よく晴れた初夏の日に
裏街にいる人間の話 単発
喉から血の味がする。
息が切れる。胸が痛い。
酸素を求めて息を大きく吸い込んだ。裏街のなまぐさい悪臭も気にならない。
瓦礫につまづき、地面に手をつきながら、重たく鈍った細い足を叱咤する。
『裏街出身の? ……深層から逃げてきたのか。そりゃあまた……嫌な仕事だな』
『……見逃して、表で殺しでもされてみろ。次に焼かれるのは私達だ。……情はかけるな。表に出る素振りを見せたら殺せ』
研がれた聴覚が、監視の鬼たちの存在を知らせる。
自分の末路を悟っても、最期の望みは捨てられなかった。
夜闇すら見通す目で、彼の残した僅かな血痕をたどる。
「お前みたいな無能は、表で生まれたって殺されて終いだ。よかったな、お気楽に此処にいられて」
暗く湿った下水の味と、自分を飼いつなぐ鬼の激臭。虫のたかった生ごみのくず。
物心つく頃から動かない足を引きずり、這いつくばって地面を舐めるように食事を摂る自分は、鬼から言われるような無能であると疑わなかった。
気まぐれで暴力的な生き物たちの衝動の捌け口になり、一方的に蹂躙されて、治療もされず放置される。
消耗品として使い捨てられる、同じ形をした生き物たちの末路を見るたび、自身の命が短いことを理解していた。
彼は、使い潰されたものの代わりに新しく仕入れられた商品だった。
鋭い瞳は昏い絶望に揺れ、牙を折られた大きな体を怯えたように縮めていた。「慰めて舐めてやれ」と彼の住処に放り捨てられた私は、両の腕でずりずりと這って彼のもとに近づいた。
呆然と宙を見つめていた瞳が、私を映す。
嗄れた声が、小さい子みたいに「なんで」と泣いた。
「あなた、きれいだから。しかたないよ」
彼は売られてきたばかりだ。裏街の外で生まれて、オヤという人に売られてここに来た。
手足に傷や内出血もない。目も綺麗。服も少し土ぼこりがついただけで、変なにおいもしないから――私みたいに「醜く汚れて腐るまでは」、きれいなものを汚し壊したい欲望を満たすために使われる。それが、ここで見てきた事実からの推測だった。
顔が腫れて形がくずれ、肌がどす黒くなって、あの鬼たちの興味が失せれば用途が変わる。
それまでの辛抱だと――親切心で教えた私は。きれいな彼から恐ろしい形相で睨まれて固まった。
「……ふざけるな。仕方ない? そんなわけないだろうが。お前も鬼の同類だな」
鬼じゃないよ、と伝える声がつぶれる。
殴られた。いつものよりは痛くない。私たちは非力なんだと、鬼との違いを再確認する。
彼が、傷ひとつない手を差し伸べていた。
「……悪かった。……こっちこそ、あいつらと同じこと……立てるか?」
「ううん。わたし、いもむしだから」
引きずる両脚をぺちぺち叩いた。足首のあたりに深い傷跡がある、醜い足。
彼が顔色と声を失って、汚い私の手を握った。「ごめん」としか言わなくなってしまった彼は、別れ際に名前を教えてくれた。
おおぞらの意味を持つのだと、苦しそうに微笑んだ。
「太陽がないだけで気が滅入るな。……裏街が地下に広がってるなんて知らなかった」
彼の飼い主は、私が彼に良い影響を与えると判断したらしい。
元飼い主から私を買い上げた鬼は、彼と私を同じ部屋に入れて飼い始めた。食事で吐くことがなくなって、服が替わって、話し相手ができた。
私は以前より、ものを考えられるようになっていた。
「たいよう」
「光。まぶしい。それがずっと空にある」
「そら。テンのこと?」
「……この部屋よりもっと上に、一面に広がってる青のこと」
「あかるくていいね」
私よりも物知りな彼が、様々ことを教えてくれる。
外のことと、自分の内側のこと。鬼たちの会話を真似していただけの声が意味を持ち、現実にある物や自分の気持ちと紐づいていく。不思議だったし、驚いた。私自身よりも『私』を知っていて、見知らぬもののカタチを象る言葉をくれる。
「ねえ、なんていうの?」
「……今度は何だ?」
「テンみたいに、なんでも知ってる人のこと」
