立ち向かう事が幸せですか?
逃げた先に幸せなんてないと誰かは言った。
立ち向かっていくことが幸せにつながると。
さて、さて、さて
そこで反抗期、思春期が今よりも真っ只中で多分虫の居所が悪かったとか、ふつふつと悪い意地の虫がわいたんだろうと今にしてはそう思う。
何しろひどい思い込みというか、世間にたいする遠慮や思いやりというものに欠けていた。
今の僕の爪垢でも飲ませるか、時間がたって少しばかり大人にでもなればいいと思うぐらいだ。
立ち向かっていくことが幸せという教訓というか、いわゆる世間の綺麗事にたいして肩をすくめながらいきがっていた。
逃げなかったから掴めた幸福と逃げたら逃げたなりの幸福を比べることに意味があるのかと、誰かの不幸と自分の不幸を比べてはいけないというのならば、自分の不幸と自分が得られたかもしれない最大限最大級の幸福を比べたところで空しく、また意味がないということじゃないか。
そして痛みから辛さから逃げたから幸せになれる事なんてマゾ以外でなにがあるのかと思っていた。
意味のなさでは同じようなものだけれども、当時の僕はこの答えがどこか正しいと、世間の綺麗事より上な気分でいた。
全く何も見たことがないくせに、知ったような、物わかりのいい選挙前の政治家のようにいいご身分ですねと一言でも二言でも説教してやりたい。
いやいや、それよりもあの悲惨な事故現場からとっとと僕らは走りさり、逃げたはずなのに追い付いてきては、路地裏で悲劇ともいえる光景を繰り広げ、痣とか瘤とかできてなお、幸せの女神像といいはり幸せを押し売りしたい少女を見れば、考えは変わるだろう。
痛みから辛さから逃げないことを立派だと称えることは決して間違いなどではない。
そうまでして彼女が立ち向かうことでなにか彼女に幸せはあれのかと声をかけるきも、逃げても幸せになれるよなんてもう僕は彼女に言い出せないだろう。
そして彼女は幸せを口にする。
あなたも幸せになりませんかと
昔の僕があっていたところをあげるとするならば、マゾと称した特異な幸せという事だろうか。
全くもってその幸せを供給する気はないのだけど。