死んで花実が咲くものか 49
tamaは治子の剣幕を前に、彼女のことを“ 精神をやられて話が通じない人 ”のように扱ってはならないと考えを改めさせられた。
オレや美佳、幽霊と闘っていたことを忘れていたとしたって、いま、目の前にいるのは間違いなくハルさんじゃないか! ちょっと人を突き離すような言動も、それでいて実は助けてくれようとする姿勢も、なにもかもこれまでのハルさんと一緒だ!
彼の頭からは一瞬とはいえ美佳のことが抜け落ち、いま、目の前にいる治子に意識のすべてが注がれた。俄かに彼女が本当に幽霊にやられてしまったのだという実感が湧き、彼の頭は彼女に対する申し訳なさと感謝で溢れ返ってしまい、その頬に涙が伝った。
ああ、この大きく黒い瞳にオレは何度も映っているはずなのに、いま、その瞳にオレはまるで他人のように、初めて見る人のように映っているんだろう……。
「すいません、説明が必要でしたね。」
彼は彼女にそう謝ってから、いまの状況を簡潔に語った。
自分と美佳が幽霊にやられそうになっていたこと。
治子が美佳に憑依して幽霊と闘っていたこと。
そして、おそらく、治子は幽霊に負けてしまったのだろうということ。
「え? 私、まだ負けてませんよ。」
彼の推測に対して、彼女は眉をひそめたが、彼はその反応を無視して、
「だから、オレはいまから美佳をここに連れてきます。ハルさんが憑いていない彼女は幽霊に対して無力なんです。急がないと、彼女が殺される。」
ここまで経緯を説明して、彼は一礼して自分の腕を掴んでいる治子の手を解こうとしたが、彼女の手には思いのほか力が加わっていて、なかなか離れてくれなかった。
「ちょっ、離してもらえませんか!? 早くしないと、人が1人、死ぬんですよ!」
さすがに苛立ちを隠せず、彼は半ば怒鳴るように彼女に言った。
「まあまあ、そう焦っては為せることも為せなくなります。ちなみに、幽霊はどこですか?」
興奮気味の彼を宥めるように彼女が穏やかに言うので、血の気が下がった彼は公園の真ん中辺りを指し示した。
「暗くてよく見えないけど、2人、人がいるみたいですね。」
と彼女が確認するように言った。
「さすがっスね。そのうち1人が幽霊です。ちなみにオレには見えません。」
「それがふつうですから。そして、ふつうであることは素晴らしいことです。では、参りましょうか。」
そう言って彼女はスッと立ち上がると、落ち着いた足取りで公園の真ん中へ向かって歩き出したが、街灯の明かりから公園内の闇へ消えようとする彼女の後ろ姿を見て、彼は居ても立ってもいられず、彼女の肩を思わず掴んだ。
「ハルさん! ハルさんはいいです。ここにいてください。」
絞り出すように彼は彼女に訴えた。
対幽霊で彼女ほど頼りになる存在はなかったが、それでも彼女はすでにやられてしまっているのだと考えると、これ以上彼女に出張ってもらうわけにはいかなかった。また、彼女が歩き出したとき、一瞬でも彼女のことを頼もしく感じてしまった……彼はそんな自分自身のことが許せなかった。
だが、彼の思いも虚しく、彼女はまるで肩に付いた糸くずでも払うように彼の手を払いのけると、
「ハルさんハルさんってさっきから呼んでますが、誰の名前ですか? それ。」
はッ? まさか自分の名前まで!?
「私には、名前がないんです。」
ないってなんだよぉぉ!!
ふつう、記憶を失って名前を忘れたとしても、思い出せないってだけで、ないとは言わないんじゃないか!? と彼は思った。そして、それだけ彼女の精神が破壊されてしまったのだと思うと、凛とした彼女の表情も憐れに見えて、思わず顔が歪んだ。
「それより早く行きましょう。美佳さんを助けたくはないんですか? 美佳さんが死んでもいいのなら、私はなにもしません。でも、別件で2人のところには行きますけどね。」
踵を返して再び歩き出した彼女のあとを追いながら、彼は心の内で声にならない慟哭を上げた。
――――――――――――――
「くっそ婆が……、お前、一々面倒臭い奴だなぁ!!」
治子と対峙している幽霊はtamaに霊気が浸食していく手応えがないことに苛々していた。目の前にいる女がなにかしているようには見えなかったが、きっとこいつがまた邪魔しているに違いないと幽霊は思った。
邪魔さえなければ針に糸を通すよりも簡単な作業であることが余計に幽霊を苛立たせた。
tamaの件といい、miyaの件といい、一矢報いることもなく退散するのは癪だったが、なにもできないのであれば、幽霊としても命を賭けてまでいまここで粘る必要はなかった。幽霊にもまだ治子の底が見えていなかったのだ。疲弊し切っているように見せて、どこまでも喰らい付いてくる……という感じ。
それが、やっとのことで閃き、手に入れたチャンス。死に物狂いで打ってくる治子を避けて、ようやく作った時間。さすがの治子もスッポンのように幽霊にずっと喰らい付くことはできなかったのだ。
なのに、なにもできないでいる!
婆!
婆!
婆あああ!
てめぇ、ホントに何者なんだよぉぉぉ!?
頭の血管が切れてしまいそうなほど、怒り心頭に達しているところ、不意に治子以外の気配が近づいてくるのを察知した幽霊が驚愕の声を発した。
「な、なに!? この霊気は!」
幽霊の声に釣られて、治子も気配がする方へ目を向けると、そこには背後の街灯の光に輪郭を縁取られた、2人の影があった。治子も2人の影の方から発せられる霊気に驚いたが、なんとなく2人の正体を察すると、ポツリと呟いた。
「ああ、ホントに……。ふふ、私も、お前も、もう終わりだよ。」