ工事中である。21世紀から見ると1963年も昭和63年も過ぎ去りし前世紀で、そこになんの違いもありゃしねえだろうがと新聞社も思っているが、昭和60年の時点では全く違うのだ。
「間を結ぶ室蘭函館間の電化も着工済です。千歳新夕張間も電化前提で建設されていますし――」
あ、これはないな。国鉄民営化で反故にされた。21世紀になっても札幌から函館へはディーゼル。原発停止で電気が足りずに電線があっても軽油で走っている区間もある。
「そちらの南大夕張はビルド鉱、こちらの真谷地も現状維持鉱。全盛期の規模には敵わないまでも、これ以上縮小することもありえません。ここからは巻き返しですよ。リゾートとの両輪でますます栄えるんですよねえ」
ドヤ顔のところ悪いが、するんだよな、縮小。なくなる。夕張に24あった炭鉱が2になる衰退を見てきていて、何故0にならないと思うんだろう。南北統合でバブル崩壊、北海道経済は特に荒れる、なんてのは想像できなくても仕方ないが……。
「ひとつ聞いていい?」
「何でも」
「人が住んでなくて汚染対策最小限でいい原野を重機で掘るだけのオーストラリアの露天掘り石炭と戦えると思うの?」
「もちろん、思うはずがないでしょう」
「あら結構冷静」
「エネルギー安全保障や技術保存の観点から必ず国内に炭鉱が残されると言っているんですよ」
ははあ。それは、そこそこ正論といえる。未来を知るよしもない高校生でそこまで考えているのは立派とさえ思える。だけど選ばれるのは釧路なんだよね。釧路で技術を受け継ぎつつ、海外の訓練生も受け入れている。釧路が別の国だった南北分裂当時の思考としてはここが限界なのかな。
「逆に聞いていいですか」
「はいはい」
「貴女は将来どうなると考えているんです?」
「ショッキングな未来図になるけどいい?」
「ええ、伺いましょう」
聞く覚悟があるならレッツパラダイムシフト。固定されている視座をバーズビューにしてあげよう。
「炭鉱は閉山してメロンの町でしょ。夕張で検索すると軽巡の方が上に出るレベル。リゾート開発失敗で市が財政破綻して、都職員が市長に派遣されてきて東京都の植民地。出ていける若い人から出ていくから人口1万切って高齢化率50%の限界自治体、小中高は市内に1校ずつになる。冬になると建物が潰れてニュースになる。夕張線廃止をJL北海道に申し入れて引き換えにバスの支援もらおうとしてるのが最新ニュース。そんな感じ」
ざわりと敵意と畏怖が突き刺さる。
何あれ予言? 神降りてる? え、カムイって人に降りるの? クマの骨とかじゃない? トゥスでしょトゥス、イタコみたいなの。とざわついている。まだ恐怖の大王が約束破ってなかったのでオカルトを信じる余地があるのだった。まあオカルトじゃなくて完全に現実なんだけど。
気づけばとっくに午後の授業が始まっている。『自習』と黒板に書かれて、教師も腕を組んで喋り場を聞いている。自由だな。
リアリスティックなワーストケースのシミュレーションとして聞いてもらおう。この時点からしばらくは、日本経済が良くなりすぎて円高で輸入炭が実質値下がりする。南北統合で北の安い石炭も入ってくる。バブル崩壊以降は元々過当競争気味だったリゾート施設も厳しくなる。他所はコクド電鉄とかが北の大地までノコノコやってきてリゾート開発しているが、ここは第三セクターで運営したから市がものすごい借金を抱える……。悪夢のような未来だ。だが現実なんだぜ、これ。もう、動かせないんだぜ。
……いや待てよ、動かせるのか? まだぬるま湯の認識だった32年前に、このままでは立ち行かないという認識が生まれたら、個人の進路だけじゃなく全体の未来も変えられるかもしれない。高校生が改めたところで遅いかもしれないが……。市がリゾート施設の赤字をごまかすために年度越えの帳簿を不正操作して膨れ上がらせたことは教えておいてあげよう。これはオンブズマンが1人開示請求すれば途中で止められて致命傷で済むはずだ。今からはコンピューターの時代だとか、グルメが想像もつかないほどブームになるから売り込めとか、鉄道が廃れて車ばっかりになる時代に合わせて日帰りドライブを相手にしろとか、思いつくままに吹き込んでおく。現代知識がそのまま転用できないのは分かっているが、拾っていただければ幸いである。