死んで花実が咲くものか 57
駅舎の入り口脇に設置された自販機から、ガシャンと音を立ててお汁粉の缶が転がり落ちた。
腰を曲げて缶を取り出した治子は、両手で熱い缶を擦りながら、駐輪場入り口にあるUの字型の車止めポールに腰掛けると、ペコっとプルタブを持ち上げた。
熱い缶に恐るおそる口を付けて、ずずっとお汁粉を啜ってみると、意外と中身は温かった。それから、彼女は駅前を左右に走る通りを眺めた。通りにはまだ営業中の商店が並び、人の行き来も多く、先程までいたU公園の静けさが嘘のようだった。通りに沿うようにその頭上には電車の高架橋が空中を走っていて、それがまた彼女を驚かせた。電車は地面の上を走るものだというのが彼女の常識だったからだ。
さっきまでいた公園はこんな街中にあったのか。
と彼女は思った。
1人になって落ち着くと、夜風が身に染みて、そして、道行く人通りの多さが余計に手伝って、俄かに心細くなった。
負けた、負けた、負けた、負けた、負けた……。
彼女の頭の中に“ 負けた ”という言葉が、湧き水のようにコンコンと出ては消え、出ては消えを繰り返した。
身体と名前を借りてやると言ったのは、ハルに執行猶予を与えてやるという意味で言ったのであり、猶予期間中は罪悪感を投げ捨てろと暗に伝えたつもりだった。ただ、はっきりとそう伝えるのは、完全に負けを認めてしまうようで、できなかった。
現に、いまも治子は敗北感に苛まれていた。先程の自問自答はなんのことはない、ただベンチを離れる際に見せた空元気を演じるための燃料になっただけ。そこで彼女は改めて先のハルに対する発言が正しいものだったかどうかを吟味させられることになった。
そうこうするうちにこれからの生活への不安も頭をもたげてくる。
一体、自分がなにをして生計を立てているのかさえ、治子は知らないのだ。
そうだ、まだハルには聞かないといけないことが山ほどあるんだ。
治子は見知らぬ町で母親に置いてけぼりを喰らった迷子のようなものだった。個体としては24歳の彼女だが、中身は14歳なのだ。駐輪場の手前に佇む彼女の瞳には、いつからか涙が浮かんでいた。
お汁粉の缶がすっかり冷たくなっていることに気付いて、もうそろそろ戻ろうかと思ったときだった。
「あの、すいません。」
と、声を掛けられた。
声のした方を見ると、幽霊退治が終わったあとに別れたはずの2人がいた。
「あれ? どうしたんですか?」
2人がそこにいる理由が彼女には分からなかった。自分が駅に来るのを待っていたのか、それともこのへんでプラプラしていただけなのか。
「すいません、ハルさんはまだいますか?」
男の方が彼女に尋ねた。
聞けば、彼らはハルにお礼を言いそびれたので、お礼を言うために改札前で待っていたのだという。
「ハルさんなら公園にいます。」
言いながら、彼女は2人の正気を疑った。なにしろ、相手は幽霊なのだ。
幽霊にお礼?
「幽霊にお礼って、お2人も物好きですね。」
ハルのいるベンチまで歩きながら、治子が言った。
「まあ、幽霊っていうか、ハルさんですからね。」
「そうですね。私たち、あまりハルさんのことを幽霊だって思ってないですし。」
2人が口を揃えて言った。
「そうですか。」
そんなものか、と治子は思った。ま、この2人は幽霊にやられてたわけだし、幽霊の存在に肯定的なのも頷ける。ハルさん……か。
「あと、すいません。さっき、自分には名前がないって言ってたと思うんですが、それってどういう……。」
男がそう言ったとき、同時に治子が彼を睨んだので、彼は言葉の途中で息を飲むことになった。
たじろぐ彼を見据えたのち、彼女は表情を緩めて、
「別に、そのままの意味です。私には名前がないんです。幽霊が“ 幽霊 ”であるのと同じで、私はただの“ 人 ”なんです。アイデンティティは寝てる間に偽造されました。そうそう、だから偽名は治子。児島治子ですね。ハルさんと呼んでくださって結構です。似たようなものですから。」
と、そう言って、皮肉めいた笑みを浮かべた。