エピローグ 21
束の間の沈黙が訪れ、ピリピリした雰囲気が部屋に漂う。テレビからはアニメのエンディングテーマが流れていて、小影は2人の会話を聞いていない振りでもするかのように、テレビ画面の方をじっと凝視していた。
そのとき、
「は! はッはッはッ。」
と、ハルが盛大に笑ってみせた。
「治子もなかなか言うようになったじゃない。面白い冗談だったよ、ダーリン。それともハニー? いや、マジで。いまのは良かった。」
ハルは冗談だと解釈して笑い飛ばそうとした。なにしろ、生涯のパートナーが幽霊だという言葉を真に受けてたら、どんだけ素直なんだと、逆に笑われかねないからだ。
冗談だよね? 治子……。
ハルは祈った。
冗談でなければ、いまの大笑いが彼女にとって、とても失礼な行為になってしまうと、ハルはいまさら後悔していた。
「ごめん、本気なんだ。」
治子は目に涙をキラキラと浮かべて、情けない顔をしていた。まるで捨てられる間際の仔犬のように。
「ごめん。」
先程笑ったことを詫びる意味で、ハルは謝った。
「なんなの? ハルは私のことを見捨てようっていうの?」
治子が薄ら笑いを浮かべながらハルに詰め寄った。
「いや、別にそんなつもりじゃ……。」
ハルは治子の懇願するような言い方に弱らされた。
ハルにとっては、自分が治子を見捨てるのではなく、むしろ治子のために自分が治子との愉快な生活を放棄しようという提案だったからだ。
それを逆に受け取られては、始末が悪い。
「私には、ハルだけなんだよぉ?」
泣きっ面で微笑む治子。
挟んだテーブルの分、開いた距離が、とても近いようで、遠かった。
もしハルが治子を大切に思うふつうの男だったら、向かい合わずに並んで座り、彼女の肩を抱き、涙を拭ってやったことだろう。ハルの胸の内は、治子を抱き締めたい衝動でキュ〜ッとなっていた。
「私にとっても、治子は唯一無二の存在だよ。」
それでも、ハルは自身の衝動をどうにか抑えて、慎重に言葉を選びながら答えた。
治子を傷付けることなく、真実を話すというのは、実際、難しかった。
恐怖と罪悪感にハルは怖気付いてしまっていた。冷静を装っているが、その一方で、もうすっかり衝動に身を任せてしまって、治子に甘い言葉を囁くなり抱きすくめるでもして、この厭な空気を払拭してしまいたかった。
治子の言うとおりに生きる方がハルには楽なのだ。
自ら考えることを放棄して、命じられたまま動く木偶人形にでもなってしまった方が。
だが、それでは治子が本当の意味で幸せになれない、とハルは思っていた。
「お願い、お願いだよ。ハル。」
治子の手がハルの手に伸びる。
ハルは自分の手の動かし方一つで、治子がなにかを余計に感じ取ってしまいやしないかと気が気でなかった。
治子の手に対し、私の手はなんて応えたらいい?
ハルは自らの手を治子の為すがままに任せた。その手はいま、治子にしっかりと握られていた。
「治子……。」
ハルは治子の名を呼ぶことしかできなかった。
治子はハルの手を両手でしっかりと握って、唇を噛んでいた。
瞬間、グッと特に力が込められたかと思うと、パッと治子が手を離して、スッと立ち上がった。そして、2、3歩、廊下の方まで歩を進めると、
「ハル!」
と、部屋の方を振り返り、ハルをやや大きめな声で呼んだ。そのときの治子の表情は、微かに笑っていた。
「頼むよ。」
それだけ言うと、彼女は玄関を開けて、外へ出て行った。
テレビ番組を確認するかぎり、変な雰囲気になってからまだ数分しか経っていなかった。2~3時間は膠着状態が続くかと怯えていただけに、ハルはさっきの雰囲気の余韻に戦慄しながら、ふうっと息を吐いた。