エピローグ ⑥
恐怖に硬直した太一と洋室に逃げ込んだ彩香を見て、ハルは次の一手をどう打とうかと考えた。
ここに来たときから、ハルには2人を心底から震え上がらせようという気はなかったのだ。というのも、この2人を仕事の標的として選んだのはほとんど治子の一存によるものであり、ハルはその選別に関わっていない。
だからハルは、この2人にも少なからず同情していたのだ。
だが、2人の夢の中に侵入して、呼び鈴を押して部屋へ入るという演出を為したのち、部屋に入ってみて目に飛び込んできたモノを前にして、彼女はいろいろと考えさせられることになった。琢磨をやっつけていた幽霊の姿と啜り泣く声音、その傍らに平然と立っている女、奥の部屋の方へ視線を移せば、そこには三脚に据えられたカメラと男の姿があった……それらが俄かに怒りを覚えさせた。
その怒りを発散させることなくグッと堪えて、彼女はまず、幽霊を消し去ることから手を付けた。それこそがハルの本来の目的であり、そのために治子に怪談話を聞かせたのだから。
ハルは幽霊と少しでも話ができればと思っていたがそれも叶わず、とはいえ、幽霊がとても苦しそうだったので、とにかく幽霊を消すことに。幽霊がいなくなると、少し気持ちが穏やかになった気がした。
よしよし、このおおらかな感じをキープだ。今夜の私は紳士的なんだ。スマートに怖がらせてやる。
という思いと、
完全に消え去りはしていない怒りのシーソーゲーム。
2人を超ビビらせてやりたいけど、あんまりやりすぎると可哀想だし……。
だから彼女はスマートで洒落た設定や文句を考えながら、ガチではなくほどほどの怖がらせ方に留めようと頭を捻って言葉を紡いでいった。
男への自己紹介も用件の伝達も粗方終えたところで、2人も相当怖がっているようなので、あとは霊気の力で以って怖い雰囲気作りにでも精を出そうかと思ったところ、洋室から女の声が響いてきた。
「ない! 落書きがなくなってる!?」
ダン、ダン、ダン……と、2、3歩、慌ただしく床を蹴る音。
「幽霊はいるし!」
洋室の出入り口の前に立つ女がハルを見て叫んだ。
さっき天上からの使いだと説明したのに、幽霊と見抜くとはなかなかやるね、とハルは思ったが、そういえば最初に幽霊だと言ったっけかな? と思わないでもなかった。
「もう目が覚めたんじゃないの!? ここは現実!? まだ夢の中なの!?」
女は少々錯乱気味なようだった。
大方、部屋の落書きが消えたことで夢から目覚めたのだと期待したのだろう。いやいや、噂にもあった落書きが消えたのは、琢磨をやっつけていた幽霊が消えたからだよ、とハルは思った。
「幽霊にもいろいろいるみたいでね。さっきの人みたいに、夢の中に出たり、特定の人にだけ現実でも姿を見せたりすることができる幽霊もいれば、インターネットを遣ったり、遠くから人を操ったりすることができるのもいるんだよ。」
錯乱気味の女に向けてハルが言うと、
「あ、あなたはなにができるってのよ。」
と、意外にもまともな返事。それが面白くなくて、少し優しくし過ぎてんのかな? とハルは少し唇を尖らせた。少しは汐らしく慌てふためいてりゃまだ可愛げがあるのに、こいつらときたら!
「私はね、人の中に入るのが得意なの。現実の世界で誰かの中に入ったり、いまみたいに夢の中にお邪魔したり、とかね。」
多少頭に来たとはいえ、今夜のハルは、それでも涼しい笑みを絶やさない。そして、ちょっと濃い目に霊気を放った。
まもなく2人は幻聴、幻覚に襲われるだろうとハルは計算していた。その幻は2人の恐怖に依存しているから、ハルには2人がなにを見て、聴いているのかまでは分からない。が、霊気だけ出してあとは成り行きに任せた方が、自分の手で直接相手に恐怖を与えるよりは幾分か気が楽だった。
ハルは2人にあまり興味がないのだ。
ただ、治子と2人でやっている仕事を成功させることだけが重要だった。
「今夜は都合良く2人の夢にお邪魔できたけど、明日はどっちの夢にお邪魔しようかしら。」
そのハルの言葉は、すでに男と女には届いていなかった。