「なんでもは知らん、……やめろよ、そんな澄んだ目で見んな…………」
きれいな顔を両手で隠してしまう。テンはゴニョゴニョしながら返事に詰まった。
しばらくして、ぞっとするような目で遠くを見ながら――呟かれた単語を、そのまんま復唱する。
「かみさま?」
「……俺のこともお前のことも、みんなお見通しなのに何もしないクソッタレのことだよ」
「そうなんだ。なら、テンはかみさまじゃないね」
「俺は人間。お前も同じ」
「わたしはむしだよ」
「虫は俺のこと心配しない。……鬼に痛めつけられて形が変わったって、お前は俺と同じ生き物だよ」
「そっか。んふふ」
全部おしまいになること。
私たちの短い寿命がくること。
彼も決して、この生活が好きな訳ではなさそうだったから。「はやくおわればいいのにね」と、私は何度か彼に言った。
進んで壊れようだとか、怒り狂った鬼にわざとちょっかいをかけようとか、そういう暗い感情があるわけではなかった。つらいものは早く終わってほしいなあと思う程度の軽い気持ちだ。
けれど彼はそれを聞くたび、眉間にぐっと皺を寄せた。
「……生きていれば、きっと良いことがある。絶対にだ」
「だからお前も死ぬな」と。硬い声でそう言った。
噛み砕いて説明してもらったけど、それだけは解らなかった。生きているのは辛いことだから。
「テン?」
「なんでもない。……聞くな。答えてやれない」
「いたいの? わたし、どうしたらいい?」
「……いいから。……このまま、頼む…………」
仕事から帰ってきた彼は、酷い顔色でぐったりしたまま私に寄りかかる。
腕を伸ばして精一杯、彼の頭を撫でながら。やっぱり終わったほうがいいよと考える。
不思議なことに、何日たっても、彼はずっときれいなままだった。
「わたしもやる」
部屋を訪れた飼い主に、私は伝えた。
彼と違って、私はここに来て放置されっぱなしだ――まあ、相応に食事が抜かれたりもするけど。怪我をしないだけ厚遇というものだ。
前の飼い主と違って物腰柔らかな鬼がしゃがみこみ、私の顎のあたりを撫でながら微笑んだ。
「えらいね。じゃあ、そうだな……」
「おい」
声を低く尖らせ、彼が飼い主の服の裾を引く。
すると飼い主は肩をすくめて「わかったよ」と立ち上がった。
「ここで待ってなさい。それが仕事だ」
私は殴られなくなったけれど、彼はどこかに連れていかれる。
変えられない日常がもどかしく続いて――どれほど経った頃だろう。
飼い主が、扉の施錠を忘れていった。
■
外には誰もいなかった。
這いずって廊下を進み、階段をのぼる。お腹がつっかえて痛い。
ずっと先。この闇の向こうから、獣の吠える声がする。
「……おや。もう限界かな?」
半開きになっていた扉の先は、私が知るどこよりも酷い匂いがした。
たくさんの鬼の集まった匂いだけじゃない。血と排泄物、吐瀉物の酸っぱい匂い。焦げた感じの嫌な匂い。全部混じった激臭が、もったりと重たい密度で目と喉にまで刺さってくる。咳き込みそうになって、慌てて耐える。
なのに部屋は歓声であふれていた。
真っ暗な部屋で唯一明るく照らされた舞台は、這いずったままではよく見えない。
どうにか見ようと仰け反るみたいに首を伸ばしていると、飼い主の声が聞こえた。
「耐えられないなら交代しよう。あの芋虫さんは働きものだ、きっと頑張ってくれる――」
鎖の音が聞こえる。
掠れて今にも消えそうな空気の音が、私の聞きなれた声と同じものだと、しばらく気づけなかった。
「喉を治してあげよう……ああ、腹の中もまずいな。人間は柔らかくていけない。気をつけないと」
呻き声が明瞭になっていく。
苦痛に耐えかねた、新鮮な絶叫が響き渡る。
興奮に包まれた遊戯の熱気の中で。体格に恵まれた鬼たちが熱狂して立ち上がるショーの最中で。床を這って移動する虫を見咎めるものはいなかった。
ガラス片を歯で咥え、石を握り、血と肉がこびりついた鉄の棒切れを拾っていく。
