エピローグ 22
とある深夜、ハルは一睡もできず、布団からムクっと起き上がった。間接照明が濃い影を落とす室内、ハルの右隣には治子が、左隣には小影がスヤスヤと静かな寝息を立てて眠っていた。
夜中にこの部屋を出て行こうと決めてから、3日が経った。前日と前々日に決行できなかったのは、治子の寝顔を見て、後ろ髪を引かれたからだ。
治子の衝撃のパートナー発言から1週間。彼女には出て行くことを伝えていない。話し合えば、答えがまとまらないまま、なし崩し的にいつまでも一緒にいてしまうような気がした。
3度目の正直……今夜が本当に最期だ。
カーテンの裾を少しめくって、外の様子を見てみた。
数本先の国道の辺りは夜更けでも明るかったが、その手前の家屋はいずれの部屋も電灯を消して、町全体が寝静まっているようだった。
いつもは治子と一緒に外出しているものの、いま、外に出てしまうのには特別な意味があったから、なかなか一歩を踏み出せない。これまで ≪外≫ と呼んでいた場所が、これからは自分の居場所になるのだ。
カラカラと窓をちょっとだけ開けてみた。
まだそんなに冷たくもない夜風がふわりと入ってきた。遠くからはゴーゴーと車の走行音が聴こえてくる。S町の夜更けのことを思う。S町はド田舎だったが、隣の工場地帯のせいで、深夜でもなにかしらの音が響いていた。ゴーっという風のような音だったり、カーンという金属を打ち付けるような音だったり。それらがなんの音だったのかまでは分からなかったが、それらの音が聴こえるということが、町が眠っている証拠のように当時は感じていた。
「は~るこ。」
声を押し殺して、小さく呼び掛けた。
「ごめんね。」
ハル自身、自分が出て行くことが正しいのか間違っているのか、分かっていなかった。ただ、この別れは治子への愛情に端を発しているからこそ、正しいのだと信じたかった。冷静な第三者なら、いまのような状況で、どう動けと言うだろうか? と、考えないでもなかった。だけど、第三者が治子のどんな幸せを望むのか……そう思うと、やはり自分自身の中、いや、未来にしか答えはないのだと思った。
ごめんね。
やっぱり私は、自分のことばっかりなのかもしれない。
本当は分かっているんだ。
なにも心配しなくても、治子がだんだん変わっていってしまうことなんて。
まだ治子が目覚めて1年も経っていないんだ。14歳から15歳の変化は些細なものだったり、治子自身もまだ自分でその変化に気付いていなかったりするだけなのかもしれないけれど。
本当は治子が変わっていって、いざ私の存在が邪魔になったときに、どっか行けって直に言われるのが怖かっただけなのかもしれない。
私は最後まで卑怯な奴だったよ。
この2日間の私の演技はどうだった?
まさか出て行くとは、思わなかったでしょう?
この2日間は、精一杯、いつもと同じに振舞おうとがんばったんだ。
3日目はないけどね。
今晩こそ、この部屋を出てゆくんだ。
きっと、私のことをすっかり忘れてしまった日にも、ラジオを付けた車中とか喫茶店とか、そんな思いがけない場所で、私が散々聴かせてあげた曲が流れれば、ああ、ハルが好きだと言ってお勧めしてたなぁって、この数ヶ月間の共同生活を思い出すよ。
思い出による美化を以ってしても好きになれない曲が多々ある中で、私との思い出の曲はきっと、いつか治子のお気に入りになるから。
さよならは言わないよ。
私たちの束の間の別れには、もっと相応しい言葉があるからさ。
「じゃ、またね。」
さっき開けた窓をカラカラと閉めると、部屋の中にもうハルの姿はなかった。
ふわりと入ってきた夜風が、冷蔵庫に磁石で貼り付けられた便箋を微かに揺らした。
そこには、
≪ごめんね、S町で待ってる≫
とだけ、書かれていた。
おしまい
今回で完結です。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
当初はバッドエンドにしようと考えていたのですが、バッドで終わらせられるほど私の精神がタフではなかったので、ハッピーエンドにしようかと方針を変えたところ、それもしっくりこなかったので、迷いましたが、結局、中途半端な形で終わらせることにしました。
それこそ当初は夏の間に終わらせるつもりだったんですが、気がつけば、というか気づいていましたけど、もう冬になりますね。
なぜこうなったのか?
すいません、ありがとうございました。