理不尽と子供
色々というか、もろもろのごッたごったの火の粉が身に降り注ぎ、各方面になぜか謝り倒した経験が、ごくごく最近僕にもある。
チクリチクリと南野社長に小言を言われもした。
警察とか色々な方面での後始末が面倒だったみたいに言われたが、馬耳東風ではないにしろ、こっちだって懸命だったのだとしか言いようもない。
言いようがないが謝る。
悪くないなら謝らななければいいじゃん、悪い所があったんだろうと言われるかもしかれない。
それはそれで理不尽ではあるが、同じ理不尽な事である。
どっちにしろ理不尽なら自分自身にとっての理不尽を選ぶ権利ぐらいはあってといいだろう。
まぁ僕でさえ、世の中の理不尽さを肌に感じたが、それでも確かに南野社長の尽力というものを感じれば、お互い様、いや、南野社長のほうが理不尽とかを感じているのだろう。
理不尽とか謝罪とか自尊心とか他者との関係とかそういったものに挟まれながら生きているものだと。
そんな生き方に片足を突っ込んでいる年齢ともなれば、ゲームのお試し体験ばりに理解できる事もある。
実に、疲れてしまうこと間違いない生き方だ。
子供の様に生きていけたならば楽しかろう。
しかし、それは無理な話だ。
大人というのは少なからず、羞恥心というものがあるからだ。
大人が持っているべきものだ。
いや大抵の大人ならば持っている。
あの自堕落、反面教師として不動の地位を確立させている結城先生だって、日の当たらぬ心の片隅に双葉ほどの大きさで存在していることであろう。
理不尽とか羞恥心とかしがらみと、色んな柵が心や身体を封じ込めようとする現代において、ある業界は提唱した。
子供と犬猫の小動物があればどうにかなる。
テレビや雑誌において、それだけで周期的に持てはやされているのだからその提唱された言葉は浸透しているのだろう。
事実トレーディングカードゲームいや、昨今の漫画アニメとかそういう物には、ショタとかロリとかの言葉に獣を合わせるのは定番でもある。
一定層のファンのために南野社長が求めた今回のスカウト対象はその方向性で行くことになったのだが。
「スカウト対象が子供ならキュアトロールは悪手だと思うよなぁ」
「前科ものの井上に言われたくないな」
「そんな前科はない!」
「お前が声かけてダッシュで逃げたぞ」
「だからキュアトロールが怖かったんだろ」
理不尽に殴られた。
「とりあえず相手は子供なんだから、穏便にいこう」
「私が暴力的な言い方するな」