エピローグ ⑫
美佳の暮らすマンションの前で彼女を下ろし、
「じゃあね。また来週、お昼前に迎えに来るよ。」
と治子が運転席から告げると、
「ありがとうございます。来週もよろしくお願いします。」
と美佳が頭を下げる。
「じゃあ、ハルもバイバイって。」
「ハルさんも、また来週、よろしくお願いします。」
美佳が後部座席の方に向かって手を振る。
そして、治子の新車が静かに発進した。
アクセルを少し踏めば、本当に音もなくスピードに乗るのだ。モーター駆動ではないから、まったくの無音というわけにはいかなかったが、それでも以前、父が乗っていたシルバーの軽や、保育所で使っていたバンと比べると段違いで、それが治子には新鮮でありながら、やはり10年という歳月のギャップを感じられて、悲しくもなった。実際には、父や保育所の車よりも良い車に乗っている、というだけなのだが、それが治子には分からなかった。
マンションから治子のアパートまで車なら約15分の距離。
信号待ちの交差点。車内にはハルが治子に推薦した楽曲が流れていて、カチ、カチというウインカーの音が退屈そうにリズムを刻んでいる。ハルと治子の音楽の好みは異なっていた。治子の好きな曲は、以前のハルが夢中になっていた曲だったが、いまのハルには、当時、なぜ自分がその曲が好きだったのかを理解できなくなっていた。
「これって大昔の曲だよね?」
治子が尋ねると、
「大昔ではないよ。3、40年前とかかな?」
とハル。
いま流れている曲のいくつかは治子も知っているものだった。古い曲で、誰もが知っている曲……というのが、治子のお気には召さなかった。
「ハルって意外とミーハーなんだね。」
と治子は言った。その言葉にハルはかつての自分を思い出し、懐かしさを覚えた。ミーハーって、そういう意味で使う言葉じゃないと思うけど、とハルは思った。それに、まだまだ治子も子供だ、と。
「いろんな曲を聴いてるとね、結局、みんな、ここらに行き着くんだよ。」
走り始めた車の窓、流れる街並みをハルは見ながら、ハルはちょっと大人の雰囲気に浸っていた。
「確かに、ウチにあるCDってジャンルがひっちゃかめっちゃかだもんね。」
「またいろいろ聴かせてあげるよ。」
「おお、任せるわ。」
それからスーパーに立ち寄って帰宅した2人。
2人の生活は概ね、特殊な仕事をしていることを除けば、特筆するべきことのないふつうのものだったが、ハルの存在が治子の生活のアレコレを制限していることを、ハルは痛感していた。
いつ治子と別れるか、別れるとしたら、私の方からだろうな……とハルは常々考えていた。
金銭面では当分稼ぐ必要がないほど蓄えがあるものの、彼女がいまの仕事以外で、まともに稼ぐことができるのかが心配だった。精神面で治子はまだ弱い。いまの私の役割を、誰か良い人がやってくれれば一番いいのだけれど、当人にその気がないようだし……。治子のことを思えば思うほど、自分がどうすればいいのかが分からなくなる。治子の言うことを聞くことと、治子のためになることをすることの間には大きな隔たりがあり、それがハルを悩ませた。治子の望むあらゆる罰を受けると心に誓っていながら、治子に反発したりするのは、矛盾していやしないだろうか……。そんなふうに悩みながらも、ハルは適当な場面で治子を叱ったり、言い合いをしたりしてきた。
治子はそんなハルの気持ちを知らない。治子にとってハルはいつまでも傍にいてくれるものと信じて疑わなかった。過去にいろいろあったし、遠い未来の約束もあるんだし、自分たちの絆は決して壊れることはない。過去はどうあれ、いまはハルのことが好きだったし、尊敬もしていた。ハルの築いた人間関係に助けられていると思っているし、自分自身ではまだ美佳やtamaに類する関係を誰とも結べていないこともよく知っていた。
それになにより、ハルは家族よりもかつての友達よりも誰よりも、治子の良き理解者だった。
「ねえ、これからHの公園に行こっか?」
もう夜も遅いというのに、治子がハルに提案した。
「ええ? アレでしょ? ボードのないバスケットゴール持って行くんでしょ?」
治子は誰の目にも付かない場所でハルがバスケできるようにと、鉄の輪っかと網だけのバスケットゴールを自作していた。それを木やなんかに引っ掛けて固定すると、どんな場所であれ片面だけのバスケットコートが出来上がった。シュートの難易度が上がるのが難だったが、それでも2人は何度か自前のゴールを利用してバスケをしていた。
「そうよ。」
「あんなん、シュート入んないじゃん?」
「いいじゃん、条件は同じなんだから。シュポって入れればいいんだよ。シュポって。」
「分かったよ。」
渋々といったふうに了承するハルだったが、実は嬉しいのだ。
案外、それを治子は分かっているのかもしれないな、と最近思い始めたハルだった。