魔法少女と純真さ
小さく幼い子供というのは、大人とはまた違う生き物だと思った事はないだろうか。
僕も未成年という部分においては、子供なのだけれど、それでも、それでいてもやはり違う生き物だと思う。
大人になったとして、学生気分迄には戻れても小さく幼い子供の気分には戻る事など出来はしないだろう。
戻るには、知りすぎたとでも言えばいいのだろうか?
女心がわからないようなものだろうか?
それとも浪漫をわからない現実的なものなのだろうか?
言い表すのに一番近いのは、多分夢だろうか。
よくある夢だ。
小さい頃に成りたいものがあったというアレだ。
いや、そう言うと些か誤解というかなんというか、多少本来の意味と食い違いがあるかもしれない。
好きなものと憧れを、成りたいものとごっちゃごっちゃにしていたとでも言ったほうが正しいのかもしれない。
男の子がヒーローに成りたいように。
女の子が魔法少女やお姫様に成りたいように。
そういう好きと憧れを一緒くたにしたようなものだ。
純真な小さい頃の話だ。
そんなものを大人や思春期の学生が持てるはずもない
好きだから成りたい。
憧れるから成りたい。
格好いい。
可愛い。
キレイ。
幼い子供には、理念や思想といったややこしいものがない。
不安とかなく、ただただ薄く綺麗な表面だけをみれる。
それに、まぁ小さい子供に、幼い子供に理念や思想を持てというものは酷だろうし、あったとしてそれは、か細いものだろう。
前提として子供達は可愛いやキレイ、格好いいといった正の部分を見ているのだ。
いや、正の部分を大人に見せられて生きているからこそ純真なのかもしれない。
もし、仮に今の様なキラキラとしたまばゆい魔法少女などではなく、魔法少女キュアトロールが、朝や夕方に全国的放送されたのであれば、子供達は成りたいものに、魔法少女などと書くことはなくなり子供らしさなんて消えてしまうだろう。
よしんば書いたとして罰ゲームか、はたまた酔狂な子か、それともひねくれた子としか思われないのではないだろうか。
そうなればこの程度で成りたいものをかえる子供達が悪いのか、はたまたやはり魔法少女キュアトロールが悪いのか。
十中八九キュアトロールが悪いのだと思うけれど。
「おい、井上何ボケっとしているんだぶん殴るぞ」
「いや、お前が魔法少女なら子供は夢も希望もないだろうなって」
「私の魔法少女の純真さが、純真さの欠けた現代っ子には眩しすぎるという話か?」
純真さってなんだろうか。
もし魔法少女キュアトロールが全国的に放送されて、魔法少女に成りたいと書くことが激減した場合、やはり十中八九魔法少女キュアトロールが悪いが、残りは多分こんな魔法少女を全国的に放送しようとした悪い大人がいるのだろう。
「そうだな、眩しすぎてお菓子の家に閉じこもっちゃっているもんなあの子達」
大きなお菓子の家に今回の探し人が閉じこもっていた。
「それは私のせいじゃなくね?」