エピローグ ⑳
食器棚に子供用の小さな茶碗やカップが増えた。
お皿は以前から大小揃えていたが、デザインや柄がふつうだったから、子供らしく可愛らしいものを選んで買った。
これらが1つの食器棚に納まっているのを見れば、誰だって1つの家族が住んでいるのだと思うだろう。
まさか独身女性の1人住まいだとは思うまい。
食器棚をまじまじと見ながら、ハルは小影が加わった新たな生活へのワクワク感を覚えるとともに、これは由々しき事態だ、と焦った。
もう完全に世帯持ちじゃん!?
部屋の方へ目を向けると、治子と小影が一緒にお絵描きをして遊んでいた。
16歳で産んだ子?
それとも16歳差の姉妹?
どう捉えても不自然な組み合わせだったが、いずれにせよそれは微笑ましい光景だった。
ふふっと微笑んでから、また食器棚を見る。
おお、子持ちだったんですね?
それじゃあ、失礼します……ってなるじゃん!?
ハルはこの部屋に男性が来たときのことを想像して、顔をしかめて、溜め息を吐いた。
新しい仕事については、治子が我儘だったこともあって、なかなかまとまらなかった。
探偵業は人と対面するのが厭だというし、ハルと一緒に大道芸の真似事でもしようと言えば、あまり目立ちたくないから厭だというし、超常現象の一つでも披露して新興宗教の教祖にでもなるかと言えば、なにも説く教えがないから厭だというし、じゃあふつうに勉強してふつうに資格でも取ってふつうに働くかと言えば、それも気が進まないと、治子はハルが提案するアイデアを悉く拒絶した。
それでは治子自身になにかしたいことがあるのかと問えば、特にないという。
ハルの忠告に従い、以前の仕事をやめた治子だったが、なんだかんだで以前の仕事に未練があった。正当化のために考えた言い訳は、いつのまにか単なる言い訳ではなく、彼女の頭の中では社会的正義の意味を伴って、しっかりと刻まれてしまっていたのだ。かといって、ハルの強い希望もあったから、以前の仕事を再開する気もなかった。
しばらくは困らない蓄えはあったし、ハルがいればいざというときはなんだってできるさ、と漠然と考えていたので、失業中の焦りもない。
「小影~、お膳の支度して。」
台所からハルが声を掛けると、
「は~い。」
と小影が走り寄る。
サラダをよそった大皿を渡し、それからハル自身は台所でカチャカチャと人数分の食器やお箸をお盆に載せて、戻ってきた小影に今度はお盆を渡す。毎晩、そんな感じで治子たちの夕飯は準備されていった。今晩のメインはカレーライス。料理するのはいつもハルで、治子は後片付け当番だった。
夕食時にハルが言う。
「ねえ、いまは仕事もしてないんだからさ、私、仕事が見つかるまではご飯抜きでもいいよ?」
ハルと小影は幽霊だから、本来はご飯を食べる必要がないのだ。
「いいよ、気にしなくて。ご飯はみんなで一緒に食べた方が食べたって気がするし。」
「そうだね。分かった。ありがとう。」
「お礼なんていいよ。」
「うん。」
そして、食後。食器洗いを終えた治子が部屋に戻ってくると、ハルが世間話といったふうに切り出した。
「治子も料理してみる?」
「え?」
ハルの提案にキョトンとした顔を見せる治子。
「え? なんでそんなにビックリしてんのか分かんないんだけど。そんなに予想外の質問だった?」
治子のキョトンとした様子にハルもビックリさせられた。
「いや、なんていうか、私はいいよ。ハルがいるしね。」
「いや、意味が分からないんだけど。」
「だって、ハルと私ってずっと一緒じゃん?」
「え?」
「は?」
「え? なにを言ってるのかな? 治子さん。」
「は? そっちこそ、なに言ってんの?」
2人の前提としている条件がそれぞれ異なるので、お互いに相手がなにを言っているのかが分からない。
「私、ずっと一緒ではないよね?」
ハルが念のために確認してみる。
「嘘? なんで?」
ハルの言葉が意外過ぎて、治子が聞き返した。
「ええ? その質問にビックリするわ! だって、ずっと一緒にいたら治子、なにもできなくなっちゃうでしょ? 仕事を私が手伝うにしたって、住むとこは別々にするとか、将来的にはそんな感じになるよね? ……って、思ってたんだけど。」
「ダメ!」
「いやいや、ダメじゃないよ。」
「小影だってハルが一緒の方が楽しいでしょ? ね? 小影。」
ハルがなぜそう言うのかがよく分からないものの、俄かには承服しかねる内容なので、治子は小影に援護を求めたが、
「え? なに?」
と、幼い小影ときたら、テレビアニメに夢中で2人の退屈な会話など聞いていやしなかった。
「あらあら、聞いてなかったの? あのね、小影もずっとハルと一緒の方がいいでしょ?」
「え? ハルさん出て行くの?」
治子の質問に対し、小影はハルがすぐにでもこの部屋を出て行くのかと不安になった。
「いつかね。でも、そのときは小影も一緒だよ。」
小影の質問に答えたのはハルだった。
「え?」
と、治子はハルの言葉に再び驚かされた恰好。
「そりゃそうだよ。私だけ出てったって、小影が残ったんじゃ意味ないもん。」
「え、え、ちょっと待ってくださいよ。ハルさん。私には、ハルがなんの話をしてるのか分からないんだけど。なんで、みんな私を置いて出てくことになってるわけ?」
当然のように出て行くと連呼するハルに向かって説明を求める治子の頭からは、もう最初の料理の話題など吹き飛んでしまっていた。
そして、ハルが自分を見捨てようと決心しているという予想外の事実に直面して、ほとんど泣きそうになっていた。
なんでハルは朗らかに、まるでなんでもないことのように、私を置いて出て行くって宣言しているわけ???
「だって、私たちがいたんじゃ碌に恋もできないでしょ?」
「恋? 恋って……。」
またまたハルから飛び出した意外な単語に、治子は一瞬考えさせられたが、まもなくハルの言わんとする意味が分かった。
「なに照れてんのよ。」
治子がハルの言葉の意味を理解しかねて戸惑っている様子が、ハルにははる子が恥ずかしがっているように見えた。
「照れてんじゃないけど、恋がなんだっつうんだよ。」
誤解を解く意味もあって、やや険しい態度で聞き返す治子。
「早く恋して。」
治子の心情の機微など知ったことかと、即答するハル。
「は? そんなん、相手がいることだから、早くもなにもないでしょ?」
お前は私の親か? と治子は思った。
「せっかくバスケサークルにいるんだし、美容院の店員さんとも仲良いし、周りにいくらでも相手はいるじゃん。」
「男はいるけど、別に恋しようって相手はいないし。」
「マジで言ってんの?」
「おう、マジよ。大マジよ。」
「はッ、最近の子供の方が治子より大人だわ。」
ハルは呆れたような口調で、そう吐き捨てた。
その態度に治子はムッとした。
人の気も知らないで!
だから彼女はハルに自分の考えを伝えることにした。
「っていうか、ハルなんだけどね。」
「え? なにがよ。」
ハルが聞き返すと、
「私の生涯のパートナーはあんたよ。小島ハル。」
と、治子の鋭い視線がハルに突き刺さる。
一瞬、彼女は自分の耳を疑った。