閑話:夏の温度
茹だる酸素と陽炎の熱。
鬱陶しくて歓迎されない夏の気ばかり凝らし固めた青の日和は、口が裂けても快適とは言い難く。
人を殺せる陽気の盛りをやり過ごせそうな喫茶店へ、路地を曲がった先。その店面に「そいつ」はいた。
古色に煤けた年季ある扉を、木目に沿って丁寧に磨いている。外気の暑さに気づいていないような、ゆるりとした所作だった。
白の飴細工が踊るのを、確かに見た。
「こんにちは。暑いですね、お兄さん」
華奢な砂糖菓子が、溶けることもなく口を開いている――とか。そういう、まあまあ馬鹿な想像まで過ぎった。馬鹿だとは思った。
生白く伸びる指先が器用に折れ、ぱたぱたと布巾を畳んでいく。
「……僕?」
「先程から、なにやら当店を気にされているようでしたから」
「別に。見ない顔だと思っただけ」
「そうですね、お客様には初めてお目にかかります」
瞳が柔らかく緩んだ。それすらひどく、甘そうで。
細い指を正面に揃え、腰から折り畳む最敬礼。指先までしゃんと神経が通った所作は、芝居がかった仰々しさも気にならないほど滑らかだ。
「雨屋と申します。ホールと雑務をお手伝いさせて頂く身でしたが、この度から製菓もお任せいただける運びとなりました。以後お見知り置きを」
珈琲以外は目立たない喫茶店。客が居ないのが良いところ。そんな現状に投入された製菓顧問がそいつだったらしい。
「喫茶店でご厄介になる前、ですか? はい。ヒモなどを少々」
自分の前科をスナック感覚で暴露していく阿呆だった。
最終学歴中学校、実家からは勘当済。隙間風が入り込み放題の安ボロアパートで、低賃金のアルバイトを掛け持ちしている。
身元不詳のフリーター崩れだ。それなりに警戒する気持ちはあった――実際していた、けれど。当の本人がこれだから、握る弱みが片っ端から潰される。
身辺がいくら薄汚れていようと、そいつにとって「弱点」ではなかった。そもそもの所、隠す理由を解っていない。興味が無い。
僕では、そいつの急所を探れなかった。
目の前に残ったのは、あけすけに平和ぼけた昼行灯がひとり。
警戒心は、徒労だった。
作業工程を監視して、何回か毒味をして、――そいつがどうしてもと言うから。仕方ないから食べてやった。
まあ、悪くはなかった。
結構な面が打つ手無しに詰んではいても、下を見ればもっと酷い奴がごろごろ居る。掃き溜めの上澄みみたいな底辺層。焦燥感と閉塞感に押し潰されてもおかしくない環境で能天気に生きているだけ「まともじゃない」のはよく分かった。
妙な話、呼吸をするのも楽しそうな顔だった。
社会的な立ち位置。未来の薄さ。地位や名誉、外付けのレッテル。たいていの人間が人生を勘定する幾つかの評価基準は、そいつからはすっぽりと抜け落ちていた。
「いま恵まれている人の縁と、今日明日のご飯が美味しいかどうか。私にとっての一大事は、それくらいです」
社会には詳しくないからと笑っていた。知らないことには煩わされようもない、と。
その身軽さは羨むものか、憐れむものかは分からないけど。
「さっきの、お客様のご友人。不器用だけれど優しそうで、熊さんみたいな人ですね」
朔の外見に惑わされず、きちんと「言葉」と「行動」を判じた理由がそこに在ったなら、きっと僕は肯定的に捉える。
「力加減が解ってないこと以外は良心的な常連客だ、覚えておくといい」
「承知しました。さいわい故障は軽微なようですし、今のうちに直してしまっても構いませんか?」
「ああ。……工具は倉庫の入口にある。手が足りなければ俺も行くから呼んでくれ」
客は僕以外にいなかった。朔の剣幕でいなくなったとも言う。
そいつが小走りで裏に引き上げて、でかい工具箱を抱えてきたところで、僕はタルトを食べ終えてしまった。
お代わりを作る奴が、他のことにかまけているから。
「ねえ。さっきの悪人面に言ってたみたいなやつ。僕は?」
ぐらつく木の扉を支える人手は貸してやる――代わりに。空白を埋めるための、他愛もない世間話を要求しただけだ。
長身を丸めてしゃがむ、薄い背中。工具箱の中身を漁る音が止まった。それだけは使わないだろうと断言できそうな、細い手首よりもごついスパナ片手に何か考え込んでいて、
そいつは。
「お客様は……他人の事情は根掘り葉掘りなさる割にご自身の情報開示はお嫌いなようで、私が解ることなど、いつもお口が二言も三言も余計だというくら痛たたたた」
「秘密主義で悪かったね。何処ぞの根無し草じゃあるまいし、へらへら触れ回れる個人情報なんざ一つも無いっての」