「自殺もしないし壊れにくくなる。飼育費は嵩むが、買い換えが減るぶん経済的……多頭飼い派の意見も理にかなってるな」
飼い主の足を掴み、両膝にしがみつくよう体重をかけて引き倒す。
見開かれた目に鉄の棒を刺し、ぐりんと回したら動かなくなった。
頭を割った。お腹を殴った。
手近に触れた、重くて硬いものを叩きつけた。火をつけた。噛みつき引きちぎった。
どうすれば痛いのか。呼吸ができなくなるか、動けなくなるか。みんな知ってる。生きものの壊し方は、彼ら自身が実演てくれた。
自分が両足で立っていると気づいたのは、鬼を皆殺しにしてからだった。
「テン、」
拘束をとき、ゆすり起こした彼に「逃げよう」と言った。
■
彼は、飼い主の貯め込んでいる金庫の中身を奪ってくるよう言った。
生活には金がいる。地下を出たとしてもそう。鬼化した私になら強盗ができる。彼の言葉は正しいから、役割分担に疑問を持つこともしなかった。
先に地上で待っているから、目印を辿って地下を出ろ。狭間通りからは出るなと――いつもみたく私に言いつけ、足を引きずる彼の背中を見送った。
「……ここが、狭間通り」
彼が血で描いてくれた目印を辿った先に、太陽が見えた。
表の街と、裏街の境界。狭間通り。
依然と鬼の掃き溜めには違いないけれど、太陽に照らされた景色はどこも眩しかった。
生臭くも新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んで、動くようになった足で駆け出しかけてから気づく。
「……テン?」
彼の姿だけが見当たらない。
待ってるって言ったのに。
意地悪して隠れてるのかと辺りを探しても居ない。
道行く鬼や人間を捕まえて聞いて回り、証言を集めていって。やっとテンのものらしき血痕を見つけた。
血痕はなぜか、狭間通りから離れるように続いていた。
人目を避け、入り組んだ方へ。より足元の悪い道を選んでいた。まるで私に見つかりたくないみたいに。
行き着いた先が、テンのやってきた『外』――人間の暮らす表の街に繋がっていたことまでは知らなかったけれど。
やっと見つけたテンは、似たような服を着た人間たちに囲まれていた。
「……むごいことしやがる」
「とりあえず身元が分からないことには、……ん? こども?」
「違います。鬼だ。……この男の連れでしょうか」
ぞろぞろと私の方を振り向き、人間たちの壁が割れる。
彼らが取り囲んでいたものが、私の目に映る。
力なく落ちた四肢と、血色の失せた肌。
彼はもう生きていないだろうと、わかった。
「……ひとごろし」
実際そうかなんて判断がつかない。けれど。
同じ人間でありながら、彼を助けてくれなかった。
なにひとつ不自由しないで、身体も大きく力があって、綺麗で立派な服を着て、私よりモノを知っている人間が――どうしてと詰った。
彼らは怒らなかった。哀れそうに私を見るだけで。
――一歩、私に歩み寄った一人を除いて。
「そうだ。俺たちは人殺しだ」
苦しげな赤い目は、彼とおなじ翳りを宿して私を映していた。
一瞬わからず首をかしげ、遅れて気づく。
彼が人間と指したものは、テンだけではなくて、
「……『そこ』が、表との境界だ」
長い刃物を抜き払った人間は、足元の地面すれすれに線を引いた。
境界からこちら側は裏街。
テンが倒れているのは、彼らと同じ向こう側。
「死にたくなきゃ引き返せ。裏街にいる限り、俺たちは手出しできねぇ。……だが『そこ』から先には人間のルールがある。生かして見過ごすことはしねえぞ」
ここを越えれば首を落とす。
静かに宣告した大きな人は、やはり真っ直ぐ私を見つめていた。
「……ふふ、」
頬が勝手に緩んでしまう。
彼も、私を『ひと』と呼んだ。
鬼化したこの身すら、テンと同じものだと言った。
「うそつき」
迷わず境界を踏み越える。
青く澄んだ、きれいな天の色。
望んだ景色を視界いっぱいに抱きしめる。
生まれてはじめて、満たされた気持ちでまぶたを閉じた。




