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エピローグ ④

「目を凝らしてよく見ておけよ。」


 呼び鈴に応じて玄関ドアを開けることにした太一は部屋に残る彩香にそう言った。噂どおりなら、ドアを開けたのちに部屋へと踵を返すと、そこに幽霊が立っているはずなのだ。


 リビングダイニングを通り抜け、彼はドアノブに手を掛けた。彼女は洋室の出入り口から顔を覗かせて、リビングダイニングを背にした彼を見守った。


 ガチャっと音が鳴り、ゆっくりとドアを開けていくと、生温い空気が部屋の方へ入ってくる。


 彼は念のために外を確認してみたが、誰の姿もなく、シンとした通路があるだけ。周辺の景色は、いまが夜であることを除けば、日中に見渡したものと変わらなかった。


「きゃあああ!!」


 突如、背後から悲鳴が響き、部屋内の方へ視線を向けると、リビングダイニングに見知らぬ女が立っていたのだが、一目でその女が異常であることを彼は察した。


 衣服のおなかの辺りと首回りに痛々しい血の痕があった。さらによく見れば、女の身体は血が通っていないかの如く白く、また青白い血管が肌の表面をミミズのように這っていて、黒目もギョロギョロと絶え間なく活動していて視線も覚束ない。


 束の間、彼はその女の姿に見入ってしまっていたが、気が付くと一目散に地上へと続く階段を駆け下りていた。部屋内に居残っている彩香のことなど完全に頭から消えていた。


 ガンッガンッガンッガンッ……


 鉄製の古びた階段を駆け下りる足音が静かな夜に木霊した。


 その間、わずか2、3秒。


 ようやく地に足が着いたかと思われたそのとき、彼の眼前に広がったのはついさっき、彩香の悲鳴に反応して部屋の方を向いたときと変わらない部屋の光景だった。そして、見知らぬ女はゆるりと彼に向かって歩き出した。恐怖のあまり、彼はその後も数度、逃亡を試みたが何度試しても部屋に戻ってしまう。徐々に詰まってゆく女との距離。彼が観念して女の前に立ち尽くすと、女が彼の顔をその不気味な眼差しで覗き込み、


「あなたじゃない。」


 と呟くのが聴こえた。そうして女は膝を崩し、その場に項垂れて、嗚咽を漏らして泣き始めた。


 彼は肩を上下させながら咽び泣く女の姿を怖々と見ながら、女を避けるように移動して洋室に戻った。彩香は彼が洋室に戻ったあとも、洋室の出入り口から顔を離さず、ジッと女の様子を見詰めていた。


「あの幽霊、確かにあなたじゃないって言って、泣き始めたよ。噂どおりだ。」


 太一はようやく人心地着いたというように安堵の息を漏らした。


「気が狂いそう……。」


 彩香の目には打ちひしがれたように倒れ込んだ気色悪い女の姿が焼き付き、耳には女の啜り泣く声が途切れることなく響いていた。


「気にすんなよ。あの女はなにもしやしないんだから。」


「ここって、ホントに幽霊屋敷だね。もちろん、良い意味で。……住人は幽霊にやられる心配をすることもなく、こうして幽霊を間近に見ることができちゃうんだから。」


「ここがイギリスだったら流行ってたかもな。」


「つってもボロアパートだからね。どうだろね。」


 安全が確保されたつもりの太一は先程までの恐怖を忘れ、いまは幽霊の姿を記録するためにカメラの準備をしている最中だった。


「撮るんだ?」


 それに気付いた彩香が彼に非難めいた口調で尋ねる。


「そりゃ、撮るさ。」


 三脚を立てて、そこにカメラを捻じ込む彼。


 彩香はその動作を見ながら、少し厭な気分になっていた。泣いている女を撮影するという行為が気に障るのかもしれない……それがたとえ幽霊だとしても。だけど、悲しんでいる人を被写体にするってだけなら、戦場の写真にも似たようなシーンは多々あるし、それは決して人の不幸をどうってことじゃなくって……だから、あの人を撮影するのも、幽霊を記録することに意味があるわけで、他意がないのであれば、特に罪深い行ない、というわけでもないか……と、彼女は考えてみた。


 あの女の人はなにをそんなに悲しんでるんだろ?


 落書きにある佐藤琢磨って誰?


 女と琢磨という男との仲を様々に想像すると、馬鹿々々しい話ではあるが、彩香は切なくなるのを感じた。


 はあ、と意図せず溜め息が漏れた。


「なんだ? 溜め息なんか吐いて。」


「いや? ただ、幽霊なんて見るもんじゃないって思ってさ。」


「なんかあった?」


「だって、あの人泣いてるけどさ、結局のところ、もういないんだよね。」


「幽霊だからな。そりゃ、もう死んでるだろ?」


「うん、死んでんだよ。」


 そう言って、彩香はまた大きく溜め息を吐いた。


「でも、前はあの女も生きてたんだぜ?」


「そら、そうだよ。」


「当たり前の話だけどさ、オレはあの幽霊が生前はふつうの人間してたってのが信じられないよ。例えばさ、親が病気になって、延命治療を受けて、頭髪は枯れ野原、頬の肉は削げ落ちて、身体中管だらけってな、目も当てられない姿に変わり果ててしまってもさ、いまのあの女の姿よりはマシだと思う。」


「難しいことを言うね。親は親だし、あの女は所詮、他人だし。でも、ま、あの女の人の見た目も凄いけどね。」


 見ている者との関係性を度外視すれば、悲しさを見る人に催させるという点において、あの女に勝るほど醜悪で哀れな姿形をした生物もそうはいないだろう、と彩香は思った。


「さあ、映ってくれよ。」


 太一がファインダーを覗くと、そこには女の姿があった。だが、念のために撮影画面の液晶を確認すると、そこに女の姿はない。


「チッ、映んねーのかよ!」


「夢だからかな?」


 太一はレリーズを取り出し、カメラに取り付けて今度は写真撮影を試みたが、画像データにも女の姿はない。


「クソ! ダメか。」


 彩香は太一の苛立つ様子を見て、


「カメラがダメなら、絵を描けばいいじゃん。」


 と提案した。写真や映像なんてものに固執する必要はないんだ。昔の人は風景や肖像を絵で記録しているのだから。




 ピンポーン……。




 そのとき、また呼び鈴が鳴った。

 女は相変わらず隣の部屋で啜り泣いている。

 太一と彩香は恐怖を顔に貼り付けたお互いの顔を見合わせた。

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