白い頬が、腹立つくらいによく伸びる。行けるところまで引っ張ってから離した。
ふにゃふにゃ痛がる割には、特段の障りもなく作業に取り掛かりはじめる。「お手伝い、ありがとうございます。このまま支えていて下さると助かります」――こういう対応をされるから、本気かどうか測りづらい。
「なんだか難しいお顔をなさって、忙しくしてらっしゃることは存じておりますから。先ほどの熊さんではありませんが、少しは休めと諭したくなるお気持ちも分かります」
「そのお気持ちが恫喝と取っ組み合いに出力される脳筋を『不器用』で括る君も大概だと思うけど」
ここのところ仕事場所として通い詰めていたのは確かだけれど。無駄話もせず給仕役に徹していた割には「見ていた」らしい。
「僕は、僕が出来ると判断した量を受け持ってるだけ。それが羆にとってのひと月ぶんだろうが一生分だろうが処理能力の差だろ」
「まあ……他所から押し付けられるとも、ご自身だけで抱え込むようなお人柄とも思いませんから。無謀な量を無理する方が効率が悪いことは解っていらっしゃるのでしょうし」
「当然。そんなに切羽詰まってるなら、それこそ熊の手だろうと駆り出すっての」「ふふ、お庭掃除みたいですね」「落葉よろしく書類で焚火されたらたまったもんじゃないけど」「良いですね、たき火。お芋とか焼きましょう」「多めに焼いとけよ。スイートポテトな」「かしこまりました」――硬質な槌の音と、ふかふかした触感の声。静かとは言えないけれど、不思議と煩わしくはない。
「私めに分かることなら、熊さんもお解りでしょう。その上で、有能なお客様への負担を心配しておられるんですよ」
「……解ってるっての。それくらい」
――これくらい出来なきゃ僕じゃない。
そう考えるハードルは、有能な僕の成長速度に従って高くなる。多分、そのスピードと現状、ひいてはいまの仕事量が、心配性のあいつの目には余るという話だ。
僕には能力がある。才能の不足を感じたことは無かったし、素質に驕って努力を怠る奴らとも違う。天才だと賞賛して遠巻きにする声がある。大いに結構。その通り。
どうもそれは、朔にとっては無駄なプライドに見えるらしい。
「他所からどう思われようが、これが僕のやり方ってだけ。勝てる喧嘩なのに自分の怠慢で負けるとか冗談じゃない」
他人の下に甘んじるくらいなら、死に物狂いで力をつけてのし上がればいい。自分の能力をもってして上下関係を解らせる。鞭打ち返して足蹴にして、実力で堂々と君臨するのが性に合ってる。
努力もせず腐るよりよほど健全だ。それの何が気に食わないのか。
「お客様は、ご自身に厳しい方なのですね」
「二十余年これで生きてきて後悔ないから。……なに、君も文句があるわけ?」
「いいえ。私は其方に明るくありませんから、分かったような口はきけませんよ。どうにも私は持ち合わせが有りませんで、プライドというものは」
「……はなっからヒモにプライドあるとか思ってないけど」
「元です、元。……まあ。靴を舐める事も、もっとすごいのも出来ちゃうと思いますから。なんとも言えませんのですけれど」
見栄やこだわり、有能さの裏付け。妥協をしないこと――きっとどれも、こいつの関心には掠りもしない。縁もないだろうけれど。
自分に無い持ち物を噛み砕いて、考えて、意見を述べるだけの想像力はある。他人に向き合えるだけの人間性と、確かな「中身」を持っている。
「ご自身に課す理想。ともすれば意地のような、貴方が貴方の為に譲らないもの。傍から見ると息苦しくてかなわなくても――馬鹿なプライドだろうとも。叶えたならば本物でしょう。
ご自身の在り方を高く定める自信と、弛まぬ努力を続けられる胆力は、きっと得難いものだから。その高潔な矜恃に、私は敬意を払います」
媚でも世辞でもない。
そいつから出た言葉が、すべてだった。
「人間である以上、疲れてしまうこともありましょう。その時はどうか、ご無理をなさる前に、ゆっくりお休みにいらしてください」
扉を何度か開いて閉じて、ほっとした顔で立ち上がる。店主に目配せし終えた辺りで、不思議そうに僕を振り向いた――つくづく暢気な顔だな。本当に。
「そこまで大口叩くんなら不定期出勤やめてくれない」
「こればかりは雇用形態のお話になりますから、私ではなく店長に」
全くもってその通りだ。その通りだけどそうじゃない。
口を挟むな、という意図の牽制の睨みに、察しの良さだけが取り柄の店主が目を逸らす。呆れ混じりの溜め息は、今回だけ見逃してやる。
「僕の名前、棗だから。そっちで呼んで」