死んで花実が咲くものか 54
治子が選んだのは街灯から離れた、暗がりの中にあるベンチだった。日に焼けて塗装もボロボロになった木製のベンチに腰を下ろした彼女は、目の前に立ったまま座ろうとしないハルを改めて眺めた。
襟付きの白いシャツに紺色のプリーツ入りのスカート。靴は学校の上履きを彷彿させるような安っぽい造りで、靴下は履いてない。髪は真っすぐ肩まで伸び、目鼻立ちは良く、目元も優し気、唇は薄く、全体的に上品な印象。とはいえ、Sで育ったのなら、見た目はともかく中身まで上品なんてことはありえないけど……と治子は思った。
ハルはいま、上司の目の前に立たされ、怒られるのを待っている部下のように、治子の様子を見ながら黙っていた。
「座らないの?」
治子がハルに尋ねると、ハルは黙って治子の隣に腰を下ろした。とはいえ、控えめながら少し間は空けていて、友達同士という感じではなく、完全に上下の立場がそこにはあった。
「ちょっと聞きたいことがいろいろあるんだ。」
治子は目の前の風景を漠然と見ながら話した。
ハルはそんな治子の横顔をチラっと見た。
「まず、いまは、西暦で言うと何年なの?」
「2015年の11月。」
「2015年……、10年……か。」
そう言いながら、治子は自分の手を見た。
「次に、この身体は児島治子の身体?」
「ええ、そうよ。」
「ここはどこ?」
「東京都。」
「は? Qじゃないの?」
「あ、ごめんなさい。ここは東京じゃなくて、埼玉だった。あそこに橋が架かってるでしょ? あの橋の下を流れる川を挟んで向こうが東京、こっちが埼玉。」
「私はSで待ってろって書いた気がするんだけど?」
「死んだらSに戻れるから、生きてるうちはどこにいたって問題ないんだ。」
「あ、そ。で、どうして私が目覚めることになったわけ?」
「う~ん、なぜ治子が覚醒したのか、その理由は分からないの。特に意図したわけじゃないしね。ただ、思い当たる節がないわけじゃなくって、私が治子の身体の外に出ちゃったのに加えて、外で霊力を相当使ったことが原因かもしれない。」
チッと治子が舌打ちしたので、ハルの肩が竦んだ。ハルは治子が苛々しているのではないかと思い、気不味さを感じていた。目覚めることができて、治子は喜ぶだろうとハルは思っていたのに、実はそうでもないのかもしれないと考えると、自分はまた余計なことをしてしまったのかと思わされて、悲しくなった。
「おめえよぉ、人の人生を玩具にしてなにがそんなに楽しいの? 本気で殺されたいわけ?」
治子が目を見開いてハルを見やり、その手に霊気を集めた。集束した霊気はサイトの幽霊のそれを圧倒的に上回っていて、一撃でハルを消滅させられるレベルに達していた。ハルは息を飲んだが、同時にこれでいいんだと思った。これが10年前に課せられた私への罰なんだ……と。
「うん、私は治子に殺されたいんだ。ずっと、そう思ってた。」
ハルがそう言った瞬間、ガン! と凄まじい音が響いたかと思うと、ベンチの一部分が大破した。
「ほらぁ! おめえがまた変なこと言うから、ベンチが壊れたじゃん。公共物破損じゃん。」
もうハルには治子の心情が分からなくなった。もう謝って謝り尽くして、果ては死ぬことでしか償えないと、治子に殺される覚悟まで決めているというのに、彼女が余計に自分を喋らせるから、そして、自分が喋れば喋るほどまた彼女が怒り狂うことになる。
過度のストレスによりハルの意識は混濁し、思考はトッ散らかってしまって、もう頭の中で拵えた言葉を上手く表に出すことができなくなってしまっていた。
「日記読んでてずっと思ってたんだけど、ハルってホント、自分のことばっかりだよね?」
そんなつもりはまったくないのに……そう思っても、ハルは反論どころかその言葉の意味を尋ねることさえできなかった。
なにかを言えば、治子が怒る。
目覚めたことを喜びもせず、余計なことをしてくれたと怒りの矛先がハルに突き付けられているこの現状が、すぐに殺されるよりも一層、ハルにとっては辛かった。
もう、消えてしまいたい……と、気付けばハルは頭の中でその言葉ばかりを繰り返していた。